正直に書くと
今でも
『スピリチュアル』という言葉には
いろんな意味合いが含まれすぎていて
あまり好きじゃないのだけど...
わたしがスピリチュアルを知った
12年ほど前は
『悟り』『覚者』『覚醒』
『アセンション』『チャネリング』
『宇宙人(侵略してこない方笑)』
『天使』『光と闇』
『神様と話す人たち』
で溢れていました。
今もそうなのかな?
何も知らないわたしからすれば
何もかもが
誰も彼もが
感嘆と称賛の対象でした。
知らない言葉をたくさん知りました。
チャネリング
○○星人
インディゴチルドレン、クリスタルチルドレンなどのスターシード
ハイアーセルフ
さまざまな種類のヒーリング
チャクラ
ツインソウル・ツインレイ
内観、アファメーション
グラウンディング
自我とか真我とか・・・etc
たくさんありすぎて覚えてないけど
わくわくしました。
情報がありすぎて困惑はしていたけど
とりあえず、自己表現をできる場があったので
(はじめは有料のオンライングループレッスンのような場所)
まずは自分を解放するところから始まりました。
同じ頃に、父が病気になり
さまざまな現実に対応しながら
学びは加速度を増して進んでいきました。
瞑想やアファメーション
一方で
心理学を学び
哲学に触れ
聖書を読み返し
たくさんのスピリチュアル系の本を読み
たくさんのブログを読みあさる頃には
先のグループレッスンに違和感を感じ
そこを卒業して
ここ、アメブロでブログを開設し
ここでアウトプットを始めていました
その間にたくさんの人とつながりを持たせていただきました。
その頃、エックハルト・トールの本が
わたしのバイブルのようになっていました。
当時のわたしには難しく感じられましたが
その本を読んで
『頭の中のおしゃべり』に
ある日ふと、気づいたときは
ある意味絶句しました。
瞑想をしているときには
ごちゃごちゃといろんな思考や映像が
これでもかと溢れてくることには
四苦八苦しながら気づいていましたが
日常生活を送りながら
こんなに騒がしく
無意識にいろんなことを考えていたのかと・・・
気づいた時に頭で話していたのは
面と向かっては言えない母への抗議でした笑
無意識に考える、ということが少なくなっても
わたしは考えることが大好きだったので
「どうしてなんだろう」
「なぜなんだろう」
という探求は続きました。
スピリチュアルという世界を旅しても
謎は深まるばかりだったのです。
それは
この覚者とあの覚者の言うことが違う
とか
あのチャネラーとこのチャネラーの言うことが違う
とか
そもそも、それをそうと意義づけたのは誰なの?
とか
知れば知るほど混乱するような…
そのくらいさまざまな情報があふれ出してましたね。
父が他界する前とその後
般若心経が好きでよく聴いていたし
唱えていました。
その般若心経の意味や解説も
さまざまあって「ん?」と当時は思っていましたが
1番「ん?」と感じたのは
『真理はこうである、がゆえにこの世界はこうである』
という感じの一瞥経験者の方々の主張(断言)でした。
悟り系スピリチュアルの怖いところは
『違和感はエゴの抵抗』
みたいになるところかな・・・
実際そうでもあるのですが
探求段階では違和感は大切なメッセージも
含めている気がします。
本当に当時は
神・真我・自我・思考・マインド
心・感情・意思
意識・源・大いなる源・大いなる存在
どれがどうでどうなのか
どう感じればいいのか
どう手放せばいいのか
「わかった!」
と思うのがエゴだったり
信じればそれが真実みたいな…
結局何をしていても
外に意識を持っていかれて
『ただ在る』ができない。
スピリチュアルは商業化していて
『お金はエネルギーだから』
『お金のブロックが〜』
『等価交換で〜』
と…「わぁ………」と思うような値段設定とか…
崇拝とか依存とか
いろいろと目にしたし
わたし自身もありましたが
段階的には
自分に合ったさまざまなツールで
ある程度のところまでは
(ある程度のとこまでは!笑)
経験することは必要なことなんだと
今は思います。
ここからは、
その経験の過程でわたしが感じていたこと
感じていたけど表現できなかったこと
あの時はわからなかったこと
そして、それからどうなったのか
など
今、苦悩のさなかにいる誰かに
今、歩みを始めた誰かに
何かの参考になればと綴っていきたいと思います。