今回はリクエスト企画です
藤沢市母娘ら5人殺害事件
1981-1982年
朝日新聞(1982年5月28日)
1982(昭和57)年5月27日の夜、職場から藤沢市辻堂神台(つじどうかんだい)2丁目の自宅に帰った会社員・畑光治さん(当時46歳)が、玄関の外灯が消えていることに違和感を感じながら家の中に入ると、下駄箱の上に置いた電話器の線が切られて垂れ下がり、廊下から洋間に入ったすぐのところに次女の真里子さん(同13歳)が、台所との境目の冷蔵庫の前に長女の真輝子さん(同16歳)が、それぞれうつ伏せで血の海の中に倒れていました。
遠藤允『静波の家』より
(加工は小川)
この日、真輝子さんは友だちの家に遊びに行って留守で、家にいたのは妹で藤沢市立明治中学2年生の真理子さんだけでした。
この時、どういう流れだったのか藤間が真理子さんにキスをしようとし、最初ためらいながらも彼女はそれに応じたそうです(この話も、先に書いたように「藤間の供述によれば」だと思われます)。
当初は光治さんの帰宅を待つ予定でしたが、真輝子さんと晴子さんが襲われた時に悲鳴をあげたので、近所の人に知られたことを恐れた2人は、玄関から徒歩で逃走しました。
遠藤允『静波の家』より
(加工は小川)
ところが8月に、平山が藤間の財布から20万円を抜き取って姿をくらましたのです。
裏切られたと思った藤間は、平山の行方を執拗に追い返済の約束をさせますが、返済期日にすっぽかされてしまいます。
1981(昭和56)年10月6日、たまたま平山を見つけた藤間が、返済の約束を守らなかったことを問い詰めると、覚醒剤がらみの借金でそれどころでなかった平山は、「もう返す気なんかない」と居直っただけでなく、ヤクザとの関係をちらつかせて脅すようなことまで口にしたため、殺害を決意しました。
藤間は、「わかった、仕方ないから最後にドライブしよう」と平山を誘い、足がつかないよう彼のバイクに二人乗りして横浜市戸塚区の人気のないキャベツ畑に行き、夜の闇にまぎれてくり小刀で11ヶ所も刺して殺害したのです。
この時も藤間は捜査線に上ったのですが、殺害に直接結びつく証拠がなかったのと、藤間の母親が犯行のあった時間帯に息子は家にいたと嘘の証言をしたため、警察はそれ以上彼を追及せずに済ませてしまったのです。
もしこの時にきっちりした捜査を警察がして藤間を逮捕しておれば、その後の殺人は防げたのにと悔やまれるところです。
この平山殺害について少年院仲間の一人が事情を知っていると思った藤間は、母娘殺害後の逃走中に彼の家に口止めの電話をかけ、不在の息子に代わり電話に出た父親を、もし余計なことをしゃべれば一家皆殺しにすると脅したのです。
怖くなって警察に届け出た父親は、電話は以前に2度泊まりにきたことのある藤間の声に間違いないと証言したため、警察は脅迫容疑で藤間の逮捕状を取ったのです。
朝日新聞(1982年6月17日夕刊)
*母娘殺害についての脅迫とあるが、
正しくは平山殺害についての脅迫
さらに警察は、尼崎での岸殺害についても藤間を取り調べ追及しました。
朝日新聞(1982年6月18日)
朝日新聞(1982年6月23日)
取り調べで否認を続けていた藤間ですが、畑さん母娘殺害事件後に手に刃物による新しい傷を負っていること、現場の血だまりに残された靴跡が藤間の家にあった彼の靴と一致すること、逃走時に路上に残した血痕の血液型が藤間と一致することなど客観的な証拠を突きつけられると黙り込むようになり、さらに藤間の生い立ちを考えて、「君が頼れるのは取調官しかいない。われわれが親であり、父であると思って真人間にたち返れ」と話すと、藤間は「申し訳ない。一切のことを申しあげます」と母娘殺害を認め、平山・岸殺害についても自供を始めたので、警察は殺人容疑で藤間を再逮捕しました。
なお、警察庁はこの一連の連続殺人事件を、広域重要指定「112号事件」としました。
朝日新聞(1982年6月25日)
こうして、最終的には3件の殺人容疑と10件の窃盗容疑で起訴(脅迫については処分保留)された藤間静波に対する裁判が横浜地裁で1982(昭和57)年10月12日から始まりました。
この裁判の詳細な経過と内容については膨大になるので立ち入らず、結論だけを示すにとどめます。
取り調べ段階でいったんは素直に犯行を自供した藤間ですが、裁判になると黙秘権を行使し、またマスコミのカメラや傍聴人に向かってピースサイン(Vサイン)をする挑発的な態度や度重なる法廷での不規則発言、自供は取調官の暴力・拷問によるものだとの主張など、裁判はスムーズには進みませんでした。
護送中にVサインをする藤間
黙秘から否認、そして最後には容疑事実を再び認めるなど態度を転々とさせた藤間でしたが、5年余りの歳月に58回に及ぶ公判を経て、裁判はようやく結審します。
1988(昭和63)年3月10日の判決公判で横浜地裁の和田保裁判長は、「殊に、畑一家殺害の犯行は、被害者真輝子に執拗につきまとったため、被害者らから侮辱され、罵倒されたうえ、警察に通報されたことを逆恨みして、その報復として一家皆殺しを企図したもので、自己の非を棚に上げたあまりに身勝手で短絡的な犯行であり、被害者側に取り立てて責められるべき落ち度はなく、動機において酌量する余地は全く認められない」として、求刑どおり藤間に死刑を言い渡しました。
さらに裁判長は時折り涙声になりながら、「被害者真輝子は高校2年生、真理子は中学2年生としてそれぞれ学業に励み、晴子はパートで勤めに出る主婦として、それぞれ平穏な生活を送り、これからという矢先、いずれも自らにはさしたる落ち度もないのに突然被告人から、凶刃を振るわれて、瞬時にして非業の最期を遂げたもので、被害者らの苦痛、恐怖、その無念さにははかり知れないものがあり、最愛の娘と妻を一挙にして失った畑光治の衝撃、その悲嘆の心情は筆舌に尽くし難く、同情を禁じ得ない」と述べました。
それに対して、「薄笑いを浮かべながら、静波は最後に傍聴席に向き直り、両手でVサインをかざした」(『静波の家』)そうです。
朝日新聞(1988年3月10日夕刊)
国選弁護人の本田敏幸弁護士が即日控訴の手続きを取り、審理は東京高裁に移りました。
ここでも、途中で精神状態が不安定になった藤間が控訴取り下げを申し立てたため、審理が中断された状態で取り下げの有効性をめぐり最高裁まで争われたことなどからさらに裁判は長期化しました。
結局、藤間の控訴取り下げは無効と判定されて審理が再開され、2000(平成12)年1月24日、東京高裁の荒木友雄裁判長は一審の死刑判決を支持し、控訴を棄却しました。
弁護人は最高裁に上告しましたが、2004(平成16)年6月15日、最高裁第3小法廷は上告を棄却し、10日間の訂正申立て期限を経て藤間の死刑が確定しました。
母娘殺害事件から22年、裁判の開始からでも実に16年後のことです。
そして、2007(平成19)年12月7日、東京拘置所において藤間静波の死刑が執行されました。
21歳で連続殺人を犯した藤間の、47歳になって迎えた刑死でした。
人間関係での行き違いがあったとはいえ、中高生とその母親を情け容赦なく惨殺し、かつての仲間2人までも問答無用で殺害した藤間静波という人物には、戦慄を覚えるばかりです
1960(昭和35)年8月21日に生まれた藤間静波を、両親特に母親は溺愛していました。
「静波」という珍しい名前にもそれが表れています。
短歌が好きだった母親は、新古今和歌集の作に出てくる「藤波」(藤の花が波のように揺れ動く様)という言葉を、姓の「藤間」と「藤」が重なるため「静」に代え、生まれた長男を「静波」と名付けたのです。
1930(昭和5)年に富山県高岡市で二人姉妹の妹として生まれた母親は、夫と死別して再婚した後に生まれた子どもで、父親の違う姉とは11歳も年下だったこともあり、わがままいっぱいに甘やかされて育ったようです。
当時としては珍しく高等女学校を卒業し短歌や美術が好きな母親ですが、育ちのせいもあってか自分の思い込みが激しく気の強い女性でした。
一方、1926(大正15)年に、祖父の代までは商店も営む裕福な農家だった家の長男として生まれた父親は、中学を卒業すると予科練に志願して敗戦を迎えました。
戦後、かつての商店の一角で自転車店を営んでいた父親と、平塚市に引っ越して会計事務所に勤めていた母親とが出会い、父親の実家(藤間家)の反対を押し切って結婚します。
当初は父親の飾らない気さくさに惹かれた母親でしたが、自己主張に乏しくおとなしい夫に頼りなさ物足りなさを覚え、それだけに彼女が自分の趣味の良さと教養の高さを誇示するかのような名前をつけた息子への期待は大きなものだったようです。
ところが、藤間には母親の期待に沿える能力・資質はなさそうだということが、成長するにつれてわかってきます。
子どもは残酷なもので、幼稚園のころ、藤間は姓をもじった言葉でバカにされいじめられたそうです。
「藤間」は歴史ある姓で、元来は「とうま」と読んだのですが、藤間は「とんま」と言われてからかわれたのです。
それを知った母親は、改姓できないか役所に相談に行き、戸籍にはふりがながないので読み方を変えたらとのアドバイスに従い、姓の読みを「ふじま」と変えたのです。
父親は妻の行動に正面切って反対できず、しかし自分の勤務先では「とうま」の呼び方を変えずにささやかな抵抗を示しました。
このエピソードからも、父と母と息子の関係がよく見てとれると思います。
このようにある時期まで、母親は息子を過保護なまでにかばい、息子が他の子どもをいじめて帰ったのに、いじめられたと息子が言うとそれを真に受け、血相を変えてその子の家に怒鳴り込み、逆に恥をかくということもあったようです。
藤間も母の溺愛を感じて、いたずらをしては家という母親の庇護のもとに逃げ込むことを繰り返していました。
そうした母の態度が一変したのは、藤間が幼稚園児の時に妹が生まれてからです。
母親の溺愛の対象が息子から妹に移ったのです。
その不安と寂しさの結果なのか、小学生になった藤間は勉強もろくにせず、近所の店で万引きをしたり自分より弱いものをいじめるなど素行にも問題を起こすようになります。
そのころになるともう母親は息子をかばうことをしなくなり、押し入れに閉じ込めたり、時にはタバコの火を手に押し当てるというせっかんをするまでになっていました。
藤間の甘えと依存願望、その反面にある猜疑心の強さと「裏切られた」と思った時の容赦ない反応、自己愛の強さと自信のなさを弱いものへの支配という形で満たし補おうとする傾向などは、幼少期の経験を通して形成された性格の歪みによるものだったのではないでしょうか。
と同時に、精神衛生学の稲村博氏が「脳の発達に問題があるのではないか」と指摘する(『静波の家』)「素質的な面」の問題も藤間にあった可能性があるでしょう。
小学4年生の時に藤間はたった2人しかいなかった友だちの1人だった女子生徒の頬に鉛筆を刺してけがをさせる「事件」がありました。
これはどうやら、遊びの中で起きてしまった「事故」だったようなのですが、これを機に藤間には友だちがいなくなり、級友全部が結束して藤間を仲間外れにしたそうです。
小学校の生徒がそのまま進学する中学校でもそれは続き、入学後すぐに「藤間を殺す会」が作られるなど、深刻ないじめを受けました。
それを見返したいと空手道場に通い始め、4か月で辞めたものの空手の基本を身につけたそうです。
成績が全教科1の藤間には、家にも学校にも居場所がありませんでしたが、新聞配達のアルバイトを始め、得たお金で買った果物を妹に食べさせるという一面もまだあったようです。
しかし、中学2年の時、母親が音楽の才能があると思った妹にピアノを買い与え、たった2間しかない自宅の1間をピアノを置いて妹の部屋にしたことに嫉妬した藤間は、母と妹に暴力を振るうようになります。
1976(昭和51)年に中学を卒業した藤間は高校に進学せず、学校から紹介された工場に就職しますが3ヶ月ももたずに退職、その後は職を転々とします。
翌年、オートバイの窃盗で補導され保護観察処分になったのを始まりに、ひったくりなどをしては逮捕されて少年院に入ることを繰り返すようになります。
少年院でも孤立しがちな藤間は一人でいることが多かったようですが、平山や岸のような少年院仲間もできました。
ただ彼らが心から信頼できる相手でなかったことは、後に起こす事件からも明らかです。
それまで女性と付き合ったことがなかった彼が、21歳で出会った畑真輝子さんにどれほどのめり込んだかは想像に難くありません。
しかしその関係は不器用というよりも一方的で、今ならストーカーと言われるまでの執拗で自己中心的な行動を見ると、真輝子さんを単なる自己愛の道具として利用しようとしたと言っても過言ではないでしょう。
そんな藤間にとって、自分の思い通りにならないばかりか、辛辣な言葉で向かってくる真輝子さんは、自分を侮蔑する許せない存在と思われたことでしょう。
さらに、両親や妹までが自分をバカにし冷たくあしらうと受け取った時、考え方や行動に大きな偏りを持つ彼の頭には、「一家皆殺し」という極端な「制裁」しか浮かばなかったに違いありません
真輝子さんには、担任教師が「人を疑うことを知らない」と見ていたような人間関係の未熟さがあり、それがよく知らない藤間に安易に個人情報を教えたり、請われるままに会って期待を持たせる軽率な行動を生んだ面はあるでしょう。
それはまた、他者の期待にできるだけ寄り添ってあげたいと思う彼女の優しさだったかもしれません。
それが仇となったとすれば、一人残された父親として断腸の思いだったに違いありません
逃走中に藤間と岸は大阪で映画館に入り、「TATTOO〈刺青〉あり」(高橋伴明監督、1982)という映画を見たそうです。
この映画は、1979(昭和54)年に大阪の三菱銀行北畠支店に猟銃を手に押し入り、銀行員を人質に立てこもった末に射殺された梅川昭美をモデルにした映画です。
映画は銀行での出来事ではなく、そこに至る梅川の青春を描いたもので、少年院あがりで「30歳までにドでかいことをやってやる」と言い続け、無謀で愚かな犯罪を起こした末に虚しく死んだ梅川に、藤間が自らを重ねて見たとしても不思議ではないと遠藤允氏は書いています。
梅川昭美
そうだとすれば、素因の問題は置くとして、幼少期に親から受けた溺愛と手のひらを返したような突き放し(後に少年院を退院する時、家内の平安を優先した両親は息子の身元引き受けを2度にわたり拒絶し彼を切り捨てています)で傷つけられ歪められた自己愛を、死刑判決を受けてもなお精一杯虚勢を張ることで満たそうとした行為が、傍聴人に向かっての両手Vサインの愚行だったかもしれないと思うと、憎むべき非情な犯罪者である藤間静波の中に、哀れさも覚えてしまう小川です
そのことを理解いただくために、3つのエピソードを最後に書いておきます。
一つは、藤間が中学卒業時の寄せ書きに、「ぼくのことをわすれないでほしい」と書いたことです。
中学で藤間は級友たちから仲間外れにされていたと言います。
にもかかわらずそのように書いた彼の心境はどのようなものだったでしょうか。
懸命に自分の存在を主張する心の叫びだったのでしょうか。
二つは、少年院で「最もうれしかったこと」を質問された藤間が、小学2年生のころにジャングルジムから転落した時、父親が寝ないで看病してくれたことをあげたことです。
家庭の中で父親はいわゆる「影の薄い」存在で、藤間との関わりもほとんど知られないのですが、その父親が親身になって世話をしてくれたことを彼はずっと忘れられない思い出として心に秘めていたのです。
三つは、ある時期からすっかり疎遠になった母親との関係が束の間元に戻ったことがあるのですが、それは、平山を殺害した藤間のアリバイを母親が嘘をついて証言してくれたことからです。
自分をかばってくれた母親に、かつての母親が藤間の心によみがえったのでしょう。
これらのエピソードは、藤間がいかに親や友だちの愛情に飢えていたかを物語っているように思われます。
しかし、彼の期待はことごとく裏切られることになります。
そこにはもちろん、彼自身の責任が大きかったと思いますが、せめて親が彼をもう少し見捨てることなくケアをしていたら、事態はそこまで悪化しなかったのではないかと思わずにはおれないのです
大晦日は、お墓参りに行きました。
向かう途中に秋から冬に咲く桜が咲いていました🌸
気温が15℃あり、こんなに暖冬だった大晦日は初めてでした
昨年はアメブロを通じて、たくさんの人たちに出会えて、とても嬉しい年になりました
ありがとうございます😺
2024年もよろしくお願いいたします
令和6年(元旦) 能登半島地震
昨日、令和6年1月1日に石川県能登地方を
震源とする大きな地震が発生しました。
この震災で被害に遭われた方々に
心からお見舞いを申し上げます。
また、消防や救援の活動に全力で
携われている関係者のご尽力に、
深い敬意と感謝の念を表します。
何もできない自分の無力さを
はがゆく感じつつ、
被災地域の皆さまのご無事を
お祈りしております。