その最期・津軽為信8 | 青森の鉛筆

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皆さん、こんにちは


青海林檎です


今回でいよいよ最後、関ヶ原後の津軽為信の様子をお送りします。




関ヶ原後、津軽の地に戻り、藩政に取り組んでいた津軽為信。


長男の信建は京都にそのまま残っていたとも、津軽に戻ってきたとも言われ、次男の信枚は津軽にいたともいわれています。


晩年は、信建や信枚を藩主の代理に立てたりして、余生を過ごしていたようです。




そんな中、慶長7年(1602年)に、「天童事件」が発生します。


信建には熊千代(大熊とも)という嫡男がいました。


信建は本拠の堀越城に、為信は別邸で暮らしていたそうなのですが、為信の別邸にいた熊千代が、顔に大怪我をしてしまったようなのです。


為信の不手際が原因の火傷といわれ、熊千代はそのまま別邸に滞在することに。


一方の堀越城にいる信建は、嫡男がいつまでの帰ってこないことを不審に思い、家臣の天童兄弟(名前は不明)を使いに出し、為信に熊千代を帰すように言いました。


一方の為信は、何を考えていたのか分かりませんが、天童兄弟を追い返してしまいます。


あるいは、この頃の為信は、少し耄碌していたかもしれません。


信建の命で別邸に行き、為信に追い返され、また信建の命で別邸に赴いたりと、天童兄弟は動いていました。


こんなことを繰り返す内、信建は短気を起こし、天童兄弟の親族を殺してしまいます。


理不尽にも身内を殺された天童兄弟は、信建のいる堀越城に行き、信建を殺害するために、乱闘を起こします。


最終的に天童兄弟は成敗されたのですが、信建はあわや天童兄弟に殺されそうになる危険に晒されてしまいました。


城の構図を知っている者の反乱とはいえ、本丸までやすやすと侵入された事態を重く見た為信は、古くから自身に仕えていた沼田祐光の進言を受け、高岡の地に新しい城を建てることを決めました。


これが、高岡城、後の弘前城です。




その後の詳しい為信と信建の関係性は分かりません。


ただ、信建が京都で暮らすようになったこと、父親の名代として徳川幕府内でも活動していたことを考えると、次の弘前藩主として、活動していたようです。


ただし、慶長12年(1607年)、信建は京都で病を患い、死の床に付きます。


同じように病を患っていた為信は、信建の危篤を聞き、わざわざ津軽から京都まで、見舞いに行くことにします。


次男の信枚が父親の上洛に反対していたようですが、為信の決意が固いことを知ると、為信に同行して、一緒に京都に行くことにします。


一般的に信建の病気を診ている医者に自分も見てもらいたかったから、といわれていますが、年齢的に長旅がしんどいことを踏まえると、親といて一目、息子に会いに行きたかったから、というのもありそうです。


京都に向けて長旅をしていた為信と信枚ですが、残念なことに、2人が京都につく前に信建は病死してしまいました。


京都について信建の死を聞いた為信は、息子の死に目に会えなかったのがこたえたのか、そのまま京都で寝込むようになり、信建の死の2ヵ月後、慶長12年の12月、京都で客死しました。




遺言で跡目は次男の津軽信枚が継ぐように言い残していました。


死後、高岡(弘前)の革秀寺に埋葬されました。



参考サイト下矢印


津軽為信 (Wikipedia より)


津軽信建 (Wikipedia より)


津軽信枚 (Wikipedia より)


革秀寺 (津軽為信の墓所)


弘前市役所HP 神社仏閣・長勝寺 (津軽為信の座像木像が安置されています)




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