闘鶏 曹子建
遊目極妙伎
清聽厭宮商
主人寂無爲
衆賓進樂方
長筵坐戯客
闘鶏觀閒房
羣雄正翕赫
雙翹自飛揚
輝羽邀清風
悍目發朱光
觜落輕毛散
嚴距往往傷
長鳴入青雲
扇翼獨翺翔
願蒙狸膏助
長得擅此場
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目を遊ばしめて妙伎を極め
清聴は宮商に厭く
主人 寂として為す無く
衆賓 楽の方を進む
長筵して 戯客 坐し
闘鶏 閒房に観る
群雄 正に翕赫たり
双翹 自から飛揚す
羽を輝かせて清風を邀え
目を悍らせて朱光を発す
觜 落ち 軽毛 散じ
厳距 往往に傷つけり
長鳴 青雲に入り
翼を扇ぎて 独り翺翔す
願わくは 狸膏の助けを蒙りて
長く此の場を擅にするを得ん
前回の記事を書いていて、「闘鶏」をもう一度読みたくなったため持ってきました。
この詩で最も注目すべきところは最後の二行でしょうかね。
それまでは、闘鶏(書いて字のごとく、鶏を闘わせる競技。闘牛とかムシキングバトルみたいなもんですよ..たぶん)を客観的視点で見ていますが、最後の二行だけ勝った鶏に感情移入して主観的になってますよね。
これは曹植自身の気持ちなのか、誰かになり代わって言ったのか、それともこの時代の真意を表現したのか。
「狸膏(狸のあぶら・鶏が怖がるため、相手を怯ませるための道具らしい)の助けを借りて、いつまでもこの場の英雄でいたい」と言っています。
自分一人の力ではなく一時の英雄になった、ということですね。
狸膏が何を喩えているのかが分かれば、この詩を以て曹植が伝えんとしたことが分かるんですけどね。
塗ると相手が怖がるもの、というとそれは公子であるという立場のことで、曹植自身の心情だという考えがまずひとつ。
自分の気持ちをそのまま詩にすることも多いですしね、彼は。
もしくは、戦をする理由・大義名分と考えて乱世の理。
三国志街道の記事の中に、降将の扱いは酷いものでバンバン最前線に出されていたと書きましたが、彼の父曹操はそういうことをやっていた人なんですよね。
曹氏と夏侯氏は信頼できるからという理由で優遇した、ということは、逆に言えばそれ以外は裏切る可能性があるとして疑われていたということ。
満田先生が「狡兎死して良狗煮らるになっていたかも」とおっしゃっていましたが、用済みになればそういう可能性が誰にでもある時代だということ。
乱世ってそういうもの、と暗に示した(皮肉った?)可能性もあるのではないかなー?と思ってみました。