皆様、今日は。ナマステ
初めに、突然に長らくのお休みを頂きましたことを感謝申し上げます。
3月の初めに帰って参りました。
久しぶりの日本はどこもかしこも春の気配と、うららかな日の光に満たされていて、輝いて見えます。
そして、平和である事の幸せをしみじみと噛みしめています。
あきまへん。こないしてても涙が出て来る。なんやろ。日本人である事の嬉し涙ですかねー。
ネパールからインド再びネパールヒマラヤに旅して思った事は、ただ、ただ日本人である事への感謝でした。
昨年9月。ネパールの新憲法公布に伴い、インド、ネパールの国境ではネパールに向かう物資の流通が停まっていました。
こんな道でも、これ程の交通量があったんだ!と、その事に驚きました。
10月に入ってからガソリンなども割り当てになり、タクシーも走らず、生鮮食品などは見る事すらできなくなったそうです。
11月に入ると事態はより深刻化して、病院で使う医薬品が不足してきました。
ネパール国内で作る薬の材料の不足、それを運ぶガソリンなど燃料の不足が原因です。
弟からの連絡を受け、私達は取り敢えず対症療法を取ろうと考えました。
弟が以前カンボジアに居たときにも、途中で医薬品や石けん、歯磨き、浄水錠などの清潔用品を送りましたが、それと同じ要領で直接届ける事にしたのです。
「私が行って何が出来るのだろう?」は、行けば「何か出来るはず」に。そして行きさえすれば「何でも出来る」に変わりました。やること、やれる事はそれこそ無限に有りました。
現地では他に教材の作成。環境の整備、衣食住の清潔、危機管理、、何から手を付けてもオッケーです。
私は特に衛生管理と危機管理について説明する時間を頂きました。
それこそ、きれい事では無く、子供達に、汚く不潔な大人の存在や、悪い大人や恐い大人が居る事を教えたかったのです。
そして友達に関心を持つ事。助け合う事で生存率が上がるということ。 悪い事には悪い報い。良い事をすると良い報いがあり、それが未来の自分を作る。という当たり前の事を身につけて欲しかったのです。
人から受けた善意は、「ラッキー」ではなく感謝するべきものなんだよ。そして次は自分が善意を与える者になろうね。ということを、随分通訳の手を煩わせはしましたが、伝える事が出来たと思います。
ご存じの通り、ネパールは 2015年4月25日12時現地時間,ネパール中西部で発生したマグニチュード7.8の大地震により,ネパール及びその周辺国に甚大な被害をもたらしました。
さらに、5月12日カトマンズの東北東約76キロ地点を震源とするマグニチュード7.4の余震が発生し、9,500名以上の死者と建物は約60万棟が全壊、約28万棟が一部損壊し、被災者数は約280万人に上っています。
日本からは,当面必要な支援として,学校,住宅,公共インフラの再建を中心に,総額320億円超(約2.6億ドル)規模の支援を実施する旨表明するとともに、緊急援助物資の供与(テント・毛布2、500万円相当)と,国際緊急援助隊(救助チーム,医療チーム,自衛隊部隊)を派遣しました。
ネパール政府によれば,ドナー全体で約44億ドルの支援が表明され,ネパールの復旧・復興のため国際社会が積極的な支援を示すとの初期の目的は十分に達成された。
としています。
確かに、日本の企業が支援整備した住居は、伝統的なレンガ造りの様式を残したまま、内側に補強の板張りをして強度を保つ工法を新たに考案し、幾つかの地域に於いて成果を残して居ましたが、全体から見れば、それは本当に一部だけでしかありません。
2015年12月の時点で、住居や校舎、建造物の復興速度は遅々として進んでいません。
昨年、地震の後、日本から、ボランティアの団体、学生達がJICAと調整してそれぞれの地域に入ったようですが、労力を提供する予定の所は資金不足に悩み、資金を確保してきたところは資材不足に悩み、いずれも充分な成果を上げられずに帰国しています。
カトマンズの古い寺院や建造物で壊滅的な被害が出た場所は、道路こそかたづけられてはいるものの、(6月より一般に公開されていますが)危険区域は多く残され、未だに立ち入り禁止です。
パタンダルバースクエアなどは、つっかえ棒で倒壊を支えているという状況です。
それらは、復興のための方針が、担当部署から明確に示されていない事、必要な資材、費用が現場に届かない。ということのようです。
それらは、インドからの流通が停滞する以前からの問題でした。
つまり、賃金の問題で現地の作業員が僅かしか就業出来ませんし、必要な動力機械がありません。
ネパール政府が割り当てた復興費は、役人達によって、途中で細く細く削られていくのだそうです。
私達は皆様からのカンパや義捐金を直接運用する方法に切り替えましたが、それが一番早く確実に成果を上げる方法だったのです。
ところで、皆様は、ネパール という国にどのようなイメージを持って居られますか。
私の持っていたイメージは、親日国。日本の国際連合常任理事国入りを応援してくれている。シェルパ族に見るような、心優しく忍耐強い人達…などなど。でした……
そうですね。確かに民衆である多くの人々はそうなのだと思います。
しかし、その中にも子供を瞞して連れ去り、売り飛ばす悪魔が何人も潜んでいました。 震災後、売られて行方不明になった子供は500人を超えると言われています。
弟達が支援していた学校からも、一人の女の子があるときから行方不明になっています。
今、ネパールの政治は小康状態です。
しかし、対抗する野党は共産主義のマサル派とネパール共産党の毛沢東主義派が手を組んだ勢力であり、中でも毛沢東主義派は武装した私兵、共産ゲリラを擁していて、ネパール国軍とにらみ合っています。統一の気配は見えません。
その上政治の仕組みが複雑です。上意は下達途中で幾つかに分岐されますからスムースに機能しません。システムを早く動かす手段はワイロなのです。
国民が貧しく、発展が滞り何時までも環境が整備されない国。
何故国がそうなるのか。その原因は、政情を不安定にする私利私欲にまみれた勢力が国内に存在することである。と断じることが出来ます。
幸いな事に、我が国に於ける、暴力で国政を転覆させようとする共産党、日本貶しの社民党、売国奴の民進党の力は僅かですが、それでもこのような国の安全と信用を阻害する勢力の存在が無ければ、日本の平和、憲法の改正、教育、震災復旧復興事業、国際信用度は今より著しく向上していたに違いありません。
だいたい、国歌を歌わない。国旗を認めない。国会の開会式は天皇陛下のご臨席があるからと言ってでてこない…。こんな政党が何故日本の国会にいるのかが、私にはわかりません。
あら、またまた熱くなってしまいました…。
今回はネパールからインド。インドから再びネパールへと旅をしてまいりました。
流通や車両燃料の問題も、待ちさえすればどうにかなるまでになり、カトマンズ・デリー間の国際バスはスナウリ国境を何とか通過することが出来ましたけれど、、、インドのイミグレは、ホントに仕事をしないというか、訳がわかりませんし(怒)、ツーリストをカモにする偽チケット売りは溢れていますし。
でも、こういう人に多く接すると、不思議と噓が解るようになり、笑ってしまいます。
「なーるほど。そうやって瞞すのね」みたいな。
つまり、聞きもしないのに、親切に何か言ってくる人は必ず何らかの意図を持っていますので、言葉がわからないフリをして(英語でも日本語でも言ってきます)、取り合わないこと。
反面、こちらから訊ねた人は、たいてい正直ですから、行きたいところも、知りたい事も、二人以上に自分で訊ねて、決定します。
そんなわけで、しばらくは弟が一緒に居てくれて、私をガードしてくれていたのですが、
私の尊敬する先輩が自己改革をしたOSHOコミューンに私も入ったので、ビザの面倒くささも有り、(私は大阪で予め取っていたので)先にネパールへ戻りましたから、後は気ままな一人旅をしておりました。
旅行的な記事については、とても多くの方が秀逸な記事を書いておられますので、そちらにお任せする事にして、なんとなくの画像を適当に貼っておきます。
りんごによく似たどこかの人をイメージにしているだけなので、パッツンパツンに膨らんだ顔を追求したりしちゃだめですからね。
インドと言えば、ガンガーなので、行きました。聖なるガンジス川へ。
こんな感じです。
折角だから私も沐浴をしよっかな。
と思ったものの……。
よく見るとこんなだし……
川にはありとあらゆる汚物、糞尿、プラゴミや生活排水、工場排水が流れ、私は見なかったけれど、人の死体まで流すらしい。
世界の汚染された河川トップをインドネシアのチタルム川と争う川。
団体で沐浴に来た日本人の方がそう言うてました。
女性専用トイレなんですが、使う人が極端に少ない(日本人だけ?)
有料ということもあるにせよ…
みんな、どこでしてるの??? 沐浴する人がこのトイレ使う意味ってあるのかしら。
そんなわけで、沐浴はパスして南インドへ。
えーと、何でしたっけ。
ミナクシ寺院とカーパレーシュワラム寺院だっけ?
そして再びネパールへ
下の画像は頂き物のネパールの画像です。
今や食料に並び、ガソリンに並び、イミグレに並ぶネパールの人々。
でもですよ。ネパールの大統領、最高裁長官、連邦議会議長のトップ3人が女性なのです。
そう聞けば、ガンバレって応援したくなりますよね。
あっ首相が男性でしたけど。ま、いっか。