遠すぎる京都・津軽為信3 | 青森の鉛筆

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青海林檎です青林檎


今回も、前回からの続きで、津軽統一後の津軽為信の動きについてお伝えします。




南部(石川)信直が内乱に手を焼いている内に、津軽・外ヶ浜一帯を手中に収めた大浦(津軽)為信。


領土を手に入れたとはいえ、いつ南部側が領土の奪還に動くか分からず、安心できない状況が続いていました。


そこで、以前にブログでも紹介したように 、小田原征伐に向けて動きを見せていた豊臣秀吉に近づくことだったのです。


豊臣秀吉の中央での動きについては、出羽(山形県)の名族・最上家から情報を得ていたらしく、天正13年(1585年)に上洛を開始します。


ところが、この時の上洛は海路を使ったのですが、暴風雨に遭い、蝦夷(北海道)まで流されて失敗。


翌年・天正14年(1586年)の上洛の際は、矢立峠を越えるルートをとったものの、比内の浅利氏の妨害に遭って失敗。


天正15年には南部領を通ろうとして南部氏に妨げられ、失敗。


天正16年には秋田口から上洛しようとしたものの、秋田氏に阻まれて失敗。


上洛するまでに、4年間も失敗していたようなのです。


周りが敵だらけでは上洛すらままなら無いと、天正17年(1589年)に秋田の安東実季と和睦した後、家臣の八木橋備中を上洛させることに成功します。


その後は、豊臣秀吉に名馬と鷹を献上、津軽三郡、合浦一円の所領を安堵され、天正18年の秀吉の小田原征伐には、為信自身が小田原陣に参向して秀吉に対面することができました。


この八木橋備中の上洛と、秀吉との対面の時に、石田三成の世話になっていたのです。




参考サイト下矢印


歴史の勉強・津軽氏 左矢印為信の上洛の動きについて、事細かに書かれています。





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