1990年  小6男児殺害 

「優しいおじさん事件」

 



1990(平成2)年3月18日、全国紙の紙面の多くが長崎屋尼崎店の火災で占められていたその日、もう一つの事件の急展開を告げる記事が掲載されていました。

 

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毎日新聞(1990年3月19日)

 

船橋市立宮本小学校6年の宮城拓磨君(当時12歳)は、同年2月23日の早朝に家を出てから行方不明になっており、26日に印刷関連会社経営の母親・要子さん(同33歳)から家出人捜索願いが出されていました。

 

警察は、事件性があると見て3月13日に公開捜査に踏み切り、行方を探しました。

 

毎日新聞(1990年3月13日夕刊)

 

朝日新聞(1990年4月18日夕刊)

 

その拓磨君が3月18日に、千葉県我孫子市の利根川水面でうつ伏せの腐乱遺体となって釣り人に発見されたのです。

 

朝日新聞(1990年3月20日 千葉県版)

 

朝日新聞(1990年3月19日)

 

発見現場は、利根川両岸を結ぶ栄橋の下流約1kmの地点で、流れが左にカーブする手前の右岸(下流に向かって右)でした。



 

⭕️のあたりが遺体発見現場

 

栄橋から下流を望む

 

拓磨君は、全裸で足首をビニールと黄色い布のひもで端が1mほど垂れた状態で縛られ、左腕もビニールと白っぽい布のひもで巻かれたようになっていて、それぞれのひもにはだんご状の結び目があるため、なんらかの重しをひもでくくりつけられて川に遺棄されたのではないかと思われます。

なお、足首の縛られた部分には生活反応がないことから(毎日新聞、4月18日)、縛られたのは殺害された後のようです。

 

司法解剖の結果、死因は溺死でしたが、川の水に含まれる植物性プランクトンが臓器から見つからなかったことから、風呂の水などにつけられて殺害されたあとで川に捨てられた可能性が高いと考えられます。

 

また死亡推定日は2月25日から3月4日の間で、足以外にも縛られた跡があったほか、太ももと後頭部に皮下出血がありました。

 

朝日新聞(1990年3月19日夕刊)

 

宮城拓磨君は両親が離婚したあと母親の要子さんに引き取られ、船橋市宮本2丁目の2階建ての借家で二人で住んでいました。

 

(毎日新聞)

 

最初のころは、仕事で母親が遅く帰ると、待ちかねた拓磨君が喜んで2階から駆け下りる足音を隣に住む大家さんの家族が聞いており、傍目にも親子仲は良かったようです。

また、明るく活発だった拓磨君は学校での友人関係も順調で、週末になると友だちが10人ほども家に遊びに来ていたと言います。

 

ところが、6年生になったころから母親との関係がうまくいかなくなったのか、拓磨君は荒れた様子を見せ始めました。

 

これは推測でしかありませんが、それは、新しい恋人(会社の共同経営者である37歳の男性)のできた母親の関心が、自分から男性の方に向き始めたことに思春期の拓磨君が敏感に反応して、母親に対する好きな気持ちとは裏腹に、わざと反抗的な態度をとったのかもしれません。

 

それに追い打ちをかけたのが、1989(平成元)年12月に、おそらく母親と恋人との交際の都合で、船橋市から東京都文京区千石に転居したことだったようです。

 

6年生で卒業も近かったことから拓磨君は転校せず、それまで通っていた船橋市の小学校に電車通学しましたが、通学に時間がかかることもあって学校が終わると拓磨君はすぐに一人で帰宅するようになり、以前のように友だちを家に呼んで遊ぶこともできなくなりました。

 

このようにして、母親からも友だちからも距離ができた寂しさと居場所のなさを感じるようになったからでしょうか、秋ごろから時折無断外泊をするようになった拓磨君は、転居後の1989年12月下旬から5回も家出を繰り返したそうです。

 

家出といっても長くて2日で帰ってきた拓磨君ですが、どこで何をしていたのか母親がたずねても口を閉ざして決して話すことはありませんでした。

 

どうやら、家出をするようになる前に、拓磨君が後になって「優しいおじさん」「親切なおじさん」と言う男性と知り合い、家出した時はその男性のところにいたのではないかと思われるのですが、おそらくその男性から「お母さんに話したらもう会えなくなるよ」とでも言われ、口止めされていたのでしょう。

 

拓磨君にそれまでにない異変が見られたのは2月17日のことでした。

 

この日は土曜日で、お昼すぎに学校が終わった拓磨君は、帰りに友人の家に立ち寄ります。

そして午後1時すぎに母親に、今から帰ると電話をしました。

 

その後、友人から「昼食代」と言って500円を借りた拓磨君は、1時半ごろにいつも通学に利用する東船橋駅の近くで友人と別れたのですが、駅から電車に乗ろうとせず、なぜか1.8kmほども離れた船橋駅の方に歩いて行ったというのです。

 

1981年に開業の東船橋駅

 

また友人からお金を借りたのも、この時が初めてだったそうです。

 

 

その後の拓磨君の足取りや500円を何に使ったのかは不明のままです。

 

午後3時半ごろに帰宅した拓磨君の姿は、傷だらけでした。

 

それまでにも時々顔にあざを作って帰ることはあったようですが、この日の拓磨君は唇が2倍にも腫れ上がり、口から両頬にかけては縛られたような傷(猿ぐつわか?)、手足や背中にあざができ、すり傷や引っかき傷もあるという有り様でした。

もちろん、友人と別れた時にそんな傷はなかったのです。

 

毎日新聞(1990年3月23日)

 

何が起きたかは不明ですが、上の記事にあるように、午後1時半ごろに友人と別れ2時間後の午後3時半ごろに帰宅した拓磨君には、自宅までの交通に要する約1時間を引くと残り時間は約1時間しかありません。

そうなると、東船橋駅から何かが起きた現場までの時間(徒歩か、借りた500円を使ってバスに乗ったか)を考えると、ごく短い時間で縛る・殴るなどされケガを負ったことになります。

 

息子を見て驚いた要子さんは理由を問い詰めますが、拓磨君は「学校で(傷を)つけた」と言ったきり話そうとしません。

それどころか「逆ギレ」する拓磨君に困った母親は、その日の夜、共同経営者の恋人に来てもらい二人で拓磨君を詰問しましたが、答えずに暴れ出す始末でした。

 

そこで母親は、彼に頼んで警察官のふりをして拓磨君に電話で事情を聞いてくれるように依頼し、男性は会話を録音しながら15分ほど拓磨君と話をしたそうです。

この時のカセットテープは、警察が拓磨君の自宅で見つけています。

 

カセットテープ(例)

 

その中で拓磨君は、「優しいおじさんと昨年12月末に知り合った。おごってくれたりした」、「優しいおじさんは船橋市のららぽーとの近くに住む30ー40歳ぐらいの男性で、部屋の鍵を渡されていた」などと話しています(毎日新聞、3月19日)。

 

1981年にオープンした「ららぽーと船橋ショッピングセンター」

(現在は「ららぽーとTOKYO-BAY」)

 

(地図は現在のもの)

 

また、朝日新聞によると、「拓磨君は、30−40代の「サイジョウ」と名乗る男性と親しくなり、食事をごちそうになったり、車で送ってもらっていたなどと話した」そうですけれど、名前は偽名だったと思われます。

 

朝日新聞(1990年4月16日夕刊)

 

顔の傷の腫れがひかないこともあり、母親は2月22日まで拓磨君に学校を休ませました。

そして22日の夜に再び母親は傷について拓磨君に聞きましたが、彼は答えずに「家を出ていく」「優しいおじさんがいる、お母さんより大切な人だ」と反抗したため口論になったそうです。

 

その後、23日の午前4時ごろになって拓磨君が「3月17日の卒業式に出れば文句ないんだろう」と言ったために、母親はひとまず話を終えました。

 

そして午前6時半ごろになって母親が拓磨君の様子を見に行くと、彼の姿はもうありませんでした。

 

それまでの家出だと最長2日で帰ってきたからでしょうか、母親が警察に家出人捜索願いを出したのは、3日後の2月26日でした。

 

警察は、彼が事件に巻き込まれた可能性もあると判断して3月13日に公開捜査に踏み切りましたが、拓磨君は17日の卒業式にも姿を見せないまま、18日に遺体となって発見されたのです。

 

毎日新聞(1990年3月17日夕刊)

 

警察は、遺体を縛っていたロープなどの遺留品や、「優しいおじさん」の話などを手掛かりに捜査を進めましたが、容疑者を特定することができないまま捜査は行き詰まり、2005(平成17)年に公訴時効を迎えてついに未解決事件となりました(2010年以降の事件については殺人罪の公訴時効は廃止されています)。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

小学6年生の男児が、無惨な姿で殺害・遺棄されるという痛ましい事件ですショボーン

 

この事件については警察の捜査情報も、一部が新聞記事になった以外、公式には明らかにされておらず、非常に多くの謎が残されたままですキョロキョロ

 

この事件に謎が多い最大の理由は、拓磨君の「家出」や「けが」、「優しいおじさん」の話などの情報源が、録音テープの内容を除くとすべて母親の要子さん(と一部交際相手の男性)に限られている点にあります。

つまり、第三者の証言がまったくと言っていいほどないのです。

 

たとえば、自宅に何度か不審な電話がかかってきて、母親が出ると無言なので切ると、拓磨君が「僕にかかってきた電話じゃないのか」と怒ったという話があります。

拓磨君が誰か(「優しいおじさん」?)と電話番号を教え合い、母親が不在の時に電話でやり取りしていたことをうかがわせるこの話も、まだナンバーディスプレイの機能(1997年開始)が電話機にないころですので、母親の証言しかありません。

 

極論すれば、2月17日に拓磨君の顔や体に言われるような傷があったのかさえ、母親と恋人以外の第三者で見た人はいないのです。

 

もちろん捜査の常道として警察は被害者の身近な人物、つまり母親とその恋人について犯人である可能性がないか十分に調べたはずで、その結果2人の潔白は証明されたのだろうと思います。

 

それだけに小川が残念に思うのは、小学6年生の子どもが5回も家出を繰り返し、どこで何をしていたか分からないにもかかわらず、母親が恋人以外それを学校にも警察にも相談しなかったことですショボーン

 

特に、唇が腫れあがるなどして学校から帰ってきた2月17日の件で、5日間も学校を休ませながら、病院に連れていくことも学校に事情を聞くこともせず、警察官になら正直に話すかもしれないと考えて恋人に警官のフリをさせながらも、警察に相談に行くことはしなかったなど、不可解に思われます。

 

また、いくらそれまでは家出をしてもすぐに帰ってきたとはいえ、23日については、傷を負わされて帰ってきた子どもがその原因について頑なに口を閉ざしたまま黙って家を出たのに、捜索願いを出したのが3日もたってからというのも、今からすれば理解に苦しむところです。

 

被害者の母親を責めるつもりはありませんが、第三者への相談やもう少し危機感をもって迅速な対応をしていれば、最悪の事態を防げたかもしれませんし、少なくとも容疑者に近づく手がかりが得られたかもしれないと悔やまれるのですショボーン

 

物証がほぼない中で、最大の手がかりとなった「優しいおじさん」ですが、その話を聞いた級友は一人もおらず、またららぽーとや駅周辺の聞き込みでも拓磨君と男の目撃情報がまったく得られないことから、捜査陣の中にもその実在を早い段階から疑問視する人が少なくなかったと言われます。

 

こうして大きな話題となった「優しいおじさん」も幻に終わり、先に述べたように事件は迷宮入りとなってしまいました。

 

朝日新聞(1990年3月20日 千葉県版)

 

なお拓磨君が着ていた衣服についてですが、3月26日に遺体発見現場から上流に5kmほど行った利根川左岸河川敷で、白のズック靴と黒ズボン、黒のランニングシャツが見つかったそうです(読売新聞、1990年3月27日)。

しかし、DNA型鑑定の導入が始まった1992年度以前ということもあって、犯人に結びつく手がかりはそれらから検出できませんでした。

 

非業の死を遂げた宮城拓磨君の告別式は、3月22日に馬込斎場で営まれ、拓磨君の同級生36人を含む300人ほどが参列し、小学校長が遺影に卒業証書を供えたとのことです。

 

事件の犯人はやはり「優しいおじさん」なのか、「優しいおじさん」は1人なのか複数人の変質者グループなのか、それとも拓磨君の作り話なのか、また犯行には小児性愛や緊縛、サディズムといった性的嗜好が絡んでいるのかなど、情報が少ないだけにネット上ではさまざまな推測・憶測がなされていますショボーン

 

しかし、新しい情報が得られたわけではない小川としては、そうした推測にさらに不確かな私見を重ねることはしないでおきます。

 

その代わり、一つ言いたいことがあります。

それは、拓磨君が感じていたであろう寂しさ、悲しさについてですショボーン

 

すでに書きましたが、仲の良かった拓磨君と母親との関係がギクシャクし始めたのは、母親に新しい恋人ができたのがきっかけでした。

 

自分だけを見てほしい母親の目が他の男性の方を向き始めたことは、拓磨君にとって大きな不安であり寂しさであり、また母親が「恋する女」の顔をみせることは、思春期の彼には複雑な感情を呼び起こすものだったのではないでしょうか。

 

母親に反抗的になったり荒れた様子を見せたり、おそらく男性が訪ねてきたのであろう日曜日になるとふっとどこかに出かけてしまったという拓磨君の行動には、自分でもどうしようもない彼の心の揺れと葛藤が表現されていたように思います。

 

「優しいおじさん」が実在したかについてはわかりませんが、少なくとも「僕にはお母さんよりも大切な優しいおじさんがいる」と言った時の彼の気持ちは、「だからそのおじさんよりももっと優しい大切な”僕のお母さん”に戻ってほしい」ということだったのではないでしょうか。

 

そうしたことを考えながら小川が思い出したのは、1982(昭和57)年に起きた新宿歌舞伎町ディスコ女子中学生殺傷事件の被害者・落合雅美さん(当時中3、14歳)です。

  

 

幼くして両親が離婚し、祖父母のもとで育てられた雅美さんは、中2の時に東京で母親と一緒に暮らすようになります。

ところが、ホステスをしていた母親とは完全なすれ違い生活で、彼女は孤独と寂しさを募らせ、学校を休んで夜の繁華街をうろついたり、無断外泊をするようになります。

 

彼女が束の間の居場所にしたのはディスコでしたが、そこで出会った人物の手で殺害されてしまったのです。

 

彼女が家出をする直前、「とにかく目立っていたかった(略)それはただ一つの自己主張だった」と作文に書いたのを受けて小川は、それは「私を見て! 私はここにいるよ!」と精一杯自分の存在に目を向けてもらおうとした雅美さんの、助けを求める叫びだったのではないかと書きました。

 

拓磨君も雅美さんと同じSOSを、反抗や家出の形で発信していたのではないか、ところが不幸にも敏感にそれを受信したのが、これも雅美さんの場合と同じく、邪悪な意図を持った悪しき人物(拓磨君の場合は「優しいおじさん」)だったのではないか、そのように思えてならないのです。

 

33歳の母親が恋をし新しい人生のパートナーを得ようとするのは自然なことで、誰もそれを非難することはできません。

しかし「難しい年ごろ」の子どもがいれば、当然子どもからの反発や問題行動が起きる可能性があるでしょう。

 

そうした時に、この母親にも拓磨君にも、親身に相談に乗って危機を乗り越える助けになってくれる人や機関や場所が周りになかったことが、悲劇の背景としてあったのではないかと小川は思うのです。

 

母親が警察などに相談に行かなかったことを疑問視する言い方を先にしましたが、今のようには警察も自治体も、親子間や家族内のプライベートな問題に相談の門戸を開いてはいなかったかもしれませんし、さまざまな支援活動をするNPO法人の制度ができたのも1998(平成10)年になってからのことです。

 


大人であれ子どもであれ、「居場所」を失って困っている人を決して孤立させない社会にしていくために、新宿歌舞伎町ディスコ女子中学生殺傷事件の被害者・落合雅美さんや今回の宮城拓磨君の悲劇を忘れないようにしたいと思う小川です🥺

 

 
 
年末で仕事が忙しくなり、残業が終わって深夜に帰宅してから甘いお菓子やアイスを食べながらブログを書きました😸🍨
 

 最後までお読みいただき、ありがとうございますラブ

 この事件をYouTubeにアップしました⬇️