PL学園高校野球部
いじめ死亡事件
1986年
甲子園球場を沸かせたころの
PL学園高校野球部と応援の人文字
かつては高校野球の甲子園出場常連校だった大阪のPL学園高校野球部で、1986(昭和61)年6月に上級生部員の無理な命令に従わせられた下級生部員が、PL教団の構内にあるため池に飛び込んで死亡するという出来事が起きました。
読売新聞(1986年6月9日夕刊)
当時この出来事は、上の小さな新聞記事のように「事故」として処理*され、誰一人責任を問われることもありませんでした。
*後で見るように、PL学園高校は高校野球連盟に肝心の事実を隠してこの件を報告した
この「事件」があらためて知られ問題とされたのは、PL学園高校野球部OBで読売ジャイアンツの選手として活躍した桑田真澄さんの父親・桑田泰次(たいじ)さんが、14年後の2000(平成12)年に出版した『野球バカ』でこの出来事に触れたことによってでした。
高校2年生の桑田真澄さんと泰次さん
(同書より)
同書第4章「甲子園の申し子」の「Mくんの死」と題した節で、桑田泰次さんはその時の様子を次のように書いています(( )内の補足説明は小川)。
その年(桑田真澄さんが卒業した年の1986年)、ひとりの野球部員が死んだ。夏の地区予選がはじまる直前、泉(真澄さんの弟)と同じ2年生だったMくんがPL学園の施設内にある池で溺れ死んでしまった。
Mくんが死んだそもそもの原因は3年生のいじめにあった。
その日、練習が終わったあと、Mくんは、
「池に飛びこんで、スリッパを拾ってこい」
とひとりの3年生から命令された。
その3年生はわざとスリッパを池に放り投げ、それをMくんに取りに行かせた。
ところが、スリッパを拾うために池に潜っていったMくんがなかなかあがってこない。それであわてた3年生が、
「Mくんが池にはまって浮いてきません」
とたまたま現場の近くにいた私に助けを求めてきた。事故が起こった時、たまたま現場近くにいた大人は私ひとりだった。
私は、すぐにレスキュー隊を呼ぶとともに、
「おい、おまえらみんなで奥津城(おくつき)に行って、拝んでこい」
といって、2年生全員を奥津城まで走って行かせた。
ほどなくレスキュー隊が到着。池の中を捜索したが、Mくんの姿はなかなか発見できなかった。しびれを切らした私が、体にロープを縛りつけまさに池に入ろうとしたとき、ようやくMくんの体がポッと浮かび上がってきた。ちょうど奥津城に拝みにいった2年生の部員たちも引き返してきたところだった。その部員たちが見守るなか、懸命の応急措置が施された。しかし、その甲斐もなく、Mくんが息を吹き返すことは2度となかった。
死因は、心臓マヒだった。準備運動もせず池に飛びこんだMくんは突然心臓マヒを起こし、池の中でもがき苦しみながら死んでいったのだ。
「奥津城」
御木徳一(みき・とくはる)初代教祖の墓
広さと方位は甲子園球場と同じとされる野球部グラウンドと
事件が起きた中野新池
泰次さんの本では、「Mくん」ひとりが上級生(3年生)から池に飛び込めと言われたかのように書かれていますが、他の人の証言では、彼以外に何人もの2年生が池に入ったと言われています。
問題の池は「中野新池」といい、富田林市文化財課の説明によると、明治時代に農業用ため池として「中野村の多田三重郎が中心となって築造された池」で、上の写真のように野球部グラウンドの北隣りにあります。
地図の縮尺による小川の概算ですが、池は長さが約200m、グラウンドに近いところの幅が約40mとイメージしていた以上に大きなもので、底に行くと水が急に冷たくなると言われるように、深さもかなりある*のではないでしょうか。
*泰次さんは、Mくんが「ポッと浮かび上がってきた」と書いていますが、先にあげた読売新聞の記事では、「岸から7メートル離れた水深3.5メートルの底に沈んでいた」と書かれています
桑田泰次さんの本では「Mくん」と匿名で書かれている亡くなった生徒さんは、南雄介さん(当時16歳)という2年生部員です。
亡くなった南 雄介さん
(「週刊ポスト」1986年7月25日号)
南雄介さんと同じ学年には、桑田真澄さんの弟の泉さん(後にプロゴルファー)のほか、プロ野球で活躍した立浪和義さん(元中日)、片岡篤史さん(元日本ハムなど)、野村弘樹さん(元横浜)らがおり、雄介さんも有望な主力選手の1人だったそうです。
1986(昭和61)年6月8日午後5時半ごろ、練習の後の自由時間中に、泰次さんの著書に書かれていたような無理難題をある3年生が強要したため、南雄介さんは池に潜って心臓マヒで亡くなったのですが、PL学園高校はその「いじめ」行為についてまったく触れず、他の部員と一緒に「遊泳」していたところ、足がつって溺れて死亡したと大阪府高校野球連盟に報告したのです。
警察に対しても学校は同じ説明をしたのでしょうし、他の野球部員が事情を聴かれることを予想して、「余計なことは言うなよ」とスリッパの件について彼らの口を閉ざさせたのではないでしょうか。
「週刊ポスト」(1986年7月25日号)の記事によると、単に「遊泳中に死亡」とだけ書かれた報告書では不十分だと再提出を求めた大阪府高野連に対し、PL学園高校は、「〝上級生が投げたスリッパを取りに行って溺れた〟ことを口頭で伝えた」そうです。
毎日新聞(1986年6月18日)
ところが、府高野連が日本高校野球連盟にした報告において、このスリッパの件はまったく触れられていなかったそうです。
府高野連としては、上級生部員によるいじめが原因だと明らかになれば、夏の高校野球選手権大会にPL学園が出場できない事態になりかねず、それを避けようとしたのでしょう。
稲葉重男・府高野連理事長(当時)も学校の公式見解に合わせて、「いじめとかリンチに類することはなかったと判断しました」とコメントしたとのことです。
こうして学校と府高野連がPL学園高校野球部の大会出場という大目的のために口裏を合わせて、南雄介さんの死は遊泳禁止を破って自分から「遊び」で池に入り溺れた、あたかも「自業自得の事故死」であるかのような話がつくられてしまったのです。
その報告をもとに日本高野連は、遊泳禁止の池で部員が泳いだことへの学校の監督責任だけを問い、1人の生徒の「いじめ死」を「会長注意」という最も軽い処分で済ませて、夏の高校野球選手権大会への同校野球部の出場には問題なしとしました。
朝日新聞(1986年6月26日)
息子の死が自己責任として片付けられたことに対し雄介さんの父親の南詔一さんは、6月12日の葬儀の場では、「PLはどう責任をとってくれるのか! 場合によっては告訴もありえる。PLの矛盾を暴いてみせる」と怒りをあらわにしたそうです(「週刊ポスト」)。
葬儀の場で険しい表情を見せる
雄介さんの父の南詔一さん
ところが、初七日に野球部の中村順司監督と高木文三部長が南さん宅を訪れ、「どのようなお詫びでもいたします。どうか、もう一度野球をやらせてもらえませんか」と父親に頭を下げたのです。
中村順司監督(当時)
事件の真相をどれだけ知っていたのだろうか
そこで父親は、もし自分が糾弾を続けるとこの年PLは甲子園に出場できなくなるかもしれないが、「同級生と息子は一緒に汗をかき、練習に励んできたことを思うと、友達や同級生たちに悲しい思いをさせられません。子供たちに罪はないのです。私が頑張って〝ダメ〟と言えば亡くなった息子が苦しむばかりだと思って、監督や部長には〝甲子園に出て頑張ってください〟といった」(「週刊ポスト」)というのです。
そこには、桑田泰次さんが「Mくんが死んだそもそもの原因を知っていた泉たち2年生は、寮の前に座りこんで3年生に対する抗議の意志を表明した」と書いた2年生の行動を父親も聞いており、そこまでしてくれた息子の友人たちを悲しませたくないという思いから、息子の死が甲子園出場の道を閉ざす原因になってほしくないとの苦渋の決断があったのでしょう。
とはいえ父親としては、少なくとも学校や野球部の内部ではこうしたことが起きた原因についての真相を明らかにし、再発防止の対策を講じることを期待したはずですが、すべてがうやむやにされたまま幕が引かれてしまったのです。
今回のブログを書くにあたって、スリッパを投げた3年生についての情報を探しましたが、名前はもちろん公式には注意すらされなかったのか、ほんのわずかな手がかりさえ得ることができませんでした。
このような経緯をへて出場した1986(昭和61)年夏の大阪地方大会では、PL学園はベスト4に進んだものの準決勝で敗退したため、甲子園への出場はかないませんでした。
地方大会が始まる直前に起きた雄介さんの非業の死が、部員たちの心に暗い影を落としたのかどうかはわかりません。
結局この事件で学校が公にしたことと言えば、池の周りに立ち入り禁止の柵と立て札を整備したことと、雄介さんのささやかな慰霊碑を作ったことだけでした。
立入禁止の札と慰霊碑
(いずれも「週刊ポスト」)
毎年春と夏におこなわれる全国高校野球選手権大会は、厳しい練習を重ねてきた高校球児たちがひたむきに白球を追って競い合う、純真無垢なイメージで多くのファンを魅了する国民的行事と言っても過言ではありません。
しかし、純粋で禁欲的なイメージに嘘はないとしても、その一色だけで高校野球の世界が染まっていると思うのは、単純に過ぎはしないでしょうか。
現実に、個々の選手にとって「甲子園」への道はプロ野球選手への登竜門で、そこでの活躍しだいで誘われて有名大学に進学できたり、卒業時にドラフト会議で上位に指名され、やがては高額な契約金でプロ野球入りができるかどうかが懸かった熾烈な競争の場なのです。
ですから、PL学園高校の野球部に入れても*、レギュラーとしてベンチ入りできるかどうかは親にとっても息子の将来がかかった人生の一大事ですから、泰次さんが著書(180〜181ページ)に書いているように、お金でレギュラーのポジションを買ったのではないかとの噂が流されたり、ベンチ入り組と補欠組の選手の母親たちがののしり合いの末に「大乱闘」を演じたり、補欠になった息子を父親が怒って「ど突き倒した」りすることも珍しくなかったのです。
*野球部のスカウトが全国から集めた選りすぐりの選手だけが部員になれるので、PL学園高校の入学者であれば希望で誰でも入れるような部ではなかった
また泰次さんは、「その年の3年生たちのいじめは目にあまるものがあった」として、「いじめの中心人物だった3年生(これが問題のスリッパを投げた生徒なのかは不明)などは、練習試合に出してもらえなかったりすると、すぐ親に電話を入れ」、金や権力を持つ親*がその力をちらつかせて監督や部長にまで圧力をかけ「いじめの標的」にしていたと書いています(188〜189ページ、( )の補足は小川)。
*泰次さんは、「大会社の社長」「ヤクザの大親分」「右翼の大物」「ビックリするほどの大金持ち」と例をあげている
高校野球に多くの人が抱いている純粋なイメージと、欲望が渦巻く現実とのギャップには驚かされるのですが、一方で学校、特に私立高校にとっても注目度が抜群の野球部の甲子園出場は、学校の知名度を全国的に高め、受験生を集めるのに役立つ最高の「広告塔」になるのです。
PL教団の機関紙「芸生新聞」
「人生は芸術である」が教団の理念
教団の初代教祖は、墓所(奥津城)の説明で触れたように御木徳一(みき・とくはる)氏で、立教したのは1916(大正5)年のことです。
そして1936(昭和11)年に長男の御木徳近(とくちか)氏が第2代教祖となって教団を継承しますが、翌年(1937)に不敬罪*で逮捕・有罪とされ、教団(当時の名称は「ひとのみち教団」)も解散命令を受けます。
*天皇や皇族、神宮、天皇陵などへの敬意を欠く行為を罰する旧刑法にあった罪。1947(昭和22)年の刑法改正で廃止された
敗戦によって釈放された御木徳近氏は、1946(昭和21)年に「PL教団」*を設立し、1953(昭和28)年大阪府富田林市に、現在あるような広大な敷地を有する教団本部を作りました。
*1974(昭和49)年に、正式名称を「パーフェクト リバティー教団」とした
このように、PL教団は第2代教祖の御木徳近氏によって創設されたとすら言ってよく、日本が戦後の高度経済成長期に入った時代状況を背景に、彼の指導のもと教団は大きく発展します*。
*この時期、PL教団だけでなく、創価学会や立正佼成会、霊友会などいわゆる「新宗教」教団が勢力を拡大した
御木徳近第二代教祖
(教団HPより)
PL病院(1956)、PLランド(1957)、PL花火大会(教祖PL花火芸術、1963)、PLの塔(大平和祈念塔、1970)といった教団の有名な施設や行事*も徳近氏によって創られました。
*1983年の徳近氏の没後、PLランドは1989年に閉鎖され、PL花火大会も2020年から休止するなど、病院と塔以外の施設の多くが現在は廃されている
野球部と事件に話を戻します。
PL学園高校は1955(昭和30)年に徳近氏が設立し、翌年(1956)創部された硬式野球部は、早くも1962(昭和37)年に甲子園初出場を果たしています。
「人生は芸術である」を教えとするPL教団にとって、野球部の大活躍は、野球を通した部員*たち一人ひとりの楽しく個性豊かな自己表現(芸術、真の自由=パーフェクトリバティー)**の成果であり、教団と学校の「広告塔」***として期待されたものでした。
*部員もその親も、PL教団の信者であることが必須だった
**御木徳近第2代教祖には、武器を使わない戦いである「スポーツは世界平和に通じる」という思いがあったと言われる
***野球部やゴルフ部の活躍と並び、高校に「国公立コース」を設けて東大合格者の輩出を目指した
試合で祈るPL学園野球部員
全員がユニフォームの内に下げていた
PL教団のアミュレット(お守り)
しかし現実は、桑田真澄さんとのKKコンビでPL野球部の黄金時代を築いた清原和博さん(共に1983年入学)ら多くの卒業生が語っているように、異常なまでの上下関係の厳しさと、上級生による下級生への暴力的支配・制裁が同部の「伝統」*となっており、それが南雄介さんの「いじめ死」を引き起こした根本原因なのです。
*3年生が1年生を奴隷のように使う「付け人制度」や、「笑顔は禁止」「上級生への返事は〝はい〟だけ」といった野球部に構造的に組み込まれた暴力の実態については、ネットで多く紹介・解説されていますので、このブログでは省きます
清原と桑田のKKコンビ
同じように感じられた方もあるかと思いますが、ここまでで小川が理解できなかったのは、「人生は芸術である」というPL教団の理念と、野球部の上下(支配ー服従)関係や暴力体質とがどうして両立するのかということでした。
理解のキーワードとなるのが「絶対服従」であると知ったのは、石渡佳美「PL教団における妻・母役割の構造」という論文(『宗教と社会』1996年6月)によってでした。
石渡さんによると、PL教団の前身である「ひとのみち教団」の教えでは夫婦のあり方が最も重視され、「異心同体」である夫婦の関係は、「ひ(陽)」である「夫(おとこ)」に対する「かげ(陰)」である「婦(おみな=おんな)」の「絶対服従」を前提とするものでした。
つまり女性は、あたかも自分の意志がないかのように「男性に絶対服従することによって神から与えられた天性、すなわち「うむ力*」を発揮することができ、それによって男性は「うます力*」を発揮することが可能である」というのです。
*「子どもを生む/生ます力」という意味だけでなく、より大きくは「人生の幸不幸を生む/生ます力」
ですから妻(女)の夫(男)への「絶対服従」は、「窮屈な思いをして従うのではなく、自分から喜んで積極的に服従することが重要」(強調は小川)であり、それを「趣味のように実践する」ことが「生活を芸術化」することだと説かれるのです。
そしてその「絶対服従」は夫婦(男女)の関係にとどまらず、「国民は天皇に、子供は親に、弟妹は兄姉に、雇人は主人に「絶対服従」することが「陰陽の約束 」であり、社会を安泰にするもの」とされました。
戦後のPL教団では、戦前の「天皇制的な色彩は一掃」して、「世界平和」や「世のため人のため」を前面に出すようになりますが、基本のところでは「「目下」と「目上」といった人間関係を保持することの重要性を「平和の追求」としてとらえていることが特徴的であり、(略)ひとのみち教団の説いた内容と類似している」(石渡)とのことです。
こうして、かつては運動部(体育会系クラブ)に広くみられた上下関係の秩序が、PL高校野球部においてはPL教団の「絶対服従」の教えによって強く権威づけられて絶対視され、上級生の下級生に対するほしいままの暴力支配を「伝統」とするまでになっていたのだと思われます。
上級生によるしごきの場ともなっていた
かつての野球部(全寮制)の「研志寮」
野球部グラウンドのすぐそばにあり、
高校までは約2kmもあった
屋上に見えるのはスコアボード
南雄介さんが亡くなった「ひとりの3年生」によるいじめが、彼だけを標的にしたものか、その場にいた2年生全員に「池に飛び込め」と命じたのか分かりませんが、なぜそのようなことをしたのか、理由をうかがえる話が桑田泰次さんの本に出てきます。
第4章「甲子園の申し子」の「上級生による下級生つぶし」という節で、泰次さんは次のように書いています(130〜131ページ、強調は小川)。
これまでに述べた内容と重複もしますが、重要な点なので引用しておきます。
PL学園の野球部に入ってくる子は、みんながみんな野球エリートなので、最初から「補欠でもいいや」と思っている子などひとりもいない。誰もがレギュラーを目指して、歯を食いしばってがんばると同時に、「だれがレギュラーを獲得しそうだ」といったチームの状況に絶えず神経をとがらせている。チームメイト全員がライバルだ。
もちろん、1年生であろうとライバルであることに変わりない。特に、新チームになってようやくレギュラーポジションを獲得できそうな3年生にとっては、優秀な1年生の存在は脅威だ。もし自分よりうまい1年生がいたら、最後のチャンスを奪われかねない。だから、その可能性がある1年生がいると、なるべくたくさんの用事をいいつけ、野球以外のことで疲れさせようとする。
ここで泰次さんは、当時1年生だった息子の桑田真澄さんへの「いじめ」を念頭に書いていますが、「レギュラーを獲れるかどうかのボーダーラインにいる3年生」(同書)にとっては、相手が2年生であっても同じことでしょう。
南雄介さんがきわめて有力な2年生選手であったことを考えると、父親が「週刊ポスト」に語った次のような話から、かつての桑田真澄さんど同じく、雄介さんも以前から上級生による執拗な「いじめ」の標的にされていたことが伺えます。
ですから、スリッパを池に投げて拾ってこいと飛び込ませた3年生の「いじめ」は、その場の軽いノリでの悪ふざけなどではなく、泰次さんの言い方にならえば意図的な「下級生つぶし」であった可能性が高いのではないかと、小川は思うのです。
もしそうだとすれば、結果的には下級生の生命を奪うまでに17、18歳の若者を追いつめるような情況があることを知っていたはずの当時野球部に関わっていた大人たちの責任は、非常に重いのではないでしょうか。
著書でこの事件の存在をはっきり「いじめ」と指摘し世に知らしめた桑田泰次さんの大きな功績を認めながら、彼自身についても(もう故人となられましたが)事件とその原因に対して当時どのように行動したのかという責任が問われずには済まないでしょう。
これまでのブログで小川は、「目的は手段を正当化する」のではなく、「目的は手段を制約する」のではないかという問題提起をたびたびしてきました。
高校野球の目的とはいったい何なのか、若者たちにとっての教育的意味とは何なのかを考えると、「精神力=根性を鍛えるためにはいじめやしごきや体罰も有効」「どんな手段を使ってでもライバルを蹴倒したものの勝ち」のような、「勝つためには手段を選ばない」という考え方・やり方がそこに入る余地はないと小川は思うのですが……。
「遊泳禁止のルールを無視して池に入って遊んでいるうちに自ら溺れ死んだ不幸な事故」とされてしまった南雄介さんのあまりにも無念で無惨な死を思う時、今からでも彼の死の教訓をどう活かすのか、野球に限らず学校スポーツに関わる人たち、選手・指導者・保護者の方たちには、この事件について知り考えていただきたいと強く思った小川です。
最後に余談ですが、PL教団の御木徳近第2代教祖は、1980(昭和55)年に教祖の座を甥の御木貴日止(たかひと)氏に譲り、KKコンビが入学した1983(昭和58)年に亡くなっています。
その後も、1987(昭和62)年に春夏甲子園連続優勝を飾るなど、しばらくは野球部の活躍が続きます。
しかし、2000年代に入ると野球部ではいわゆる不祥事(2001年:上級生が下級生をバットで殴り6ヶ月の対外試合禁止処分、2008年:監督が部員に暴力を振るって解任、2013年:上級生の下級生に対する暴力的いじめで6ヶ月の対外試合禁止処分)が相次ぎ、2009(平成21)年夏を最後に甲子園から姿を消しただけでなく、2016(平成28)年には休部し、高野連からも脱退してしまいました。
そこには、信者数が激減し教団自体の衰退が止まらない中で、不祥事とともに「暴力が伝統」という悪評が広まってしまった野球部を立て直すだけの意志も財政的余裕ももはやPL教団にはないという事情があるようで、硬式野球部OB会(桑田真澄会長)は部の復活を強く求めていますが、その見通しは絶望的と言わざるをえないようです。
2024年1月6日のOB会懇親会
で挨拶する桑田真澄会長
(日刊スポーツ)
第2代教祖が構内に数多く植えた桜の木も、
今や老木となってすっかり衰えが目立つ
( 終 )
9月1日の防災の日、小川は相棒と一緒にPL教団の平和祈念塔と、甲子園球場に併設されている甲子園歴史館に行ってきました
お天気は曇りで何度もパラパラと雨が降っては止むの繰り返しでした☁
PL教団の敷地は、ゴルフ場もあってとにかく広くて驚きました
本当は野球部のグラウンドと事件のあった中野新池、そして南雄介さんの慰霊碑を訪れたかったのですが、一般人は平和祈念塔以外の構内立ち入りが禁止されていました(以前は野球ファンだと言えばかなり自由に入れたようです)。
そのあと、阪神甲子園球場に併設の、高校野球関係の展示もしている甲子園歴史館を訪れました。
そこは、野球をまったく知らない小川でもすごく楽しめる場所でした
こちらが、甲子園歴史館の入口です⬇️
事件当時の野球部監督だった
名監督と評判の中村順司さん
この日は阪神ー巨人戦があったので、甲子園球場にはたくさんの人(ほとんどはタイガースファン)が詰めかけていました。
ちなみに、1回裏に阪神が1点を先取し、球場の外にいた小川にもファンの大歓声が聞こえてきましたが、この日の試合は結局1対3で巨人に負けたようです。
甲子園球場に行かれる際は、甲子園歴史館もぜひ見学してみてください。
小川も、もう一度ゆっくりと行きたいです😺
次回もよろしくお願いします😺