生坂ダム殺人事件

1980年

「犯人よ、

話してくれてありがとう」

1人の青年が2人の覚醒剤常用者に間違って声をかけられ、ついには縛られて生きながらダム湖に沈められたこの事件は、警察が早々に自殺と断定し捜査の幕を引きました。

 

遺族は他殺ではないかと強く主張して、独自に調査をしていましたが、事件から20年たち刑事・民事両方の時効が来るのを待っていた犯人が犯行を告白したことから、ようやく遺族は真相を知ることになります。

 

警察は、自殺だとした当時の判断は誤りだったと認め遺族に謝罪したものの、捜査ミスがあったとは最後まで認めませんでした。

 

事件から24年後の2004(平成16)年、被害者の妹である小山順さんが、遺族の思いを『犯人よ、話してくれてありがとう』と題した本(以下「順さん著書」と略記)に託して出版しました。

そこには、警察発表とは異なる事実や、新聞などでは報道されなかった多くのことが書かれています。

 

 

 

このブログでは、事実関係について「順さん著書」の記述と警察発表や新聞報道を合わせて述べますが、食い違いのあるところはそのことを記しました。

 

【事件の経緯】

1980(昭和55)年3月29日、長野県東筑摩郡生坂(いくさか)村にある東京電力生坂ダムで、放水作業で水位が10センチほどにまで下がったダムの底に、ビニール製ロープで縛られた男性の遺体があるのをダム管理事務所の作業員が見つけ、松本署に通報しました。

 

東京電力生坂ダム

 

警察が所持品などから身元を調べたところ、遺体は3月1日から行方が分からなくなっていた長野県東筑摩郡麻績(おみ)村の会社員・小山福来(よしき)さん(当時21歳)と判明しました。

 

小山福来さんの遺影

 

司法解剖の結果、小山さんの死因は溺死で、同ダムと同じ水が臓器から検出されたため、彼は生きた状態でダム湖で溺れ亡くなったものと考えられました。

 

小山さんが行方不明になった3月1日、彼は午前10時ごろに愛車に乗って家を出、女友だち(A子さんとします)と映画を見たあと食事をして、午後3時ごろ(犯人の証言では午後1時ごろ)に、松本市今井の松本運動公園(現在の信州スカイパーク)の駐車場に車を停めて話をしていました。

 

A子さんのことを家族はよく知らなかったようですが、高校時代からの親友に小山さんは「新しくできた彼女」と言っており、前日の2月29日にも彼は有給休暇をとって日本海を見たいという彼女と一緒に富山まで行っています。

 

「順さん著書」より

 

松本運動公園は、1978(昭和53)年に長野県で開催された第33回国民体育大会(やまびこ国体)の時に整備され、若者に人気のデートスポットになっていました。

 

その時、1台の黒い大型乗用車から降りてきた男が小山さんの車に近づいてきて、話があるから来てくれと言いました。

 

そこで小山さんは、A子さんにすぐ戻るという素振りをして、別の男が運転するその車の後部座席に話しかけてきた男と乗り込むと、車は発進してそのまま行方が分からなくなったのです。

 

A子さんの証言では、彼女は車で後を追ったそうですが、途中の赤信号で停止している間に、男の車を見失ってしまいました。

 

午後5時ごろ小山さんから自宅に、「彼女(A子さん)は寄った? 俺の車を運転して帰ってない?」とたずねる電話があったそうです。

その時の小山さんには特に切迫した様子はなく、寄っていないと家人が答えると電話は切れました。

 

なお、午後7時ごろに男の声で、「白い車に乗った兄さんは帰ったかい?」という不審な電話があったそうですが、それについては犯人はかけていないと言っており、真相は不明なままです。

 

午後7時半ごろ、安曇野郡穂高町(ほたかまち、現在は安曇野市)にあった小山さん行きつけのレストラン「コスモス」のマスターから、小山さんの家に電話がありました。

 

「コスモス」は、彼が以前に勤めていた会社のすぐ近くにあった店で、この店のコーヒーを好んだ小山さんがよく通い、マスターとも親しくなっていたのです。

 

マスターの電話は、いま店にA子さんがやってきて、小山さんが黒い車に乗った2人の男に連れて行かれたまま戻ってこないと言っているという内容でした。

 

驚いた父親の嘉久芳(かくよし)さんと母親のはつ恵さんは「コスモス」に駆けつけ、A子さんが後を追ったという道路の周辺を一緒に探し回りましたが、深夜になっても手がかりがありません。

 

そこで両親は松本警察署に行って事情を話し、捜索願(現在の行方不明者届)を出してからA子さんを家に送って帰ったそうです。

 

ただこの時点で、「遺族の記憶」と「警察の記録」は異なっています。

 

警察によれば、3月1日の午後10時過ぎに、麻績(おみ)村の駐在所に小山さんの母親が来て、「息子が見知らぬ男の車に乗せられ、どこかに連れ去られた」と相談を受けたため、駐在所から松本署に連絡を入れたというのです。

しかも、その時はまだ捜索願は出されず、松本署が願いを受理した記録は3月3日付だというのです。

 

駐在所から連絡を受けた松本署は、隣接署を含め管内にこの情報を回し捜索を始めたと後に弁明するのですが、この段階ですぐに警察が本腰を入れて取り組んだとは思えません。

 

また警察は遺族に、捜査の支障になるので、これ以上A子さんに話を聞こうとしないこと、またマスコミの取材には応じないことを要請し、遺族はそれを守ったことを後に後悔しています。

 

警察が捜査に本腰を入れたのは、3月29日に小山さんの遺体が発見されてからで、初日には118人の捜査員がこの事件に投入されました。

 

ところが、自殺・他殺の両面から捜査を始めた警察でしたが、早くも遺体発見の翌日には、①遺体のロープは本人でも可能な縛り方だった、②公園で小山さんは男と特に争う様子もなく自分から相手の車に乗った、③「死にたい」など厭世的な言葉を周囲に漏らしていた、といった状況(①と③については、後で見るように遺族は強い疑問を抱きました)から、小山さんの死は自殺であって事件性はないと警察は速断してしまったのです。

 

その結果、捜査員の数も3月30日には79人、31日には66人、4月1日には62人と数日たたずして当初の半分近くにまで減らされ、自殺により捜査打ち切りとの方向に進んでしまいます。

 

その背景には、以前にこのブログでも取り上げた「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」が同じ時に重なって起きており、3月5日には長野で2人目の女性が誘拐され、その捜査に長野県警も総力をあげていたという事情がありました。

 

マスコミで連日大きく報道され、若い女性が被害者となった事件に比べれば、1人の男性の不審死は警察にとって優先順位の低い事件だったのでしょうか。

 

後に、犯人の殺害告白によって県警が再捜査を余儀なくされた時、警察の内部関係者と思われる匿名の人物から、遺族と田中康夫県知事(当時)そして県警本部に、当時の捜査状況を暴露し批判する内容の手紙が届いたそうです。

 

それによると、当時の県警捜査一課長が、現場の捜査官の反対意見を押し切り、「自殺」として処理するよう指示したというのです。

 

真偽は不明ですが、県警幹部にすれば世間が注目している「大事件」で手柄をあげる/失態を犯さないことの方が自分たちのキャリアにとって重要だったでしょうし、厳格な階級組織である警察では上からの命令は絶対だったので、ありえない話ではないように思われます。

 

こうして警察は、自殺とはとうてい考えられないと訴える遺族や友人らの声をよそに、小山さんの死は自殺だったと結論して、事実上捜査を打ち切ってしまいました。

 

それに合わせるようにマスコミも小山さんの事件について報道しなくなりましたが、唯一、他殺ではないかという遺族の疑問と執念の独自捜査を報じたのが、遺体発見からちょうど9ヶ月後に出された下の朝日新聞長野版の記事です。

 

朝日新聞(1980年12月29日長野版)

「順さん著書」より

 

この記事を執筆したのは、当時朝日新聞社松本支局にいた鈴木拓也記者で、彼は「順さん著書」にも「解説」を書いています。

 

【20年後の急展開】

 

毎日新聞(2003年10月6日)

 

ところが、殺人事件の当時の公訴時効15年も民事の損害賠償請求の時効20年も過ぎた2000(平成12)年4月14日になって、香川県の高松刑務所に覚醒剤取締法違反で服役していた太田健一受刑者(当時51歳、犯行時は31歳)が、長野県警豊科(とよしな)警察署(現在は安曇野警察署)の署長に宛てて小山さん殺害を告白する手紙を送ったことから、事件は思わぬ展開を見せます。

 

豊科警察署長は太田からの手紙を、捜査を担当した松本警察署に送り、長野県警捜査一課が事件の再捜査に取り掛かりました。

 

手紙が出されてから2ヶ月後の6月には、長野県警の捜査員が高松刑務所に出向き、太田の供述調書を取っています。

供述内容は、当時の状況や犯人しか知り得ないことなどから概ね事実だと考えられました。

 

太田の供述によると、小山さんに公園で声をかけたのは次のような理由からでした。

 

太田と知人男性(B男とします)は覚醒剤の常用者だったのですが、その妄想もあってか、最近変な車に尾行されているとB男が訴えたため、太田は1980年3月1日、それなら探しに行こうとB男に運転させて(太田自身はその時は免許がなかった)自分の黒い日産セドリックを走らせたそうです。

 

B男はノートにいくつか車のナンバーをメモしており、松本運動公園の駐車場に停まっていた小山さんの車を見て似ていると言ったのです。

 

そこで太田が車を降りて、ちょっと話が聞きたいので来てほしいと小山さんに言い、自分の車に乗せました。

小山さんにすれば心当たりのないことだったでしょうが、A子さんを危険な目に遭わせないようにと太田の言うとおりにしたのかもしれません。

 

この時、太田は特に脅すようなそぶりは見せなかったので、警察の事情聴取でA子さんは、小山さんは争う様子もなく自分から相手の車に乗ったと供述したのです。

 

太田とB男は車を走らせながら車内で小山さんと話をしたところ、すぐに人違いだったと分かったので、太田の言うには「7、8分で」公園の駐車場に戻ったそうです。

ところがそこには、A子さんも車もありませんでした。

 

太田らは、A子さんが警察に行ったのではないかと疑い、もし警察ざたになると覚醒剤の使用がばれて面倒になると考え、小山さんを再び車に乗せて走り出しました。

 

A子さんの動向が気になる太田は、小山さんに言って自宅やA子さん宅などに2度電話をさせ戻っているか知ろうとしましたが、彼女の行方は分かりません。

 

途中まで3人は普通に話をし、食事も一緒にした(下の地図の「Y食堂」)と太田は話しています。

 

ところが、たまたまある交番の前を通った時、B男が小山さんの車を見たと言い出したことから、太田はやはりこのまま小山さんを帰すわけにはいかないと考えます。

 

太田は、A子さんの連絡先を教えろと小山さんに迫りましたが、彼女に危害が及ぶことを恐れた小山さんは、それだけはできないと頑として拒否したそうです。

 

小山さん殺害を決意した太田は、南松本駅近くの金物店に寄って洗濯ロープを購入し、麻績村の自宅まで送って行くとだまして小山さんを国道19号線で生坂ダムに連れて行きます。

 ※下図の長野自動車道は、その時はまだ開通していませんでした(1988年開通)

 

「順さん著書」より(加工は小川)

 

車内で太田は、冗談めかして小山さんの首にロープをかけたりしたそうですが、ダム湖の側で車を停めさせた太田がロープで首を絞めてきたので、小山さんは暴れて車外に逃れようとしました。

 

正確な犯行場所はわかりませんが、小山さんと車外に出た太田は絞殺は難しいと考え、ロープで彼の体を縛って生きたまま小山さんをダム湖に投げ落としたのです。

 

「順さん著書」より

 

上の写真は、山の様子などから下図の🟡付近から撮られたものではないかと小川は推定します。

もしそうであれば、遺体発見場所は下図で示したあたりではないでしょうか。

 

 加工は小川

 

とすると、長野自動車道開通以前の当時は、国道19号線はかなりの交通量だったそうですから、小山さんがロープで縛られ投げ落とされたのは、先に書いたように国道からダム湖に沿って走る県道275号線に入ったあたりではないか思われます。

 

国道から県道に入った、上図の🔴付近(現在)

ここから右前方の湾曲部分(遺体発見現場?)

までのどこかが犯行場所か

 

ただご覧のように、今では道路もガードレール・柵も整備され、当時とはかなり様子が違っているように思われます。

 

話を犯行時に戻します。

 

小山さんが投げ落とされるのを見て、そこまでするとは思っていなかったB男は驚き、ダム湖に飛び込み助けようとしたと言うのですが、小山さんがすぐに沈んだので諦めて湖岸をよじ登ってきたそうです。

 

しかし、こうした供述の裏付け捜査は、事件から20年が経過して当時の捜査員が退職したり捜査資料の多くが廃棄処分になっていることなどから難航します。

 

警察は太田と一緒にいたB男の行方を探し出し、2000年6月に最初の事情聴取をします。

 

その後もB男から聴取をしようとしたそうですが、呼び出しに応じなかったり行方をくらませたりしたため、2003年7月にようやくB男から事情聴取をします。

 

その翌月、再び太田を取り調べて2人の供述がほぼ一致していることを確認した警察は、同年10月6日に太田健一を殺人と死体遺棄容疑で書類送検しました。

 

犯行告白の手紙から実に3年半近くが経っていました。

 

ただ、先に述べたように、殺人罪の公訴時効が過ぎていることから、太田は不起訴となり、10月11日に高松刑務所での服役を終えて出所しました。

 

ちなみに、出所後わずか4日目の10月15日、太田はまた覚醒剤取締法違反(覚醒剤の使用)容疑で愛知県警に逮捕されています。

 

【それでも晴れぬ被害者遺族の気持ち】

太田の殺害告白から3年半、小山さんの遺族は長野県警からそのことを一度も知らされないまま、2003年9月30日になって松本署の副署長と総務課長の2人が小山さん宅を訪れました。

 

小山さんの父・嘉久芳さんは事件の4年後に亡くなっていたため、母のはつ恵さんと妹の順さん(事件当時はまだ中学3年生だった)が応対しましたが、副署長らは太田の告白があってからの経緯説明と、新聞に「自殺ではなく他殺だった」との記事を小山さんの顔写真などなく「小さく載せる」と言うだけで、母親の質問には「もう23年も昔のことだからわからない」と繰り返すばかりだったそうです。

 

事件の真相はどうだったのか、そしてなぜあの時に警察は自殺と速断するミスを犯したのか、また犯人の告白からなぜ3年半も遺族に何も知らされなかったのか……という思いが次々に溢れた母親ら遺族は、真相解明に向けて「今度こそ自分たちが納得するまで“戦おう”」(順さん著書)と決意し、無料法律相談に行ったり、松本署に行って太田を取り調べた捜査官に会って話を聞こうとしたのです。

 

この時、母親のはつ恵さんら遺族を無償で支えたのが永田恒治弁護士でした。

 

1994(平成6)年に長野県松本市で起きた、オウム真理教が神経ガスのサリンを撒き、その時点で7人が亡くなった「松本サリン事件」で、第一通報者で自身も被害者であった河野義行さんが、警察のずさんな捜査で容疑者とされ、マスコミも河野さんを犯人同然に報道するという冤罪未遂事件がありましたが、永田弁護士は河野さんの弁護にあたった人です。

 

毎日新聞「平成の事件ジャーナリズム史」⑻より

(2019年3月10日)

 

遺族による真相究明の詳細は省かざるをえませんので、関心を持たれた方は「順さん著書」をぜひお読みいただきたいのですが、ここでは小山さんが自殺とされた点に話を絞って明らかになったことを書いておきます。

 

遺族にとって一番納得いかなかったのは、「他殺である」理由はあっても「自殺である」理由はまったく考えられないことでした。

 

行方不明になる前日の日帰り旅行に続いて、当日もA子さんとデートを楽しんでいた小山さんが、仮にそこで彼女との間にいさかいが起きたとしても、いきなり死のうとするでしょうか。

 

そこで警察は、小山さんが「厭世的な言葉を周囲に漏らしていた」ことをあげ、マスコミもそのように報じました。

 

しかし、母親が尋ねても職場の上司や同僚でそんな言葉を聞いた人は誰もおらず、不思議に思った友人らが小山さんの周辺をさらに聞いて回ったそうですが、そんな言動を見聞きした人はただの1人もいなかったそうです。

 

また、仮に小山さんが自ら死のうと思ったとしても、なぜ生坂ダムまで行かねばならなかったのか。

そもそも車を置いて行った彼がどうやってダムまで行ったのか、歩いて行ったとは考えられませんし(Googleマップによれば、公園からダムまで国道19号線経由で徒歩だと7時間21分かかります)、タクシーに乗ったのなら警察が調べればすぐに分かったはずです。

 

そして決定的なのは、小山さんの身体がロープで縛られていたことです。

 

何としても真相を知りたい遺族は、弁護士を通して太田の供述調書の情報開示を申し出ましたが、不起訴になった者の調書は開示できないと断られました。

重ねて要望したところ、特例として検事が調書の差し障りのない部分を読み聞かせるということになり、母親と順子さんが聞きに行きましたが、その時に遺体や発見場所などの写真(コピー)は見てもよいと言われて閲覧したそうです。

 

ロープで縛られた遺体の状況図は、自殺との警察の発表後にそれを入手したマスコミを通じて母親も見ていたそうですが、状況図と、特に首と手の縛られた部分を遺体の写真を見た記憶から母と妹が再現した図が「順さん著書」に掲載されています。

 

「順さん著書」より

 

この状態を見ても警察は、「自分でもやろうと思えば縛れなくはない」としたのですが、入水自殺をしようとする人が重しを体にくくりつけるのならあり得るとしても、自分の首・右足首・両手首をこのように縛る意味が分かりませんし、第一、両手をこのように重ねてどうやって自分で縛ることができるのか、そのように主張する捜査官が再現して証明したという話は聞きません。

 

また、ロープの結び方は「釣り結び」と呼ばれる釣り人が釣り針に糸をつける結び方で、そのことについては当時から警察は把握し、のちに太田もそれを確認しています。

しかし、自分でチームを作るほどバイク好きだった小山さんに釣りの趣味まであったのかどうかは、少し調べれば分かったはずです。

 

こうした疑問点から、それにもかかわらずなぜ当時警察はわずか1日で自殺と断定したのか、明らかに捜査に判断ミスがあったのではないかと遺族は考え、事実の解明と謝罪を警察に求めましたが、「結果として間違った点は謝罪するが、当時の捜査にミスはなかった」という態度を警察が変えることはありませんでした。

 

納得がいかないと訴える遺族に対して永田弁護士は、警察を相手に裁判を起こすことも考えられると提案したそうですが、身体を病んでいた母親と生活に追われる順さんらに、裁判をする余力はもうありませんでした。

 

2003(平成15)年10月11日に母の小山はつ恵さんは記者会見を開き、他殺であったのが明らかになったことを喜びながらも、警察の当時の捜査と今回の対応に不信と怒りを表明したのは無理からぬことだと思います。

 

毎日新聞(2003年10月11日夕刊、加工は小川)

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

「23年も前のことだから分からない」を繰り返す警察の態度に、母親は太田に直接会って話を聞きたいと考えますが、上の記事にあるように、彼の名前も居場所もなかなか教えてもらえませんでした。

 

ようやく、高松刑務所に彼がいて10月11日に出所すると知った母親は、出所すれば行方が分からなくなるかもしれないと、永田弁護士を通して刑務所に面会の許可を求めます。

犯罪被害者家族の特例ということで面会を許された彼女は、10月9日に高松に向かいました。

 

真実を知りたい一念の母親は、太田を怒らせないように、「小山福来の母です。打ち明けてくれてありがとう」とできるだけ丁寧に話しかけるよう心がけたそうです。

 

最初はふてくされた態度だった太田も次第に口を開き、当日の出来事について質問に答える形で話をしました。

 

その中で母親は、小山さんがロープで首を絞められ「女の電話番号を教えろ」と脅されてもA子さんをかばって最後まで教えなかったために首と手足を縛られてダム湖に投げ入れられたことや、「釣り結び」についても確認しましたが、太田は「警察がなんで自殺にしたのか不思議だった、自分では絶対に縛れないよ」と言ったそうです。

 

また、警察が自分の黒いセドリックを3回も調べに来たのに、生坂ダムの遺体の話は一度も出ず、「警察は自殺にしておきたいんだ、とその時思った」というのです。

 

さらに母親は、同年11月11日にB男の裁判(覚醒剤取締法違反の求刑公判)を傍聴に行き、12月4の判決公判(懲役2年6月の判決)前後に2回、成年も収監する松本少年刑務所に面会に行っています。

 

近親者を事件で失った被害者遺族の悲しみや怒りは、まず事件を引き起こした加害者に向けられ謝罪と罪の償いを求めるのは当然ですが、それと同時に何が起きたのかという真相の解明とさらには事件の再発防止へと向けられるでしょう。

 

特にこの事件のように、他殺にもかかわらず納得できる理由もなく自殺=自己原因とされると、遺族の悲嘆は行き場を失ってしまいます。

 

実は、事件の4年後の父親の死は、頼りにしていた息子(福来さん)の死、借財、体調の悪化が重なり、人生に行き詰まった末の自殺でした。

ですから、遺書はなかったそうですが遺族は自殺であることを納得し、「やっと楽になれてよかったね」(「順さん著書」)という思いでそれを受け入れることができたのです。

 

それだけに、事件における自殺という判断は、慎重が上にも慎重になされるべきでしょう。

 

同じような事例は他にもあり、はつ恵さんと順さんは2003年11月5日に徳島県の三笠さん一家と会ったことが「順さん著書」に書かれています。

 

三笠さん一家は、1999(平成11)年に亡くなった海上自衛官・三笠睦彦さん(当時33歳)の遺族で、その死に多くの不審な点がありながら「自殺」とされてしまったのです。

この「徳島自衛官変死事件」でも、妹の貴子さんが『お兄ちゃんは自殺じゃない』という本を出して、遺族は真相解明を求め続けています。

 

 

 

警察も限りある条件のもとで活動する人間の組織である以上、完璧を求めることができないのは仕方なく、誤りを犯すこともあるでしょう。

 

けれども小山さんの事件での警察の自殺判断はきわめて不自然で、その根拠とされた小山さんの「厭世的な言葉」に至っては捏造だったのではないかと疑われるほどです。

 

ですから、事件当時に警察がどういう誤りを犯したかの解明は、遺族が求める事件の真相解明の一部であり、事件の再発防止にも不可欠なものでした。

 

せっかく真犯人が明らかになりながらも、「結果として自殺と誤ったことについては……」といういかにも官僚的で保身的な「謝罪」にとどまり、警察が犯した誤りについて真相解明されないまま終わったことは、小川としても残念としか言いようがありませんショボーン

 

小山順さんの本のタイトルにある「犯人よ、話してくれてありがとう」という言葉は、先に見たように、高松刑務所で犯人に面会した母のはつ恵さんが、太田に向けた言葉ですが、先にあげた三笠貴子さんからも「私なら犯人に感謝なんてしない」と言われたそうです。

 

兄を失って間もないころは、誰とも知れぬ犯人に対して憎しみの気持ちでいっぱいだったので貴子さんの気持ちはよくわかるとしながらも、この言葉の真意を順さんは次のように書いています。

 

〝兄を殺した犯人に感謝する〟なんて確かにおかしなことです。しかし他殺の真実を教えてくれたのは、警察ではなく、犯人だったのです。23年もの長い間、他殺だと信じ続けてきた私たちに本当の答えを教えてくれた人に、私たちは感謝せずにはおれませんでした。皮肉にも、それが犯人その人だったのです。兄を殺した犯人に対する憎しみは長い間に形を変え、〝どうか犯人に出てきてほしい〟という願いに変わっていました。自殺と断定されたあとは、私たちは警察を頼る気持ちはまったくなくなっていました。〝いつか警察が犯人を見つけてくれる〟などとは一度も考えませんでした。

 

つまりこの言葉には、憎むべき犯人に感謝しなければならない遺族の苦渋と、そうせざるをえないまでに遺族を追い詰めた警察への怒りと諦めが込められているのですショボーン

 

太田の犯行告白には、遺族に真実を教えるというよりむしろ、警察を困らせてやろうという意図があったとも言われます。

それはともかく、この事件では公訴時効が過ぎたことによって太田は真相を告白しました。

 

しかし、2010(平成22)年に殺人罪など重犯罪の公訴時効が廃止されたことは、犯人の逃げ切りがなくなった一方で、時効後に被害者遺族が犯人から事実を聞く可能性も無くなったと言っていいでしょう。

 

ですから、公訴時効廃止によって警察の責任はさらに重くなったと小川は思います。

 

最近では不祥事のニュースも多くありますが、次のような調査を見ても、日本における警察への信頼感は、他の機関と比べるとまだ高い水準にあります。

 

一般社団法人「中央調査社」

「議員、官僚、大企業、警察等の信頼感」調査

(2023年)

 

その信頼に応えて警察は、組織防衛に走るのではなく、理不尽な犯罪で近親者を亡くし苦しむ遺族の方に顔を向けて、犯人の検挙と真相の解明に向けて最大限の努力をしてほしいと小川は望みます。

 

それが、自殺と片づけられた小山福来さんや、23年も苦しんだ遺族の無念の思いに応える唯一の道ではないかと小川は思うのですキョロキョロ


関川誠/藤澤英一『実録完全犯罪』 宝島社 2006年

 最後に、順さんの著書に関して一つ言いたいことが小川にあります。


この本では、小山さんの両親の馴れ初めから彼の誕生、さらに順さんの兄への思いが50ページ近くを割いて書かれています。


それに対してこの本の書評の中には、事件に直接関係ないことが多く書かれているというものがありました。

しかし、それは違うと小川は思います。


なぜなら、1人の人間の生命は、親やきょうだいや友人・知人など多くの人との関係によって成り立っており、それだけ多くの人がその人の生と死によって喜びや悲しみに翻弄されるのです。


小山福来さんの命の重みも、順さんが家族について書いたことを読んで初めて、小川は具体的に受け止めることができました。


それなしには、母のはつ恵さんがどうしてあれほど真相解明に執念を持ち続けたのかも、ただ頭だけの理解にとどまったに違いないと思う小川ですショボーン


 

 

 

読んでくださった方、ありがとうございますおねがい

今後とも宜しくお願いいたします飛び出すハート