阿吽[あうん]…ものの始まりと終わり



寺社の門前のコマイヌさんや、山門の仁王(におう)様は、
一方が口を開いて「ア」、他方は口を閉じて「ウン」と、阿吽の姿をしています。
サンスクリット語では、最初が「ア」と口を開いて出す音声で「阿」と訳され、
最後は「フーン」と口を閉じて出す音声で「吽」と訳されています。

阿吽は、ものの始まりと終わり、出息入息を示しています。
密教では、阿吽を、根源と帰着、菩提心(ぼだいしん)と涅槃(ねはん)などの
象徴としているともいわれているようです。


大学時代、京都で学生ガイドしてました。
寺社にいるコマイヌさんの間を通ってお参りしますね。

そのときに説明していたのは、「ア」は「birth」、「ウン」は「death」
なので、このふたつの間を通れるのは生きているものだけ。

生きているもの=life


私は少し変わった子どもだったと思う。
昔から「死」に対する恐怖はない。
何故か「生まれる」ということは、「死」に向かって歩いていくこと。
それが人生なんてこと考えていた。

何が辛いって、死ぬことではない。
生きていくことだって思ってた。
死ぬのは怖くないけど、その時に痛いの嫌だなって思ってるだけ(笑)

肉体は遺伝子の乗り物だと思ってるの。
人間以外の動物たちは、その役割(遺伝子を残す)を終えるとその命を終える。
人間だけだよね。繁殖能力がなくなってもその後長く生きているのは。

だから、死ぬときに
「あ~、面白い物語だったなー」って
本を閉じるように生きられたらいいなって思ってる。
自分物語を書けるのは、自分しかいないからね。


そうそう。
過去に一度だけ「死」を強烈に意識したことがある。
ダイアナさんが交通事故で死亡したというニュースを見たとき。

それは余りにも突然だったから。

そっか~。
死ぬことは怖くないけど、いつどんな理由でやってくるかは分からないんだ・・・

と思った私が次ぎに考えたこと。

酔っ払って、ベロンベロンになって帰ってきて
パンツと一緒に脱ぎ捨てられた、足の形を形状記憶されている状態のタイツ・・・
これ、遺品整理されたら恥ずかしいな。

って・・・アホですか?
あの時は真剣に恥ずかしいから、ちゃんとしなきゃ!って思ったんだけど

今はね。
それもアリかなーって思う。

遺品整理しに来た人がさ。
それ見てさ。
「らしいわー!」って笑ってくれるのもいーぢゃん!

なんてね。
阿吽の呼吸で、いつ死んでもいいように生きていきたいと思っておりまする(*^▽^*)



【 さくら爛漫♪春爛漫♪ 】