たとえ口には出さずとも
いつもお腹の中に潜む、その思い
損得勘定で生きるのはやめなさい、
なんてこと
いうのはカンタン
まったくもって、カンタン
でも長年の習慣、習性、思考の癖は
そうカンタンにはやめられません
最近わたしを悩ますこの損得問題
「なにか良きトレーニングはないものか?」
座禅組んで考えてみたとき
舞い降りたもの、それは、
「とことん損を、満喫してみる?」
そもそも、「損」って、
どんな状態なんでしょう
欠けた、感覚
失った、感覚
じゃあ何を失った感覚なのかと問うてみると
お金、時間、努力、善意
そのほとんどが、目には見えないもので
お金だっていってみれば、
それと交換したものは、きっと、期待
やっぱり目には見えないものです
そもそも
損した!チッ!って
ココロをざわつかせるもの自体が
目には見えないものですよね
いうなれば
「事実」に対する「感情」の部分
同じ「事実」は、キャッチャー次第で
よい「感情」にも悪い「感情」にも
変わりますし、
さらに単純明解な「感情」にも
複雑怪奇な「感情」にも変わってしまいます
また、「事実」だって
関わったヒトたちを交えて見る事実と
自分だけにフォーカスした事実も
ちょっと違ったりするもんです
たとえば今日の出来事ならば…
事実そのイチ:
職場にケーキの差し入れをした
事実そのニ:
何人かはお礼を言ってくれたが、
何人かはなにもなし、でも喜んでた
感情:
なんで、礼くらい、ちゃんといわないの?
わたしが差し入れするのは当たり前なの?
なんか、モヤっとする!
なのですが…
まわりはさておき、
わたしだけ、にもっとフォーカスすると、
事実そのイチ:
ケーキを久しぶりにたべることができた
事実そのニ:
しかもとてもおいしかった
事実そのサン:
みんなには、ただのおすそ分け
感情:
ケーキに、大満足
こんな感じに変わってしまう
自分がどうしたかったから、どうしたのか?
大事なのは、やはりコレですね
まわりのヒトにフォーカスして
なにかをすることは
たとえそれが、人の役に立ちたい、といった
立派な動機であろうとも
人間、見返りを求めてしまうもの
それがもらえなかったら
自分が費やした
お金(期待)だったり時間だったり
努力や善意が
自分の中から「減っただけ」な
気持ちになって、
「損した!」みたいに
なってしまう
でも、そもそも目に見えないものに
減るも欠けるも、ないんです、絶対
それを確かめるためにも
どんどん損かも?な体験を
してみようじゃないか
そんなことをふと思った、師走の朝
損得「勘定」をすることで湧き出る
損得「感情」
自分の中で整理して浄化して
手離したい
そもそも
目に見えないものに
ココロをざわつかせるなんて
なんだかバカげている
明日からの損かも?な体験
またブログに綴っていきたいと思ってます