社会が成熟すれば、個人は未熟に
 しかし、これはある意味で、必然的な流れでもある。
 これは私の仮説なのだが、「社会の成熟度と個人の成熟度は反比例する」ためだ。社会が成熟すればするほど、個人は未熟になっていく、ということ。なぜ、こんなことが起こるのか。
 いわゆる成熟社会とは、社会のインフラが整備され、〝ハンディ〟がある人でも一人で生きやすい社会のことでもある。未成熟さもハンディの一つと考えるなら、成熟社会は未成熟に対して寛容な社会ともいえる(「格差社会」などの問題は、これとは別のレベルの話である)。
 社会心理学のマスグローブは、「青年期は蒸気機関とともに発明された」と指摘した。蒸気機関による産業革命は労働のあり方を一変させ、人々に富をもちらした。これも近代化の一つの側面だ。その結果起こった重要な変化の一つに、まず子どもたちの重労働からの解放がある。
 やや乱暴な言い方をすれば、思春期・青年期とは、人生において「労働の義務を免除される期間」のことだ。言い換えるなら、モラトリアムのままでいられる期間のことだ。社会の成熟は、若者が自己決定をせずに「自分が何ものか」を問い続けていられる期間を延長してくれる。ならば、個人がなかなか成熟しにくくなるのは、当然のことだ。
 繰り返すが、これは必然的な帰結であり、私たちはまさにそういう社会をこそ求めてきたともいえる。一般に、個人が早くから成熟を強いられるのは前近代的で過酷な世界(子どもが重労働をさせられるような)に限られる。そう、成熟とは基本的に、他者や状況によって強いられなければ起こりにくいものなのだ。
空気に流されず、大きな文脈を読む
 ところで現代は、「ポストモダン」などとも呼ばれる時代である。この言葉にはいろいろな解釈があるが、思想的な文脈では「大きな物語の終焉(しゅうえん)」や「歴史の終わり」などが問題となる。しかし、精神学的視点に立てば、この言葉の意味はまた変わってくる。すなわち、「主体」や「成熟」といった概念が無効になった時代のことである。
 主人公がさまざまな体験わ通じて成長していく物語を「ビルドゥングスロマン(教養小説)」と呼ぶ。『三四郎』や『次郎物語』などがそうだ。ポストモダンにあっては、こうした物語も成立しにくくなる。事実、若者に今、人気のある物語では、もはや「成長」や「成熟」はほとんど描かれない。
 思春期、青年期においては、もともとの主体の位置が不確かになりやすく、そこからさまざまな病理や問題が生じやすい。その意味でこの時期は、もともとポストモダン的なところを持っている。
 今、「成熟」に代わって重視され始めたのは「適応」という言葉だ。ひとまとまりの人格として大きく成熟するよりも、状況や関係性の中において、そのつど小さな適応を繰り返すこと。その意味で、昨今の「空気を読め」といった言葉が流行る背景に、成熟の断念とそのつどの適応の過大評価を見るのは、深読みが過ぎるだろうか。
 しかし、本当に成熟は不可能になったのだろうか。実は私は、必ずしもそのようには考えていない。そもそも私が考える「大人」の定義は、「自らの意志で変化し続けることをあきらめない人」というものだ。ほっといても変化する「子ども」と、もはや変化を忘れた「老人」との比較で考えてほしい。
 適応のあり方が時代によって異なるのは当然のことだ。そのつどの空気に流されるのではなく、もっと大きな文脈を読みながら、自らも「変化」し続けること。これはなにも「形をなくせ」という意味ではない。むしろ自分だけの型がない人には、柔軟な変化も望めない。その意味では、「変われば変わるほど変わらない人」こそが大人、という言い方もできるだろう。そんな「大人」なら、きっと今もたくさんいるはずだ。
さいとう・たまき 1961年、岩手県生まれ。医学博士。専門は、思春期・青年期の精神病理学、病跡学。「ひきこもり」の治療・支援並びに啓蒙活動を行う。臨床に携わりつつ、精神分析、文学、サブカルチャーなど、幅広いジャンルで評論活動を展開。著書に『思春期ポストモダン』(幻冬舎新書)、『メディアは存在しない』(NTT出版)など多数。

おわり