三重県津市

女学生集団水死事故

1955年

読売新聞(1955年7月28日夕刊)

 

1955(昭和30)年7月28日午前10時ごろ、三重県津市の中河原海岸(通称文化村海岸)で、津市立橋北(きょうほく)中学校が、この年からは津市教育委員会の通牒により正課の授業としておこなっていた全校生徒660人参加の水泳訓練で、100人近い女子生徒が突然の高い波と早い潮で体の自由を失って流され、深みに足を取られ溺れて、うち36人が亡くなるという集団水難事故が起きました。

 

津市立橋北中学校(1958年)

 

毎日新聞(1955年7月28日夕刊)

 

同校の水泳訓練は7月18日から28日までの予定で実施されていました。

事故があった日は訓練最終日で、午前中に最後の能力テストがおこなわれていた最中でした。

 

この日は快晴で波も穏やかな海水浴日和、このような事故が起こるとは誰も予想していませんでした。

 

遠浅の中河原海岸

(現在は遊泳禁止)

 

水泳訓練がおこなわれたのは、安濃(あのう)川の河口から南に約300mのところを北限にして、その南側の幅110m、沖合に41m(水深1m)の区域でした。

 


安濃川河口から距離を取ったのは、海に流れ込む川の水で海底がえぐられて「澪(みお)」と呼ばれる帯状の谷ができており、水深が深く危険だからです。

 

ちなみに、海や川にできる澪は船の通り道にもなるので、澪の境界を示す「澪標(みおつくし)」は大阪市の市章にもなっています。

 

 

澪標と大阪市旗

 

この事故では、水深1mまでの訓練区域の北半分で泳いでいた女子生徒たちが、大きなうねりと強い海流で水面が上昇して背が立たなくなり、そのうち何人もが水深2mを超える澪まで流されて溺れたために起きたと見られています。

 

毎日新聞(1955年7月29日、小川加工)

※図は縮尺が正確でないが、訓練区域の

北端から澪の縁までは約30mあった

 

同校の水泳訓練では、能力別に全校生徒を男子7組、女子10組に分けていましたが、この時に能力テストを受けていたのは、よく泳げない生徒が集まった組で、亡くなった36人のうち2年生が6人、3年生が3人で、1年生が大半の27人を占めていました。

 

彼女たちは、すぐに水深が浅くなる浜辺近くだと泳ぎにくいので、沖の境界線ギリギリのところまで行って泳ぎ始めようとしていました。

 

ところが、水に入ってまだ数分たつかたたないかで、高いうねりと南から北への強い海流が押し寄せたのです。

 

前日までの北から南への海流とは反対に、この日の北へ向かう海流の存在は、訓練の準備をしていた段階で把握されており、教師が訓練開始時に生徒たちに注意するよううながしていましたが、それ以上の対策は取らないまま訓練を始めたため、事故後にそれが過失の有無をめぐっての争点になります。

 

なお、男子生徒が使っていた訓練区域の南半分では、そうした異常な流れはほとんど感じられなかったようです。

 

読売新聞(1955年7月29日)

 

女子生徒たちが次々に溺れるのを見た教師たちや訓練補助の3年生水泳部員、また近くにいた漁師や通報で駆けつけた警察・消防関係者なども加わって懸命の救助活動がおこなわれ、溺れた44人(49人という記載も)が助け上げられ、医師らによる人工呼吸などの救命措置がほどこされましたが、5時間以上もの人工呼吸で命をとりとめた生徒がいた一方、36人はついに意識を取り戻すことがありませんでした。

 

毎日新聞(1955年7月28日夕刊)

 

読売新聞(1955年7月29日)

 

事故の責任については、校長、教頭、体育主任の3人が業務上過失致死罪で起訴されました。

 

朝日新聞(1955年7月29日)

 

朝日新聞(1955年12月28日夕刊)

 

1958(昭和33)年4月、津地方裁判所(山口正章裁判長)は、「職務上必要な注意義務を尽くしておれば右36名の溺死はこれを防ぎ得たもの」として、それぞれ3年の執行猶予を付けて校長に禁錮1年6月、教頭に同1年、体育主任に同1年4月の有罪判決を言い渡しました。

 

被告・弁護人が判決には事実誤認があるとして控訴し、名古屋高等裁判所で引き続き審理が行われました。

 

争点となったのは、女子生徒たちを襲った「異常流」がどの程度のもので、教師が十分に注意していれば水難が避けられたのかどうかでした。

 

地裁判決では上で見たように、「異常流」があったことは認めながらその程度は「立っているものが押し流されるというまでには至らぬ程度のもの」とし、「注意義務を尽くしておれば防ぎ得た」としました。

 

それに対して高裁の判決では、教師や女子生徒だけでなく、救助にあたった漁師や、午前9時ごろに鳥羽付近で海藻をとっていた海女もそれまで経験したことのない強い潮の流れがあったと証言していることなどから、生徒が入水して2、3分後に沖合から女子の水泳場付近に突然大きなうねりが押しよせ、それとともに強い北流が出てきて、「女子水泳場は沖側の境界線附近でさえ、1m足らずの水深しかなかったのに、たちまち1m4、50㎝位に水位を増した」と認めました。

 

そのことから、澪にまで流される以前に多数の生徒が体の自由を失って溺れかけ、そこで助けられた人は無事だったものの、さらに北の澪へと流されてしまった生徒から命を失った人が続出したのではないかと思われます。

 

異常流の原因については、7月25、26日ごろから南方海上に発生して北上中だった台風13号からのうねりだったという見方や、津の沖合を全速力で相次いで航行した2隻の大型船(1万トン級と4千トン級)の蹴波の影響、離岸流(波打ち際から沖に向かってできる流れ)などが仮説として出されましたが、確定するには至りませんでした。

 

朝日新聞(1955年8月1日)

 

しかし原因はともかく、1961(昭和36)年1月24日の判決公判で高裁の小林登一裁判長は、「本件水難事故は(…)急激な水位の上昇と異常流の発達という不可抗力に起因するものであって、この事態に処した被告人等の所為につき検察官の所論のような過失を認むべき証拠が十分ではない」とし、原判決を破棄して校長(当時)ら3人に無罪判決を言い渡しました。

 

朝日新聞(1961年1月24日夕刊)

 

それとは別に、犠牲者36人のうち33人の遺族が津市を相手どって慰謝料と損害賠償(一人50万円)を請求した民事裁判では、1966(昭和41)年4月15日に津地裁の山田義光裁判長が、原告の主張どおり名古屋高裁の「不可抗力」という判断を退けて教師(津市側)の過失を認める判決を下しています。

 

朝日新聞(1966年4月15日夕刊)

 

それに対して津市は控訴しましたが、1970(昭和45)年6月に名古屋高裁の職権による和解が成立し、15年に及ぶ長い裁判はようやく決着しました。

 

朝日新聞(1970年6月30日)

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

36人もの女子中学生が、こともあろうに学校の水泳の授業で亡くなるという大変痛ましい事故です。

 

津地裁の判決文によると、この時の橋北中学校の生徒のうち男子の34%、女子の84%が「水泳未熟者」で、同校では正課の授業になる前から夏休みを前にして生徒の水難事故を防止するため水泳訓練を学校行事として実施していました。

学校側の過失責任については、刑事と民事で判断が分かれましたが、そうした取り組みをしていた学校での事故だけに、関係者の無念の思いは一層強くあったことでしょう。

 

同じ1955(昭和30)年5月11日には、このブログでも取り上げた宇高連絡船の「紫雲丸事故」が起きており、修学旅行中の小中学生100人が亡くなっています。

 

この二つの事故がきっかけとなって、学校の授業で子どもたちに水泳を教えることと、水泳の授業は海や川ではなく学校のプールで行うという方針が文部省から打ち出されました。

 

ちなみに、これも以前にブログで取り上げましたが、韓国でも2014年の「セウォル号沈没事故」で泳げない生徒が多数亡くなったことを教訓として、学校で水泳の授業がおこなわれるようになっています。



 

現在の中学生の泳力の統計は見つけられませんでしたが、日本トイザらスが2018年におこなった意識調査では、20歳以上の日本人で泳げない人の割合は17.8%だそうです。

 

「泳ぐことができますか」と問われるとそれなりの泳力を考えるでしょうから、まったく泳げない(浮くことさえできないいわゆる「カナヅチ」の)人の割合は17.8%よりもさらに少ないように思います。

 

 

このように日本人の8割以上が大人になるまでに泳げるようになっているのには、学校での水泳授業が貢献していることでしょう。

ただ現在では、スイミングスクールなどに通って小学校入学前にすでに泳げるようになっている子どもの数も増えているそうです。

 

小川も、幼稚園児のころから親に水泳教室に通わされ、それなりに泳げるようになりました。

親としては、水泳選手にしたいとかでは全然なく、わが子が池や川に落ちたようなちょっとした事故で簡単に溺れ死ぬことがないようにという願いからだったそうです。

 

最後に、この事故に関して小川がどうしても言いたいことがあります。

それは、現在でもこの水難事故をいわゆる心霊現象とからめて取り上げるものが少なくないことについてです。

 

 

 

 

1945(昭和20)年7月28日の深夜、アメリカ空軍が津市に無差別爆撃をおこない、「少なくとも死者2,500人以上、全損家屋1万戸以上、罹災者1万6千人以上」(ウィキペディア「津空襲」)という大変な被害をもたらしました。

 

焼け野原となった津市街

(毎日新聞)

 

ところが、橋北中学の水難事故がたまたま津空襲からちょうど10年後の同じ日に起きたことから、「空襲犠牲者の霊の仕業ではないか」という噂が事故の後に地元では流れたと言われます。

そしてそうした話を、1年後の1956(昭和31)年7月29日に地元紙『伊勢新聞』が記事にします(朝里樹「なぜ女生徒36人は突然、海で溺れ死んだのか……「橋北中学校水難事故」の真実」現代ビジネス、2020年9月4日)。

 

さらにそれが、にわかに信憑性のある実話として広まったのは、事故から8年後のことです。

 

そのきっかけとなったのは、週刊『女性自身』です。

同誌は1963(昭和38)年7月22日号で、「恐怖の手記シリーズ③」と題し、溺れかけた女子生徒の一人である梅川弘子さんの「手記」を掲載しました。

 

 

    

私たちがいる場所から、20〜30メートル沖の方で泳いでいた友だちが一人一人、吸いこまれるように、波間に姿を消していくのです。すると、水面をひたひたとゆすりながら、黒いかたまりが、こちらに向かって泳いでくるではありませんか。(略)黒いかたまりは、まちがいなく何十人という女の姿です。しかも頭にはぐっしょり水をすいこんだ防空頭巾をかぶり、モンペをはいておりました。

 

そしてこの手記の内容を、児童文学作家の松谷みよ子さんや漫画家の水木しげるさんが本で取り上げたことで、さらに真実味を帯びて広まっていったのです。

 

 

今でも、この「手記」をもとにした話や動画がネットには数多くあげられています。

 

しかし、先ほどあげた朝里樹さんや安藤健二さん(「「防空頭巾の女が海中にひきずりこんだ」という怪奇体験は事実ではなかった。36人死亡の中河原海岸水難事故の生還者が明かす」HUFFPOST、2022年7月28日)が書いているように、雑誌の手記は、梅川さんの実際の話を「恐怖の手記」にふさわしく記者が大幅に「話を盛った」もので、NHKの番組『幻解!超常ファイル File-22「戦慄の心霊現象 追究スペシャル」』(2017年9月16日放送)の中で梅川さん本人が、「亡霊とかそういうのは、私は全然見てません」とカメラの前で「真相」を語ったそうです。

 

「足を引っ張られたかどうかというのを言われたときに、『一緒に溺れた人が引っ張るんかな?』と言うたと思うんです。誰でもそのときは『わらをも掴む』話じゃないけど、それで掴んだのかなと。だから後のことは『えーっ』っていう感じ。『週刊誌になるとこういうことになるんやねー』と。」

 

梅川さんはまた、後藤宏行さんのインタビューに対しても、「亡霊を目撃したと話したことはない」と明言しています(『死の海』2019)。

 

しかしこの亡霊話が、空襲での身元不明の遺体が中河原海岸に埋められたという事実無根の「尾ひれ」までついて、まことしやかに広められたのです。

 

心霊現象を信じたい人は、「いや、それでも……」と言うかもしれません。

 

しかし、心霊現象や怪談話を好む人間の心理、オカルトものが流行する社会現象には興味がある小川ですが、それを事実であるかのように思わせようとする人の話に、小川はつき合う気になれません。

 

作家の想像力が生み出すミステリーやファンタジーは小川も楽しみますし、怪異な話を含む民俗伝承文化も好きなジャンルです。

けれども、『女性自身』の記者のように、人の生命が無惨に奪われた事故や事件をことさらミステリアスなものに仕立てて、一時の娯楽として消費することに、小川は受け入れたくないものを感じるのです。

 

さらに、この水難事故は戦争犠牲者の霊の仕業だという話が小川の心をえぐるのは、それが被災者に対する冒瀆以外の何ものでもないと思うからです。

 

先にあげたように、津空襲では数多くの一般市民が非人道的な無差別空爆で殺傷されました。

苦しみぬいたむごい死に方をされた人も多かったでしょうし、多くの怨念や無念がそこにはあったことでしょう。

 

しかしだからといってその犠牲者たちが(仮に霊があるとしても)、何の罪もない女子中学生たちを見境もなく襲い、自分たちと同じ死の苦しみや無念さを味わわせて地獄に引きずり込んでやろうなどという邪悪な意志を持つなどありえるでしょうか。

 

この水難事故を、恨みに取り憑かれた悪霊の話にして慰みものにするのはもうやめにしてほしいと、心から小川は願います。

 

中河原海岸には、事故後すぐに故人を供養する卒塔婆が建てられ、一年後の1956(昭和31)年7月28日には、現場から少し離れた場所に犠牲者の慰霊と海の安全を祈願する「海の守りの女神像」が建立されました。

 

 

海の守りの女神像

 

事故から68年が経ってこの像を訪れる人も少なくなり、雑草が生い茂る中でひっそりと立っているという話をネットで読んで悲しくなりましたが、毎年7月28日に慰霊に訪れている橋北中学の教職員と在校生が、今年も女神像の周りの草刈りをして献花・黙祷したというニュースを見て、事故が忘れ去られず後輩たちに語り継がれていることを知り、少しホッとした気持ちになった小川です。

 

 

参照資料

・新聞の関連記事

・津地方裁判所判決文

・名古屋高等裁判所判決文

 

 

(『昭和の謎 99』2023年春号)
 
読んでくださり、ありがとうございました🥹💕