「見守る」とは

無事であるように注意しながら見る。
なりゆきを氣をつけながら見る。



と、ある辞書には書いてあります。


また、別の辞書には

目を離さないで見る。
間違いや事故がないようにと、氣をつけて見る。



とありました。


 

子どもや部下を

「信じて見守る」


難しいですね。



二つ目の辞書にあったように

"間違いがないように"

と見てしまったら、手出しもしたくなる。



天外伺朗著 『「生きる力」の強い子を育てる』
 

より一部抜粋します。
 

 

幼児がミルクをこぼして、ピチャピチャ遊び始めたとしよう。その子が夢中になったら、それは「フロー」であり、教育上とても大切なプロセスになる。

「フロー」を十分堪能しきるまで遊んだ子どもは、内的に充足し「正常化」に向かう。それは内側からこみ上げてくる社会性を次第に身につけることに相当する。その子を仮に、ピチャ男と呼ぼう。

一方、ピチャピチャ遊んでいる子に対して、「そんなことしないで、早く雑巾を持ってきて拭きなさい」としつけたらどうなるだろう。その子を仮にフキ子と呼ぼう。

フキ子は、同様な状況で率先して雑巾で拭くようになり、誰の目から見ても「いい子」「しつけがよく行き届いた子」に映る。親も鼻高々だろう。

ところが、フキ子は「フロー」体験を強制的に妨げられており、「正常化」には向かえない。モンテッソーリがいいうように、たびたび「フロー」を妨げられた子どもは、気まぐれで、不注意で、不機嫌になり、それに処罰で対応すると不良少年、不良少女を生む。

つまり、フキ子が一見いい子に見えるのは、外から強制された社会性であり、「正常化」により内側から構築された社会性とはまったく違う。フキ子は、表面的にはしつけがうまくいったように見えるのだが、人が見ているときだけいい子を演じる傾向が強くなる。そして、どこかで意識的に悪いことをしたり、弱い子をいじめたりしてうっぷんをはらす。

(中略)
ピチャ男の親は大変だ。自宅でピチャピチャ遊んでいるのを受容するだけでも、かなりの辛抱を強いられるのに、よその家でも必ず同じことをするからだ。
「お行儀が悪い」「しつけがなってない」などと非難され、親は肩身が狭い。

ところが、「正常化」により内側から構築した社会性は、フキ子のような見せかけの社会性と違って崩れることがない。長い目で見れば、幼児期にいい子だったフキ子よりもお行儀の悪かったピチャ男の方が、はるかに立派な社会人に育ち「生きる力」も強くなり、いい人生を歩むだろう。

 

 

「見守る」ということは

 

いかにエネルギーを消耗させることであることかっ(><;)

 

 

 

生半可な氣持ちでは、やっていけません。

覚悟が必要です。

 

 

 

こんなことやられても、止めてはいけないなんて・・・(TωT)


マジで泣けてきます。゚(T^T)゚。



もうね。
こうなったらね。


楽しむしかない。



「次はなにをやらかしてくれるのかしらー?
ブログのネタにしてやるぜっ」


くらいにね。




諦めろ。
楽しむしかないっΨ(`∀´)Ψ





子どもも、部下も、ついでに犬も、

「育てる」ってことは大変なんだよ。




「見守る」ってことと

「放任」とは

似てて非なるもの、なんだから。



 

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