三日月が丸くなるまで南部領~南部晴政2 | 青森の鉛筆

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今日は、昨日の続きで、南部晴政の生涯について、紹介したいと思います。


今回は、地名が多く出てきているので、地図を描いてみました下矢印

青森の鉛筆-北奥州地図

赤いマーカーで描いたところは、南部晴政時代の南部領です。

家督相続後の1566年、内部分立していた家中を纏め上げた安東愛季が、秋田から岩手・鹿角に攻め込んできました。

この時は例年より早い雪と、長牛城主の一戸友義の奮戦によって撃退できたものの、翌年1567年、再び安東愛季は6000の手勢を率いて侵攻してきました。

安東の鹿角侵攻に対して、南部晴政は同じ南部家支流の東・北・南氏の軍勢を長牛城に送ったものの、度重なる安東氏の攻撃によって、長牛城を落とされてしまいます。

一連の安東氏侵攻に対して、南部晴政は義理の息子の田子信直を大湯に、九戸政実を三ヶ田城に派遣、南北から鹿角を挟撃する形をとり、鹿角を安東氏から奪還することに成功しました。

一連の対安東氏戦の家庭で、八戸・九戸氏などの有力者を味方につけた南部晴政は、北は下北半島から南は北上川中流部を支配下に収めました。

その勢いは、「三日月が丸くなるまで南部領」と称えられるほどになったのです。



参考サイト下矢印

武家家伝_南部氏 タンチョウ

南部晴政( Wikipedia より)



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