後の禍根~南部晴政3 | 青森の鉛筆

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今日で最終回、南部晴政の生涯についてお伝えしようと思います。

「三日月の丸くなるまで南部領」と称えられるほどに領土を拡大した南部晴政。

しかし、南部晴政には自分の跡取りとなるべき嫡子がおらず、娘が2人いるだけでした。

南部晴政は、先の安東氏攻めで功績のあった田子信直に自分の娘を娶らせ、養子として迎え入れました。

ところが、跡取りも確保し、南部家も安泰かと思われた時、南部晴政に実子の晴継が誕生しました。

実子に跡を継がせたいと考えるようになった南部晴政は、田子信直との中が急激に悪くなり、挙句の果てには田子信直の暗殺も考えるようになります。

1572年、田子信直が川守田村の毘沙門堂に参拝した際、手勢を率いて銃撃したとも言われています。

南部晴政に疎んじられた田子信直が、重臣の北信愛の居城かくまわれていた後の1582年、南部晴政は病死しました。

南部晴政の死後、実子の晴継が継いだものの、晴継もまもなく死去し(病死・暗殺など諸説あり)、その後は半ば強引に田子信直が南部宗家を相続しました。

家督相続時の混乱は尾を引き、九戸政実や大浦為信の反乱などの内部分裂を招くこととなったのです。




参考サイト下矢印

武家家伝_南部氏 タンチョウ

南部晴政( Wikipedia より)



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