名前や、身体、誕生日

好きなもの、嫌いなもの

好きなこと、嫌いなこと

 

という自己紹介より

少し深く

苦しみのさなかにいたときの

「私」を感じてみると

 

今になって思い返すと

とても難しいのですが


当時の「私」には自分がありません。

苦しみのさなかでは

わたしは記憶と感情に支配されていました。

 

カウンセリングで話すのは

過去の苦しみです。

 

リアルタイムだとしても

その言葉や出来事から連想される

つらい記憶が苦しみを増していました。

 

じゃあ、なぜ苦しくつらいのか

それは、自分自身の感覚、価値観では

生きていけない(それではいけない)と刷り込まれた(思い込んだ)からです。

 

この世界は矛盾だらけで

そんなことは子どもでもわかりました。

 

 

高校生のときに

友だちに誘われてプロテスタントの教会に行きました。

 

牧師さんのお話を聞き、聖書を読み、賛美歌を歌う。

穏やかな空気、人々の中にいると安心感がありました。

聖書を買い、夢中で読みました。

理解しにくいところもあったけど

そこには救いがあると感じました。

 

友だちは、すでに洗礼を受けていました。

私も洗礼を受けたいなと思うようになった頃に

牧師さんがカトリック教会の批判をされました。

 

『自分たちが正しい』がゆえに『あちらは間違いである』

考えの違うものは『異端』です。

 

私は、すべてが包括される愛と赦しが欲しかった。

信仰はそれぞれだけど

自分を正しくするために、人を貶める必要はありません。

(そのときは、まだそれを感じられました)

 

「牧師様も人間だった」

それ以降、その教会に足を運ぶことはありませんでした。

 

人間の解釈で歪められる真理

大人の都合で変えられる正義

権力のある人に左右される真実

 

「私」の感じ方、考え方は

『普通』ではなく

それを覆せる智恵も力もない。

 

かといって、

この世界に順応していきたくもない。

 

「私は無力である」

と信じ込んだのは私自身でした。

 

 

「私」には

この身体、記憶、考え(思考)、感情(心)

そこに、微かな

ほんの微かな『何か』がありました。