五月に降る雨を総称して“五月雨”というのであれば五月雨を背に彼女は別れを告げた。正確に言えば彼女だった者、もはや知った者でもない女は「そういうことで」と言い残し、傘もささずマンションのふもとでタクシーを待っている。傘をささないのは意地ではなく、この雨が本来の五月雨ではないからである。

 男は「残念」などとは微塵も思っていない様子でタバコに明かりをともす。どこかの過去の女が吸っていた緑の箱のものを相変わらず吸うのだが、その女が東の女だったのか西の女だったのかは分からない。

「……ふぅ」

 ガムの味の煙を肺の奥までかきこんでは口先をとんがらせて吐く。男は別にとっかえひっかえしているわけではなく、失ってしまったものを埋めている感覚でいる。その感覚がために、さっきの彼女では満たされなかった何かを満たすため浮気をしてしまったというだけのことである。別に悪い気はしていない。足りなかったからとっかえた。トイレットペーパーは無くなってから買いに行くような男である。

「………」

 最後の煙を後悔とともに吐き捨てると男はコンビニへ向かった。シャンプーがきれていることを思い出したのだ。

 

 誰の敷地か、まるで整備されていない林の隣にある暗がりのコンビニは男の勤め先でもある。入ってすぐ左の化粧品の類などが並ぶ棚にある、赤いパッケージの保湿リップクリームを見るたび、男はもう一つ前の女を思い出す。このコンビニに通っていた女との不思議な記憶を思い出す。

 

 ちょうど一年ほど前、男は相変わらずコンビニで働いていた。そこに女は毎週定刻に、会社帰りであろうか、スーツを着て缶コーヒーと赤のパッケージのリップクリームを買いにやって来る。男と女はバイトと顧客の関係に過ぎなかった。女はたまにプリンを買うので男は彼女の機嫌を推し量ることが出来た。きつめの缶チューハイを買う夜もあるにはあった。

 男が毎週リップを買いに来る保湿女のことを認知してしばらくたった頃、駐輪場でタバコ休憩に勤しんでいた男はその女と邂逅した。

「あっ」

 先に声を漏らしたのは女であった。男は現在独り身であったので、この「あっ」は切られた火蓋の音に等しかった。

「ん、いつもありがとうございます」

 勿論バイトなので思ってもない。

「いえいえ、こちらこそ」

「今日もリップとコーヒーですか」

「そう…ですね。リップを。すぐ乾いちゃうんです、唇。」

「へぇ」

 彼女の唇にそっと目をやる。とてもそうは思えないほど艶やかで、きれいな形をしている。

「おタバコ吸われるんですね。そんな風には見えないのに」

「ええまあ。前別れた彼女が吸ってたんですよ」

 男はポケットに入れた緑の箱に目をやる。

「そうなんですね」

「地元で就職するって言って広島に帰っちゃいました」

「あらら、それは寂しいですね」

「はい、そろそろ俺は…仕事戻ります」

「すいません、時間を」

「大丈夫ですよ、また」

 男は少しの会話だったが、心底いい女だと感じた。さほど年齢も変わらないし、男の影もない。初対面の男にも動じない気品の高さも感じた。今まで出会ってきた情緒の薄っぺらい空っぽな女とは違う、何か真に美しい女を感じた。

 そのふわっと感じた美しさは日に日に明らかになっていく。休憩の時間、駐輪場で会うたびに男は女に話しかけ、女が男に話しかける日もあった。男は女がやって来そうな時間帯に休憩を取ったりもした。レジを挟んで話すときよりもラフな会話を楽しみたかった。

 

「この赤いパッケージのリップ、これがいいんです」

「いつもそれですもんね、毎週それだ」

 男は少し疑問に感じた。一週間でなくなって買い替えなければならないような品には思えない。

「一週間で使い切れるんですかそれ」

「んー、少しでも乾燥するのが嫌で、多めに塗るってのはあるんですけど」

 女は少し躊躇したようだが続けた。

「幻のリップ、って知ってますか」

「え?」

 男は唖然とした。この淑女が、保湿のためのリップには不釣合いな枕詞をつけたのだ。

「幻、ですか。知らないっす」

「都市伝説みたいなもんなんですけど、絶対あるって思うんです。調べれば調べるほど」

「それってどんなリップなんですか」

 女は熱くなりながら続けた。

「簡単に言うと、そのリップをつけて相手にキスをするとその相手は自分に完全に惚れる、らしいです」

「…そんなんがあるんすね」

 秘密道具の類の話である。とても信じられるようなものではない。

「リップの成分が相手の唇に染みて…まあ信じてるのは私くらいなんでしょうけど」

「えー、でも、面白そう」

「実際、これを使ってるとしか思えない人の書き込みがあったんです。意図して使ったかどうかは分からないけど」

 あまりにもいつもと違う様子でつらつらと話す彼女を見られて男は嬉しかった。

「それであんなにあのリップを買ってるんすね」

「はい。その幻のリップは市販の商品の中に紛れていて、買ってフタを開けると分かるそうです。金色の紙切れが入ってるらしくて」

「へぇ…」

 男はチャーリーとチョコレート工場みたいだと思った。

「チャーリーとチョコレート工場みたいですよね…」

「それ、それ思いました!」

「やっぱそうですよね」

 意味の分からない噂話だったけれど男は楽しかった。そして、女もとても楽しそうだった。

 男は自分に笑顔を振りまいてくれる、いつもは誠実で隙を見せない女に純粋な好意を抱いていた。長く連れ添った女と別れ、虚だった日々に彩を与えてくれる美人がいれば当然といえば当然である。

 

 女が赤いパッケージの保湿リップを買う理由を話してくれた日からも、二人の歓談は何度も行われた。家族のこと、仕事のこと、友人のこと、二人は腹を割って話し合える関係になっていった。そして、恋だの愛だのの話もするわけである。

 男は広島に帰った女の他にも愛想をつかされた女たちがいたこと、それ以来自堕落な生活が続いていること、長年の友人にも話さないようなことまで喋った。女を信頼していた、ということもあるだろうが、反対に、そこまでの関係ではないからこそ喋れたというのもあるかもしれない。

 

女もお返しに、ということではないが、自身の話をしてくれた。

「こんな駐輪場で話すようなことじゃないんですけど…」

「ははは、何を今更」

「恋愛観、っていうんですかね。人それぞれあるでしょうが、そんなのはどうでもいいんです」

「…?」

「寂しいから一緒にいるとか、つまらないから一緒にいるとかでいいと思うんです。価値観とかそういうのは二の次で」

 女はすこし切なそうに喋る。

「深いすね。でもそれが、あなたの恋愛観、じゃ?」

「そうかもしれないです」

 その後も女は、過去の男のことや今は独りであることなどを語ってくれた。

 田舎のコンビニの駐輪場で語るには多くを語ると、胸ポケットから例の保湿リップを取り出し、疲弊した唇に潤いを与えた。

「そのリップ…」

「ん、はい?」

「ちょっと前、相手を虜にできるリップが欲しいって言ってましたけど、恋愛観の割には…」

「……?」

「要らなくないですかね…?」

 幻のリップのようなものは自身の恋愛観を押し付けるために使うものである。そう男は考えた。

「あー。怖いんだと思います」

 女はちょっとだけ微笑んだあと続けた。

「寂しくない時間、んー、満たされてたり楽しい時間ってのは早く終わっちゃうじゃないですか。ずっと続けばいいのにって思いません?」

「そりゃそうですよ」

「でもずっと楽しいなんて難しいし、ずっと一緒にいられる保証だってないですよ。ずっと一緒にいてもらえる女っていう自信もないんです」

「あー」

「だから、ですかね」

 そう言うと女は胸ポケットから再びリップを取り出した。

「なるほど、そりゃ理にかなってますね」

「はい」

 男は心の底から女の考えが合理的だなんて思ってはいない。自分の恋愛観を押し付けていないとはとても言い切れない。

 

「俺でよければずっと一緒にいますよ」

「え」

 口をついて出た言葉だった。

「俺でよければ…」

「ず、ずっとですか」

 女の声はわずかに震えている。

「ずっとです。雨が降れば傘さしますし、風邪ひきゃポカリ買ってきます。アクエリも買ってきます」

「ずっと…」

「結婚とかは、俺が定職に就けるまで待ってください。住むとこは一緒に出し合いましょう。あと。幻のリップは要りません」

 男は女の顔を目を見て堂々と言い放ってみせた。邪な思いが無かったとは断言できない。彼女が少し弱っているからチャンスだ。今を逃したら当分ないぞ。そんな策略が絡んでなかったとは言わない。けれど、男は言い切ってみせた。

 女は喉を整え、震えそうな声を正すと男の目を見た。

「お願いしてもいいですか」

 

 そんな劇的なプロポーズから二週間後、二人は同じ屋根の下で過ごすことになった。最寄りの少し大きな駅までは歩くとしんどい程度の距離にある、手動ロックのマンション。この時期には珍しいピンク色の花が植え込みに咲いている。

 一緒に住めば見えてくる嫌なところも二人なら飲み込めた。ずっと一緒にいるという覚悟を持つ女の努力が特にだが、二人が特に過干渉しない性格だったのが良かったのだろう。孤独を感じることも、満たされた現状に終わりを感じることもなかった。

「ねぇティッシュ切れてるよ」

「あー、通販で買っとくわ。何か他頼む? リップとか」

「まだあるけど…一応買っといて。ありがとう」

「うい」

「いつもの赤いのね」

「うい」

 いつだって女はリップによるケアを欠かさなかったが、幻の、金の紙切れが顔を出すことは一度だってなかった。だが、彼女が赤のリップを使い続けるのには愛着と縁を感じていたからだ。幻のリップのことなんてどうだってよかった。

  男は、というと相変わらずコンビニ勤めは変わらず、ただ就職を目指し奮闘し、誠意を見せようとしている。

 誰が見たっていい女だし、自分とずっと一緒にいようとしてくれる。こんな好条件、どんなに探したって見つかりはしないだろう。

 

 巣を作り、両方の親がともに子育てをする鳥類についての話だが、基本はオスが餌を取りに行き、メスは巣にて餌を待ちつつ子供の世話をする。メスは勿論より多くの餌を得られるオスや、体格に恵まれたオスを選ぶ。そしてオスからしてもメスの持つ遺伝子的な要素は大事な選別条件になってくる。まあそこに関してはオスもメスも変わらない。

 決定的に違うのは、メスのみが自身の体内から卵を産むということである。それゆえにメスは自らの体内で受精した時点で、自身の遺伝子を後世に残すという使命はほぼほぼクリアしたようなものである。オスにはメスから生まれた子供が自分の遺伝子を持つという確証がない限り、使命の進捗も分からない。だからたくさん種をまくのである。人間も一緒である。

 実際、遺伝子的に恵まれたオスのトリが複数の巣に複数のパートナーを設け、不倫のような関係を保ちつつ同時に子育てを行う例が確認されている。メスがそれを受容するのは、優れた遺伝子を取り込んだ自身の子供が生まれるという確証があるからである。人間、特に日本人の場合なんかは嫉妬心があるからそう上手くはいかないが。そしてそんな不倫が出来るのは類まれなる魅力を持ち、メス達を虜にしてしまうオスだけである。

 

 男がいつも通りコンビニの控室で業務報告を書いていると、女から一報があった。というか、今に始まった話ではないが、時折「さみしいから来て」だとか「今すぐ一緒に寝よう」だとか、連絡が来る。そして今日も。いつでも一緒を誓った手前なるべくの努力はするが、ここまで迫られるとは思わなかった。向上心とやつであろうか、さすが、人間である、ここまでの文明をつくりあげてきた。

「センパイ、休憩もらいます」

「うぃ」

 先月入ってきた大学生の女の子である。気さくな性格で手際もよく、早速主戦力の一人である。気さくなのか舐めてるのかは知らない。

「わり、ちょっと早めに上がるわ」

「ん、はい」

「そこんレシートは置いといて」

「了解す。気ぃつけて」

 駐輪場であの女と逢ってなければ今頃は、あの女子大生となんとか上手いこといくように努力していたのかもしれない。そもそもよりどりみどり、華の女子大生がフリーターを選択肢に入れることもないだろう。そんなことを考えながら、今晩要るものだけを買ってコンビニを後にした。

 

男が昨日ほったらかしにしたレシートを整理していると、レジに入っていた気さくな女子大生が控室に戻ってきた。

「センパイ、クレーマーです」

「クレーマーって言うな」

「文句言ってます。モンカ―です」

「はいはい。んでなんや」

 男は面倒くさかったので流した。

「異物混入的な。でもそれってメーカーに言うやつですよね」

「確かに」

「ブツ置いとくんでメーカーに言っといてください」

「ブツ言うな」

「代わりの品渡しといたんで、書いといてください」

「おー、やるやん」

 この娘、手際が良すぎるのである。男がひたすら感心していると、そのブツが目に入った。

「リップ…」

 言葉が漏れた。そして異物混入という言葉が忘れかけていた都市伝説を引き連れ、可能性が脳裏を駆け巡る。

 反射で保湿用リップのフタを開ける。そこには異物、もとい「幻」を示す金の紙きれが入っていた。

「………」

 言葉にならない困惑が控室をしばらく支配した後、悪意という悪意が男の心を染めた。

 

 そこからは早かった。簡単にキスが試せる水商売の女と唇を交えた。その被験者一号が執拗に連絡をよこしてくるようになる。その被験者が四人、五人となっていくうちに男は幻を確信した。

 

「ねえ、最近忙しすぎない?」

 消灯間際、女は少し不機嫌そうに尋ねた。

「しょうがないでしょう。人手が足りてないんだし」

 男はもう「ずっと」だなんて微塵も頭にない。

「明日は?」

「明日は午前だけ」

「夜いるなら、まあ」

 男のこの塩梅が崩れかけつつあるのは自分でも目に見えていた。だが、この比較的偽りのない関係を崩すわけにもいかないと思っていた。

「そういえばさ、リップ塗るんだね」

「ん? ああ、最近乾燥すんだよ」

「もうすぐ梅雨だよ」

「じゃあもうちょいの辛抱だ」

 男は天井のどこかを見つめ返事する。

「言ってくれればリップくらいあげるのに」

「ほんと? じゃあ次から貰うよ。でも、誰かみたいにそんな沢山はぬらないけど」

「ふふ、寝よ」

「だな」

 

 男が女性の唇からやがて、全てを我が物にしうる代物を得てからひと月が立つ頃、彼はまるで比肩を許さぬオスのトリのようだった。

 無理やりでもなんでもいい、唇を密着させてしまえばよかった。毎週のように密室で顔を突き合わせるあの女子大生がどうなったかは言うまでもないし、彼女はほんの一例である。特に社会的地位、責任のない若盛りの男がこんな強大な力を得ては、歯止めが効くことの方が稀であろう。男がどこの誰の影響でタバコを吸うようになったかを忘れたのはこの頃である。

 

 全てが上手くいっていた男のただ一つの想定外は、女の嫉妬心である。疑い深い日本の女がこのような大々的な浮気に気が付かないはずもない。バイト以外の用事が増えるにも関わらず、金銭的には以前よりもなぜか余裕がある。

「あのさ、副業でも始めた?」

「え、なんで」

「なんかそんな気がして」

「ほん」

 今思えばこの空返事が良くなかったのかもしれない。

「女いるでしょ。他のさ」

 女の声は震える。悲しみに、だ。

「いやいやいや、いないって」

 考えもなしに否定はしたものの、もはや苦しい状況になっている。このままシラを切り続けられると思うほど男もバカではなかった。

「落ち着いてよ、時間をあんまりとってあげられなかったのは悪かった」

「そんな上からな…」

 男は女の震える肩に手をやると、覚悟を決めた。

 本当はこの目の前にいる女だけにはこれを使いたくなかった。今まで唇越しに魅力を偽ってきた女どもは、自分には完全に惚れていたが、そこにあったのは人間古来の愛の形そのものではなかった。

 ほんの数か月前に見た人間らしい出会い、そして愛を、この先一生見失う気がしてならなかったのだ。だからこの女と触れ合う時だけは、と。

「…そのリップって」

 男はどこからと「あの」リップを取り出すと慣れた手つきで塗った。この成分を相手の唇に染みさせさえすれば、全てのカタがつく。

「ほんとに悪かったって思ってる」

「ちょっと、そういうのは別に」

 男は女と無理やりにキスをした。感触、感情、そんなものなどない、目的がそれらではないキスを。

「今日はもう寝ようか」

 男は悪びれもなく放った。

「ちょっ、話はまだ終わってないでしょ!」

「え」

 男は思ってもいなかった、経験したこともなかったことに驚いた。

「ご、ごめんね」

 男はすかさずリップを再び塗ると流れるままにキスをした。

「いやちょっと」

 女が両手に力を入れ強引に彼を突き放すと、男は茫然とした表情を見せていた。

「おかしいよ? リップなんて塗らなかったじゃん」

 

 女が気づくまでは少し沈黙が必要だったが、やがて全てを把握した。男が分からなかったことまで把握した。

「別れよっか。今までありがとね」

「…」

 男は受け入れることも抗うこともしない様子でいた。

「そのリップ、持ってたんだね」

「…うん」

 男はただその場に座り込み絨毯のしわを、その影を見るのみだ。

「散々…いつから?…ま、いいや」

「……うん」

「私さ、保湿は欠かさないし塗りすぎるから。このリップのせいだね」

 そう言うと女は最後、何も言わなかった。

 

 嘘のないただ一つの愛を失った男はあれから、ただ平穏に暮らしていた。女がいたこともあった。ただ、リップはもう使わなかった。あの女がどうしているかは知らない。

 過程が大事、なんて綺麗ごとでまかり通るような世の中ではないが、確かに大事なこともそこにあるように思えた。あの時、あの女はあのまま男の虜になっていた方が幸せだったかもしれない。少なくとも、女にとっては。

 

 そんなことをほんの数秒の内に思い起こすと、男はアルコール売り場に赴いた。

 シャンプーと度の強めのアルコールを買うと男はコンビニを後にした。

 

「もしもし、あのさ、今から飲まね?」

 男は数少ない友人に電話をかける。

「あ? どした。ついに振られたか」

「そんなとこだよ」

「浮気してっからだよ。昨日もその、カノちゃん、だっけ、のとこ行ってたじゃねえか」

「まあな」

「てめえ悪びれねえな。慰めてやろうと思ったのによ」

「嫌なこと思い出しちまってよ」

「そうかい」

「だから飲もう」

「だったらさ、その前に奮発してよ、フーゾクでも行こうぜ」

「ヤだよ。俺相手いるもん」

「はぁ? 浮気相手かよ」

「そうだよ。俺今、カノちゃんの虜だもん」