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広島大学部長殺人事件

1987年

朝日新聞(1987年7月22日夕刊)

 

1987年(昭和62年)7月22日午前8時半ごろ、広島大学東千田(ひがしせんだ)キャンパス(現在は東広島市に移転)にある総合科学部1階の学部長室で、岡本哲彦学部長(教授、当時61歳)が血まみれで死んでいるのが発見されました。

 

岡本学部長が21日夜に帰宅しなかったため、心配した母親のスミ子さん(同80歳)が朝になって大学に連絡し、職員が学部長室を見に行って遺体を発見したものです。

妻の富子さん(同60歳)は海外旅行中で不在でした。

 

広島大学総合科学部棟(当時)

学部長室は1階の右角

 

岡本哲彦学部長

 

岡本学部長は、7月21日に広島厚生年金会館で開かれた高校2年生対象の大学公開説明会に出席したあと大学に帰り、別棟にある助教授の研究室で午後7時から午後9時すぎまでゼミの学生や卒業生ら10数人と酒を飲んで雑談してから学部長室に戻ったと見られています。

 

学部長室の見取り図

 

岡本学部長は、胸2カ所と背中2カ所を両刃の特殊なナイフで刺されており、うち背中の1カ所が肺にまで達する致命傷でした。

 

また、横向きに倒れた遺体の首から下には毛髪が混じった砂が一直線にまかれ、周囲には本人のメガネ、入れ歯、タバコの吸い殻、灰皿が半円を描くように等間隔で並べられていたそうです。

 

このように宗教儀式めいたことがなされていたため、当時この事件を「オカルト殺人」と呼ぶメディアもありました。

 

朝日新聞(1987年7月23日)

 

当時、広島大学では中核派と原理研究会(統一教会)が対立しており、それに絡んで大学とももめていたことから、犯人をめぐっていろいろな憶測が流れたようです。

 

警察は、数ヶ月前から学部長の自宅に不審な無言電話がかかっており、事件現場の学部長室内に物色の跡がないことから怨恨の疑いで捜査を進め、午後10時以降に大学に入るには教官が持つ磁気のIDカードが必要なため、学内関係者が関与しているのではないかと容疑者の特定を急ぎました。

 

その結果、人事のことなどで学部長に不満を持っていたとされる同学部助手(現在の助教に相当)の末光博(同44歳)を、9月30日から任意で呼び出し事情聴取していましたが、10月2日に殺人容疑で逮捕しました。

 

朝日新聞(1987年10月2日夕刊)

 

加害者の末光博

 

末光博は広島県の農家に生まれ、広島県立三原高校を卒業して広島大学理学部に入り、1966(昭和41)年に同大学院理学研究科に進学、修了後の1970(昭和45)年11月に総合科学部の前身である広島大学教養部に助手として採用されました。

1972(昭和47)年2月には、理学博士の学位を取得しています。

 

専門は素粒子物理学(核子(陽子と中性子)と核子間の相互作用の研究)で、指導教授である小此木久一郎教授のもとで助手を務めてきました。

小此木教授の愛弟子とも言える末光は、人柄は温厚で学生にも親切に接し、周囲からの評判は良かったようです。

 

また私生活での彼は、妻(同35歳)との間に1男2女の子どもにも恵まれていました。

 

しかし、助教授(現在の准教授に相当)への昇任の機会に恵まれなかった末光は、同年4月には自分より1歳若い助手が先に助教授になる中、17年間いわゆる「万年助手」に甘んじて来ました。

 

そんな彼にとって、またとないチャンスが巡ってきます。

1988(昭和63)年3月末で、基礎科学研究講座の彼と同じ専門分野である素粒子物理学の2人の教授が定年退官を迎えることになったのです。

 

末光は、今度こそと助教授になる期待を膨らませましたが、同年7月8日に開かれた後任教員の公募要領を決める人事教授会で、学部長の専門分野と同じ超伝導に関係する物性物理学(材料物性と電波物性)専攻の助教授または講師を公募することが決まったのです。

 

この決定は、2名のうち少なくとも1名は退官する教授と同じ素粒子物理学での採用と思われていた学部内でも、意外なものと受けとめられました。

 

最後のチャンスと期待していた末光は衝撃を受け、昇任の機会を完全に断たれたと思い絶望したようです

 

ただ、すでに1年ほど前からから殺意を抱いていたという末光は、「人事のことだけで殺したのではない」と供述しているように、7月8日の決定で突然犯行を決意したのではないようです。

しかしこの人事の決定が、殺人に至る最後で最悪の引き金になったのは間違いありません。

 

7月21日の夜、犯行準備を整えた末光は学部長室に忍び込み、廊下と部屋の明かりを消した暗闇の中で、岡本学部長の帰りを息をひそめて待っていました。

 

午後9時半過ぎ、部屋に戻ってきた学部長が明かりをつけたのと同時に、末光がゴムハンマーで彼の顔面を激しく殴打しました。

その時、メガネと入れ歯が吹っ飛んだそうです。

 

そうして末光は、用意していた刃渡り20センチの手作りの刃物(学内の工作室で、研究用の金属ヘラを両刃ナイフのように自分で加工したもの)で学部長を刺殺したのです。

 

倒れた学部長の遺体に彼は、恨みからと警察の捜査を撹乱させるため、持参した砂(大学のグラウンドの砂に自分の研究室に落ちていた学生らの毛髪と石灰を混ぜたもの)を遺体の首から足にかけてまき、さらに灰皿に洗面所で水を汲んで、これも憎しみから顔にかけたそうです。

 

殺害現場とされる写真

 

外に人の気配がなくなったのを見計らった末光は、いったん自分の研究室に戻ったあと、文学部棟裏の焼却炉に返り血のついた服と凶器のナイフを捨て、車で自宅に帰りました。

 

事件で学内は大騒ぎとなりましたが、末光は夏休みが明けた後も普段と変わらず勤務を続けていたそうです。

 

逮捕された末光は、「学部長は大学のためにならない人物」「人事のことだけで殺したのではない」「はめられた」などと供述しました。

 

また彼は、留置場の洗面台に頭を打ちつけて自殺を図り、全治2週間の裂傷を負っています。

 

殺人罪で起訴された末光被告に対し広島地方裁判所の中村行雄裁判長は、1989(平成元)年5月12日の判決公判で、懲役14年(求刑は懲役15年)を言い渡しました。

 

毎日新聞(1989年5月12日夕刊)

 

末光被告は、潔く刑に服したいとして控訴せず、刑が確定しました。

 

なお彼は、逮捕後の1987年11月25日に同大学を懲戒免職になっています。

 

一方で、亡くなった岡本哲彦教授のご遺族の意志と寄付に基づいて設立された岡本奨学基金により「岡本賞」が設けられ、平成元年度(1989)から優秀な成績をあげた総合科学部の学生・院生に授与されているそうです。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

仮釈放なしに刑期満了まで刑務所で務めたとしても、20年ほど前に末光博は出所し社会復帰しているはずです。

 

今年で81歳になるはずの末光が、出所後どのような人生を送っているのかは分かりませんが、大学で理不尽に扱われているとの不遇感をつのらせた末の犯行を、今ではどのように振り返っているのでしょうか。

 

また、第二の被害者とも言うべき末光の妻と子どもたちのその後も気にかかりますショボーン

 

詳しい事情が分かりませんので推測になりますが、小川が気になった事件の背景について2点あげておきます。

 

まず、研究費の配分や人事に不満を抱いていた末光の恨みが学部長へと向けられた背景についてです。

 

そこには、国立大学に多い「講座制」、すなわち教授が実権を握り助教授ー講師ー助手を徒弟関係のように従える旧態依然とした権力構造があり、各講座のピラミッドの頂点に学部長がいたということです。

 

岡本哲彦教授は、1982(昭和57)年から5年間その学部長の地位にありました。

 

学部の新規採用人事は、教養部が総合科学部に改組された1974(昭和49)年以降は公募制になったそうですが、通常の教授会は助手まで全教員が出席するのに対して、人事教授会は教授のみが出席し、そこでの決定にはいわゆる根回しによって学部長の意向が強く反映されていたようです。

 

したがって、末光と同じ素粒子研究の2人の教授の後任に、大方の予想に反して岡本学部長の専門と同じ分野である超伝導に関係する物理学の研究者での募集が決められたのも、学部長の意向によるものだったでしょうキョロキョロ

 

ただそれは、岡本学部長の個人的な利害からではありません。

政府・文科省が誘導する日本の科学技術研究の中心が次第に地道な基礎科学から応用科学へ、つまり産学協同と言われるようなより実用的で企業の儲けにつながる研究へとシフトし、そうした研究に予算が多く配分されるようになったことを反映していたと思われます。

 

逆に、末光が取り組んでいたような素粒子の研究などはいわば日陰に追いやられ、研究予算も人員も削られてきていたのでしょう。

 

この事件を知った時、小川は、末光には広島大学でのポストに固執せず、他大学に移って昇任する道はなかったのだろうかとふと思いましたが、基礎科学研究を軽視する傾向は広大だけではないので、そうした道も閉ざされていたのではないかと思い返しました。

 

そうしたことから末光の気持ちの中には、自分の冷遇への恨みは単に個人的なものではなく、岡本学部長は悪しき時流に迎合した「大学のためにならない人物」だという「義憤(道に外れたことに対する怒り)」が主観的にはあったのかもしれません。

 

しかしもちろん、仮に末光の怒りに「一理」があったとしても、それは学部長を殺害して解決すべき問題でないことは明らかです。

 

そう考えると、妻と3人の子どもへの責任を負う身でありながら、また失職させられるまでに追い詰められていたわけでないにもかかわらず、殺人という暴挙に走った末光には、いったん思い込むと視野が狭くなり周りが見えなくなる性格的偏り(研究者にありがちなのめり込みタイプ)があったのではないかと思えてきます。

 

そのように、思い込みにとらわれて自分を追い詰めがちな末光だからこそ、彼の不満や苦しみを第三者に受けとめてもらい、問題解決に少しでも資する形でそれを表出する道はなかったのだろうかと小川は思います。

 

たとえば、もし末光の研究の価値や意義が根拠なくおとしめられ、研究費が不当に削られ、また不合理な昇進差別が長年にわたってなされていたのであれば、それは大学におけるパワーハラスメント、いわゆるアカデミックハラスメント(略称アカハラ)に当たる可能性があります。

 

労働社会学が専門の矢野裕子氏が、この事件を事例として、大学教員の昇進差別とそれに対する労働組合の対応可能性を聞き取り調査した研究ノート(2022)によると、質問に応じた労働組合の幹部の多くが末光の事例を労組として取り組む課題になると認識し、「本事件は昇進差別と日常のパワハラの複合的人権問題」であり「「労働安全法」や「労働契約法」を踏まえてパワハラ是正の団体交渉を申し入れる」などの対応が考えられると回答しています。

 

パワハラ防止法と言われる改正労働施策総合推進法が2019(令和元)年に制定され、翌2020(令和2)年から大企業に対し、2022(令和4)年からは中小企業においてもハラスメント対策の強化が義務化されました。

 

この事件はそれより30年以上も前の出来事ではありますが、男女の雇用や待遇の均等な確保を求める男女雇用機会均等法が事件前年の1986(昭和61)年に施行されており、性別に限らず職場での不公平な待遇は不当との認識は生まれ始めていたのではないでしょうか。

 

教職員組合にも加入していた末光が、自分の不満や怒りを自分ひとりの問題として抱え込まず、公の場で問題として提起していたら、直ちに是正に向かうことは難しくとも、少数かもしれませんが彼の声に耳傾ける人も周囲にいたのではないかと思います。

 

そうして、自分の訴えが他者によって受けとめられ共有されたなら、「学部長を殺して恨みを晴らす」という短絡的で的外れな行動に末光が走ることを防ぎえたかもしれません。

 

それができなかったのは、末光自身の自閉的な性格傾向に加え、自分の待遇について他人に不満を漏らすことを恥と感じる大学研究者としての孤高な(自分は他とかけ離れて高い位置にいると思う)プライドがあったのかもしれませんが、末光が自らを追い込んだ孤立が、この事件におけるもう一つの重要な背景としてあったのではないかと思う小川ですショボーン

 

 

参照資料

・新聞の関連記事

・矢野裕子「労働社会学の観点からみる大学教員昇進差別ー広島大学教員殺人事件を事例としてー」京都西山短大『西山学苑研究紀要』17号、2022年

・「広島大学教授殺人事件~助手17年間の怨み(1987年)」広島の事件事故問題レポート、2013年10月10日

 
 
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