今回はリクエスト企画ですニコニコ

首都圏女性連続殺人事件

「冤罪のヒーロー」

から転落した小野悦男

 

1968(昭和44)年から1974(昭和49)年にかけて、東京・埼玉・千葉の首都圏で、1人の男性をのぞき計11人の女性が被害者となった10件の殺人事件が起きました。

うち7件は1974年の7月と8月のわずか2ヶ月間に連続して起きています。

 

首都圏女性連続殺人事件

*❸❺以外の8つは、後述の小野悦男が

犯行を自供したとされる事件

(毎日新聞 1974年12月2日を補正し小川作成)

 

8つの事件の被害女性たち

(毎日新聞 1974年12月7日)

 

【首都圏女性連続殺人事件の概要】

それではまず、それぞれの事件の概要を、当時の新聞記事とともに見ていくことにしましょう。

 

①東京都足立区綾瀬駅裏 暴行焼殺事件(1968.7.13)

 

朝日新聞(1968年7月14日)

 

1968(昭和43)年7月13日の午後、国鉄(現在のJR)常磐線綾瀬駅近くのテニスコート脇の草むらで、黒こげになった女性の遺体が発見されました。

父親からの届け出で、この女性は会社員の伊藤久美子さん(26歳:当時、以下同じ)と確認されました。

 

伊藤さんは、12日朝に出勤し、会社の送別会に出て同僚と電車に乗り、午後9時ごろに綾瀬駅で下車したまま、帰宅しませんでした。

 

遺体の状況から、伊藤さんは現場近くで乱暴され、仮死状態で現場に運ばれた後、身元を隠すためにガソリンなどの油類をかけて焼殺されたものと見られています。

近所の住民が、13日午前2時ごろに現場付近で炎が上がっているのを目撃しています。

 

警察は、13日の午前1時ごろに駅南口のスナックに伊藤さんとよく似た女性が1人で来て、少し遅れて店に来た男性と親しげに話をした後、一緒に店を出たという目撃証言を重視して捜査にあたりました。

男性は、角顔で色が浅黒く、油気のないボサボサ髪、黒か紺のポロシャツを着たがっしりした体格の職人風だったそうです。

 

朝日新聞(1968年7月15日)

 

②東京都北区東田端 暴行焼殺事件(1973.1.26)

 

朝日新聞(1973年1月27日)

 

1973(昭和48)年1月26日、東京都北区東田端のアパート「柳荘」1階で、就寝中のOL・小口伸子さん(22)が、絞殺された上に放火されました。

 

現金には手がつけられていないことから、強姦目的で侵入した犯人が、抵抗されたために殺害したと見られています。

 

❸東京都杉並区高円寺 アパート放火事件(1973.2.13)

 

朝日新聞(1973年2月13日夕刊)

 

1973(昭和48)年2月13日の未明、東京都杉並区高円寺の2階建アパート「美山ハウス」の1階付近から出火し、アパートと隣家が全焼しました。

 

焼け跡から、いずれもアパート2階の各部屋にいた阿部せんさん(71)と園田隆治さん(22)の二人が焼死体で見つかりました。

 

火元と見られる1階の部屋は空き部屋で、現場検証の結果、警察は放火と断定しました。

 

この事件も新聞やウィキペディアで「首都圏女性連続殺人事件」のリストにあげられてはいますが、一連の事件とは犯行内容がかなり異なります。

 

しかし、この事件の前後に杉並区内で2件の類似した放火事件が発生していることから、警察は同一犯の可能性もあると見ていました。

 

朝日新聞(1973年2月15日夕刊)

 

④千葉県松戸市馬橋アパート 暴行焼殺事件(1974.7.10)

1974(昭和49)年7月10日の未明、松戸市馬橋のアパート「常盤(ときわ)荘」2階に住む、市立馬橋小学校教諭の小沼雅子さん(21)の部屋から火が出て、焼け跡から小沼さんの焼死体が発見されました。

 

小沼さんは、暴行されたあと鼻と口をふさがれて殺され、証拠を隠滅するために犯人がガスコンロの元栓を開けたまま火をつけたものと見られています。

 

小沼さんが殺害された「常盤荘」

2階右側の部屋

読売新聞(1974年11月14日夕刊)

 

❺東京都葛飾区東四つ木料理店 暴行焼殺事件(1974.7.14)

 

朝日新聞(1974年7月15日)

 

1974(昭和49)年7月14日、東京都葛飾区の小料理店2階で、経営者の石井りうさん(48)と店員の柳悦子さん(58)が殺され放火される事件が発生しました。

 

この事件も、当初は首都圏女性連続暴行殺人事件の一つと見られていましたが、7月30日の警察の捜査担当課長会議は、カネ目的の顔見知りの男の犯行で、一連の事件とは関係ないとの結論を出しました。

 

朝日新聞(1974年7月31日)

 

⑥埼玉県草加市氷川町アパート 暴行焼殺事件(1974.7.24)

 

朝日新聞(1974年8月8日)

 

1974(昭和49)年7月24日、埼玉県草加市氷川町のアパート「辻本荘」2階に住むドラッグストア店員の柳沼正子さん(22歳)が、暴行されて殺された上に、部屋に火をつけられるという事件が起きました。

 

犯人は、近所で盗んだはしごをかけて2階に上り侵入しています。

 

この事件では、現場付近や東武伊勢崎線草加駅から始発電車に乗った小野悦男に似た人物が目撃されています。

 

警察は、遺体が焼けているために断定はできないが、遺体に付着していた体液から犯人の血液型を「ほぼO型」と結論づけました。

 

7月10日に松戸市馬橋で起きた小沼雅子さんの事件(リストの④)で検出された犯人の血液型が「O型もしくは非分泌型」と鑑定されていることと、両事件の犯行状況の類似性や現場の近さから、「犯人が同一である可能性が一段と強まった」と埼玉県警は見て、関東管区警察局と協力しながら捜査を進めることにしました。

 

*体液に含まれるABO式血液型を決める物質の分泌量が遺伝的に非常に少ないか分泌されないために、体液からは血液型が特定できないタイプ

 

⑦東京都足立区綾瀬アパート 暴行焼殺事件(1974.8.6)

 

朝日新聞(1974年8月6日)

 

1974(昭和49)年8月6日午前4時過ぎ、東京都足立区綾瀬5丁目の竹内さん宅の2階に間借りしている山形県米沢市出身の会社員・高橋啓子さん(24)の部屋から出火、焼け跡から高橋さんと見られる焼死体が見つかりました。

 

朝日新聞(1974年8月7日夕刊)

 

遺体を解剖したところ、高橋さんは午前0時過ぎに襲われたようで、体内から男の体液が検出されたことから乱暴された上に左胸を刃物で刺され、さらに鼻と口を押さえられて仮死状態になったところ、さらに部屋に火をつけられたため焼死したと見られています。

 

この日、家主の竹内さんは家族旅行で留守にしており、家には高橋さん一人でした。

 

高橋さんの部屋には以前に泥棒に入られたことがあり、ドアには二重に鍵をかけていましたが、この日はドアの鍵が開いていたことから、警察は顔見知りの犯行の可能性もあると見ていますが、首都圏では先月から千葉県松戸市と埼玉県草加市で、アパートに一人住まいの若い女性が殺され放火される事件が相次いでいることから(事件リストの④と⑥)、警視庁は同一犯の犯行も視野に厳重捜査するよう綾瀬署に指示しました。

 

朝日新聞(1974年8月7日)

 

綾瀬署はその後、犯人の血液型を「OまたはB型」と突きとめ、千葉(④)と埼玉(⑥)の犯人の血液型も「ほぼO型」と見られることから、流しの犯行の場合は同一犯である可能性が強まるとして、顔見知りの犯行の可能性がないか交友関係の洗い出しを急ぎましたが、その後の捜査で顔見知りの線はなくなり、警察は流しの犯行と断定しています。(⑧の新聞に関連記事が2つあります)

 

なおこの事件では、直後に地下鉄綾瀬駅から身長165〜170センチ、40歳過ぎ、白っぽいシャツを着た不審な男が始発電車に乗ったという聞き込み情報を警察は得ています。

 

⑧千葉県松戸市馬橋駅西口 OL暴行穴埋め殺人事件(1974.7.3、発見8.6)

これは、後で述べる小野悦男が首都圏女性連続殺人事件の犯人として唯一立件・起訴された「松戸OL殺人事件」です。

 

朝日新聞(1974年8月8日夕刊)

 

1974(昭和49)年7月3日から、松戸市馬橋下相川のマンションに住む、台東信用組合の事務員・宮田早苗さん(19)が行方不明になっていましたが、8月8日になって、馬橋駅西口近くの区画整理工事現場の盛土に埋められていた遺体を作業員が見つけて松戸署に届け、警察は身体的特徴などからそれが宮田さんであると断定しました。

 

朝日新聞(1974年8月9日)

 

宮田さんは秋田県出身で、この春に高校を卒業して同信用組合に就職し、同僚二人と会社が借りたマンションに住んでいました。

 

宮田さんが住んでいた

グリーンビレッジ馬橋

 

宮田さんは、7月3日の午後6時から開かれた会社のボーリング大会に出た後、友人を松戸市上本郷の家まで送り、午後9時40分ごろに玄関先で友人と別れたあと行方不明になったもので、警察が誘拐の可能性もあると見て公開捜査していたところでした。

 

遺体を解剖した結果、宮田さんの死因は首を絞められたことによる窒息死と断定されましたが、遺体の損傷が激しいために詳しい状況は分かっていません。

また、彼女の手足や背中に犯人に抵抗した時のものと思われる皮下出血が30箇所もあり、性的暴行を受けた疑いを警察は強めました。

 

朝日新聞(1974年8月10日)

 

⑨埼玉県志木市幸町アパート 暴行焼殺事件(1974.8.9)

 

朝日新聞(1974年8月9日夕刊)

 

1974(昭和49)年8月9日未明、埼玉県志木市幸町のアパート「石井荘」2階に住む関根タケ子さん(21)の部屋から出火し、焼け跡から関根さんが黒こげの遺体で発見されました。

 

関根さんは福島県石川郡出身で、前年8月に同アパートに入居し、一人で暮らしていました。

 

関根さんは暴行されたあと、火をつけられて殺されたものと見られ、警察は7月に起きた草加市(④)、松戸市(⑥)そして同月の足立区綾瀬(⑦)と相次いだ一連の放火殺人事件と似ていることから、同一犯の可能性もあると見て捜査を進めました。

 

朝日新聞(1974年8月10日)

 

後述する小野悦男は、関根さんの事件についても「自供」していますが、関根さんの体内に残されていた男性の体液の鑑定の結果、血液型はA型もしくはAB型で、その血液型の男友だちと前夜に会っていることが分かったことから、連続した女性の暴行放火殺人事件との関連はないと8月12日に警察は断定しました。

それにより、関根さんの焼死は事故死の可能性もあるとして、引き続き捜査を進めるとしました。

 

朝日新聞(1974年8月13日)

 

⑩千葉県松戸市馬橋駅西口 パート主婦暴行穴埋め殺人事件(1974.7.25、発見8.10)

 

朝日新聞(1974年8月11日)

 

1974(昭和49)年8月10日の午後、松戸市馬橋駅西の区画整理工事現場の盛土の中から、女性の腐乱死体が発見されました。

 

遺体の近くで見つかったハンドバッグの中の財布と定期券から、女性は同市栄町に住むパート主婦の高橋ハルさん(30)であると断定されました。

 

高橋さんは、新宿で教材セールスの仕事をしており、6月25日朝に仕事に出たまま帰らず、夫が捜索願を出していました。

 

遺体が発見された場所(下図の❷)は、同月8日に宮田早苗さんの遺体が見つかった所(下図の❶)から400メートルしか離れていません。

 

毎日新聞(1974年12月2日)

 

*上図中の「すずらん荘」は、小野悦男が同年6月12日と7月2日に女子工員(23)の部屋に侵入・強姦し、7月27にも侵入したものの女性が逃げ、小野が逮捕された事件の現場

 

【小野悦男の逮捕と裁判】

首都圏女性連続殺人事件の容疑者として捜査線上に浮かんだのが小野悦男という人物でした。

下が、事件当時に近い1975(昭和50)年2月7日に撮られた当時39歳の小野悦男の写真です。

 

千葉地裁松戸支部に出廷

したときの小野悦男

朝日新聞(1975年2月8日)

 

小野悦男とはどういう人間なのか、彼の生い立ちと経歴については数少ない情報しかありません。

以下、主に読売新聞(1974年11月14日夕刊)の記事(下)を参照して記述します。

 

 

小野悦男は、1936(昭和11)年6月に茨城県行方(なめがた)郡北浦村(現在の行方市)の農家に生まれました。

 

母親の小野あきさんは1927(昭和2)年12月に結婚しますが、戸籍上では新婚6日目に夫と死別しています。

その後、彼女は6人の子どもを出産します。しかし、長男以外は戸籍に父親の記載がありません。

小野悦男は次男で弟と妹がいますが、すぐ上の姉以外は父親の異なるきょうだいだったようです。

 

小野は、1952(昭和27)年に北浦村立武田中学校(現在の行方市立北浦中学校)を卒業したと読売の記事にはありますが、朝日新聞の記事では同中学を2年で中退したとあり、後述する母親の証言からも中退の方が正しいと思われます。

 

中学時代の成績は、体育が3であった以外はほとんど2で、年間240日の登校日中、約60日は欠席していました。

 

1975(昭和50)年2月7日に千葉地裁で開かれた小野に対する馬橋の女子工員への婦女暴行・窃盗・住居侵入容疑の求刑公判に出廷した母親は、「成績が悪くて中学を中退し、盗みを始めた」と証言しています(朝日新聞 1975年2月8日)。

 

中学では「おとなしい子」と見られていた小野ですが、1951(昭和26)年、中学2年生の時に起こした事件(初めての逮捕となる無免許運転か)で土浦家庭裁判所から照会があったと学校の記録にあるそうです。

 

中学時代から小野は、野菜や米の窃盗をしており、素行不良と近所では見られていたようです。

ただこの時期の窃盗は、母親が女手一つで6人の子どもを育てていたことと盗品内容を見ても、生活苦からの盗みだったのではないかと思われます。

 

しかし、そうした窃盗の常習化が、その後の小野の行動に影響を与えたことは十分考えられます。

 

小野が中学を中退してから1年ほどして、彼は母や姉妹と一緒に都内に転居します。

 

上京後の小野は、土木作業員などをしますが長続きせず、1962(昭和37)年に車上荒らしや住居侵入で刑務所に入ってからは、火事場泥棒、窃盗、詐欺、放火、強姦などほとんど半年も空けずに刑務所を出入りする生活を送り、1974年に連続殺人事件に関連して逮捕されるまでの服役年数は計13年にも及んでいます。

 

最後に網走刑務所を出所してからの小野は、東京に戻ってきょうだいや知人の家を転々としながら職も転々と変え、1974年の逮捕時には妹の家に住みながら東京都足立区の清掃職員をしていました。

 

小野が一連の女性殺人事件の容疑者として浮かんだのは、殺人こそなかったものの放火や強姦の前科があり、また事件現場付近に土地勘があったこと、また現場近くで似た男の目撃情報があったことなどからでした。

 

首都圏女性連続殺人事件のうち

小野悦男の犯行が疑われた事件

*❼は小野が犯行を自供したが、

犯人の血液型と異なると判明

 

このように、小野には事件に関わっていることが疑われる目撃情報などがありながら、逮捕できるまでの証拠がなかったため、警察は宮田早苗さんの事件(⑥の「松戸OL殺人事件」)に的を絞り、小野を尋問して自白と物証を得るために、1974年6月に彼が松戸市内でおこなった窃盗容疑で同年9月12日にいわゆる別件逮捕をし、さらに同年9月30日には、先述した同年6月12日・7月2日・27日に馬橋駅西のアパート「すずらん荘」での女子工員への婦女暴行・住居侵入の容疑で小野を再逮捕しました。

 

警察の本当の狙いが「松戸OL殺人事件」をはじめとする首都圏連続女性殺人事件の解明にあることを知っているマスコミは、小野が一連の事件の犯人と決まったかのようにセンセーショナルに書き立てたようです。

しかし、後になって小野に無罪判決が出てからマスコミは、先走った報道を謝罪するはめになり、この時期の紙面は今では見られなくなっています(小川の検索が不十分だった可能性もありますので、その場合は補足訂正します)。

 

そうしたマスコミ・世論からのプレッシャーを受けて、警察も何としてでも小野を自供に追い込まねばならないとかなり無理な取り調べをしたことが、後に自白の任意性・信頼性が疑われる一因になったように思います。

 

「冤罪」の疑いを生むことになった無理な取り調べについては後で触れますが、9月12日に別件で逮捕された小野が、連続殺人についてもついに自供を始めたという記事が11月に入ると出始めます。

 

起訴に至るまでの新聞記事を、時系列であげておきます。

 

 

こうして、いったんは処分保留になりかけたものの、宮田さんの事件で初めて自供により被害者の遺留品が発見されたことから、1974年12月9日に小野は再々逮捕され、最初の別件逮捕から半年たった1975(昭和50)年3月12日、ようやく「松戸OL殺人事件」(宮田早苗さん殺害容疑)で起訴されました。

 

起訴された小野は、国家権力によって人権侵害・弾圧を受けた人への救援を掲げる運動団体「救援連絡センター」に助けを求めます。

それを受けて、小野の起訴は冤罪だとする人たちによって「小野悦男さん救援会」(代表・山際永三)が組織され、小野の裁判への支援や小野は無実だとするキャンペーンが行われました。

 

救援会の活動(1975年10月)

 

そして救援会のつながりで野崎研二弁護士(東京第二弁護士会)など3人が小野の弁護人となります。

 

野崎弁護人らは、自供以外には物証が乏しいこの事件で、代用監獄の問題点などをあげながら自白の信用性・真実性を崩す弁護方針をとり、小野の無罪を主張しました。

 

第一審は、千葉地裁松戸支部での11年にも及ぶ長期裁判の末、1986(昭和61)年9月4日の判決公判で丹野益男裁判長が、「被告人は否定しているが、捜査段階における自白は一部を除き、証拠能力がある。犯行の大筋において一貫性があり、信用性、真実性が認められる。アリバイの存在は認められない」と、小野に求刑通り無期懲役を言い渡しました。

 

読売新聞(1986年9月4日夕刊)

 

この判決内容の詳細を知りたかったのですが、残念ながら判決文は入手できませんでした。

 

小野・弁護側は判決を不服として東京高裁に控訴します。

 

第二審でも争点は自白の信用性が中心になりましたが、1991(平成3)年4月23日の判決公判で樫山真一裁判長は一審判決を破棄して、小野に逆転無罪の判決を下しました。

 

 

毎日新聞(1991年4月23日夕刊)

 

朝日新聞(1991年4月23日夕刊)

 

【「冤罪のヒーロー」から再び強姦・殺人犯へ】

検察が最高裁への上告を断念したために、小野の無罪はそのまま確定しました。

ただ、宮田さん事件では無罪となった小野ですが、同時に審理された別件の窃盗と婦女暴行については有罪となり、懲役6年の判決が下されています。

 

しかし、未決勾留期間(刑が確定しないまま刑務所に勾留された期間)が約16年半に及んだため、6年の刑期はそこから差し引かれる形であらためての服役を免れただけでなく、残りの10年余りの勾留期間への補償として、小野には国から3650万円が支給されました。

 

強姦殺人事件の容疑者から一転して「冤罪のヒーロー」となった小野は、冤罪問題などをテーマとした講演会や集会に招かれては、自分の体験を語るなどしました。

 

朝日新聞(1991年5月24日)

 

無罪になり釈放された時、「家へ帰ったら、おふくろが病気なのでその車いすを押してやりたい。私も体を鍛えて働きたい」と殊勝に語っていた小野は、「救援会」の人たちに見せた「純朴な良い人」の顔をマスコミ向けには続けていました。

 

もしも小野が、その後も善人の顔のままに多額の補償金を元手にして真っ当な生活を送ったとしたら、「無罪」判決に対する疑念を払拭して「ヒーロー」のまま後半生を送ることができたでしょう。

 

朝日新聞(1991年12月26日)

 

ところが表向きの顔とは裏腹に、小野は手に入れた補償金を使って毎夜派手に飲み歩く荒んだ生活を送るようになりました。

 

これは伝聞でしかありませんが、酔うと小野は「俺は人を殺して無罪になった男だ」「国から大金せしめたんだ。何年でも飲んでいられる」と放言していたという話もあります(葛城明彦「“冤罪ヒーロー”一転 野に放たれた殺人鬼 小野悦男の犯罪」『昭和の不思議101 2020年-2021年』大洋図書)。

 

そのあげくに小野は、1992(平成4)年に窃盗事件を起こし、2年間服役をします。

しかしそれにとどまらず、彼はとんでもない事件を起こしてしまいます。

 

1996(平成8)年1月9日、足立区東六月町の駐車場になっている空き地で、1月7日夜から8日朝にかけて焼かれたと見られる女性の首なし焼死体が発見されました。

これが「足立区首なし殺人事件」と呼ばれる事件です。

 

首は女性が焼かれた後、遺体からノコギリのようなもので切断され、さらに陰部も切り取られていました。

 

現場から50メートルほど離れたところに、遺体を運ぶときに使われたと思われる布団があり、そこには被害女性の血液と別人の体液が付着していました。

 

警察は、1992年の窃盗事件で小野の自宅を家宅捜索したときに捜査員が見た布団とこの布団が似ていること、さらにこの女性が小野悦男としばらく同居していた行方郡出身の無職女性(41)で、最近姿が見えないことを突きとめ、小野を容疑者として捜査を進めました。

 

小野が最後に住んでいた都営団地

1階の奥から二つ目が小野の部屋

 

1992年ごろからDNA鑑定が事件捜査に使われるようになっていたため、この事件でも、布団に付着した体液のDNAが小野のそれと一致するか確かめるために、捜査員が小野が出したゴミ袋から「たん」が付着したものを採取して、一致することを確認しています。

 

しかし、この頃のDNA鑑定はまだ精度が低く、裁判でも有効性が認められたり認められなかったりしたので、捜査は慎重に進められました。

 

ちなみに、2003(平成15)年8月から導入された新しいDNAの検査法では、約1100万人に1人の確率で個人識別が可能になり、さらに2006(平成18)11月には約4兆7千億人に1人の確率での識別が可能になっています。

 

以前に逆転無罪となったこともあって、警察は慎重に証拠固めに取り組んでいましたが、その折もおり、小野は別の事件を起こします。

 

1996(平成8)年4月21日の夕方、都内の公園で遊んでいた幼稚園の女児(5)が、声をかけてきた男に自転車に乗せられて別の公園に連れて行かれ、口をふさいだり首を絞めるなどされる事件が起きました。

 

女児は、午後9時ごろに意識不明で倒れているところを通行人に発見され、救急搬送されてかろうじて一命を取り止めました。

 

警察の聞き込み捜査の結果、女児が連れ去られたときに一緒に遊んでいた子どもが小野の顔を見ており、また小野が女児を自転車に乗せて走っているところを彼の顔をよく知る住民が目撃していたことがわかり、4月26日に小野を殺人未遂とわいせつ目的誘拐などの疑いで逮捕しました。

 

朝日新聞(1996年4月27日)

 

警察は、女児の事件で小野を起訴する一方、首なし殺人事件についても勾留中の小野への取り調べを進め、正式なDNA鑑定でも布団の体液と小野のDNAが一致することを証拠に追及を強めていたところ、ようやく小野は女性の殺害を認める上申書を提出しました。

 

毎日新聞(1996年4月28日)

 

調べによると小野は、1996年1月6日の早朝、同居していた被害者女性が家事をしないことで口論になり、バットで頭を殴り殺害した後、翌7日の未明に遺体をリヤカーで発見現場の空き地(駐車場)に運んでゴミなどと一緒に焼却しました。

さらに9日に現場に戻った小野は、遺体の首を切断し陰部を切り取って、頭部は自宅の庭に埋め、陰部は自宅の冷蔵庫の冷凍室に入れたのです。

 

小野の供述どおり、5月2日の家宅捜索で庭に埋められた女性の頭部と切断に使われたノコギリ、そして冷蔵庫から陰部が発見されたため、6月6日に警察は小野を女性の殺人と死体遺棄の疑いで再逮捕し、起訴しました。

 

朝日新聞(1996年6月7日)

 

裁判の第一審で東京地裁は、1998(平成10)年3月、「情性の欠如した攻撃的性格に根差すもので、再犯の可能性が高い」として求刑通り小野に無期懲役の判決を下しました。

 

弁護側は控訴しましたが、1999(平成11)年2月9日、東京高裁の神田忠治裁判長は、「女性の言動への不満から短絡的に殺害した犯行で、女児が味わった苦痛や恐怖心にも計り知れないものがある」として、量刑不当という被告の主張を退け、一審の無期懲役を支持して控訴を棄却しました。

 

毎日新聞(1999年2月9日夕刊)

 

こうして、一時は「冤罪のヒーロー」とされた小野悦男は、無罪となって出所後わずか5年で幼女へのわいせつ・殺人未遂犯、同居女性の殺人犯へとみずから転落し、無期懲役囚となって塀の中で残りの人生を送ることになりました。

 

小野の現在については明らかでありませんが、いずれかの刑務所で今も服役中と思われます。

そうであれば、今年で87歳になる小野悦男は、未決勾留期間を入れると生まれてから実に58年余りを獄中で送っていることになります。

 

サムネイル

小川里菜の目

 

この事件も、非常に後味の悪い事件です無気力

 

その後味の悪さは、何と言っても首都圏女性連続殺人事件の犯人(たち)が、1件を除いて逮捕されず、公訴時効を迎えて迷宮入りしたことです。

 

亡くなった被害者や遺族の無念・悲嘆はいかばかりかと胸が痛みます。

 

多くの人が抱いたそうした思いもあって、小野悦男に東京高裁が逆転無罪の判決を下したこと、また「小野悦男さん救援会」の活動に対して、厳しい批判が今も寄せられています。

 

特に、小野が釈放後すぐに窃盗事件を起こし、さらにその後で幼女へのわいせつ・殺人未遂事件と女性の殺害・遺体焼却・損壊という事件を起こしたために、連続殺人事件についてもやはり小野の犯行だったのではないかという疑いが強く持たれることになりました凝視

 

今のようなごくわずかな資料からの血液・体液の採取・判定や精度の高いDNA鑑定といった科学捜査の手法、防犯カメラなどが当時導入されていたら、連続殺人事件の少なくとも何件かは解決された可能性があり、時代の制約とはいえ残念でなりません。

 

またそうした制約もあって、捜査陣は自白偏重と言われる冤罪を生みやすい古い捜査手法を余儀なくされ、その虚を突かれる形で、極めて疑わしい人物であったにもかかわらず無罪判決を許すことになったのではないでしょうか。

 

判決が確定した同じ事件について再度裁かれることはないという刑事訴訟の「一事不再理」の原則から、小野をもう一度審理の場に立たせることができない以上、今となっては連続殺人への小野の関与については「不明」としか言いようがありません。

 

それに対する悔しい思いは小川も持ちますし、少なくとも宮田さんの事件など馬橋周辺で起きた事件については小野の犯行ではないかという疑念を小川は抱いています。

 

「無実」と「無罪」を使い分けるのは詭弁だという主張をネットで見かけますが、小川は2つはまったく異なる概念だと思います。

 

つまり、「無実」とは「犯罪とすべき事実が存在しない」ことであり、「無罪」とは「罪に問えるだけの証拠がない」ということです。

 

「証拠がない」には、「証拠がそもそも存在しない」(この場合は「無実」と重なる)ケースと、「証拠があっても見つけられない」ケースがあります。

ですから、「無実」とは言えないけれども「証拠が見つけられない」ために「無罪」とせざるをえないケースがあり、連続殺人事件における小野はそれに当たるでしょう。

 

東京高裁の判決は、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判における「推定無罪」の原則から、あくまでも証拠不十分で小野を「無罪」としたもので、決して小野を「無実」だと判定したものではありません。

 

ですから、「無実」の人が「有罪」とされることが「冤罪」だとすれば、小野のケースを単純に「冤罪」と呼ぶことに小川は疑問を感じます。

 

また「小野悦男さん救援会」の人たちのように、「小野さんは心の優しい、思いやりの深い中年男性」、「世ずれしない純真な人柄」、「感性のやさしさ」……と口々に語り(葛城明彦、前掲)、だから「無実」に違いないと推定するあまりのナイーブさには驚きを禁じえません真顔

 

ただそのこととは別に、小野に対する警察の取り調べが冤罪を生みかねない条件のもとでなされ、そこでえられた自白に信頼性・真実性があるか疑わしいという問題は問題として真摯に見なければなりません。

 

というのも、小野が犯人だという前提のもとに、どんな手段を使ってでも小野を有罪にすれば良いので、細かなことにクレームをつけてそれを妨害するかのような「弁護」側の人間たちは許せないという、目的のためには手段を選ばない主張も見られるからです。

 

たとえ善意からの主張であっても、それは非常に危うい考えだと思います。

損なわれた正義の回復あるいは実現が裁判の目的だとすれば、そのための手段もまた正義に則ったものでなければならないからです。

 

詳細を述べるだけの余裕はありませんので、もし関心のある方はぜひ東京高裁の判決文を仔細に検討いただきたいのですが、担当した樫山真一(裁判長)・小田健司・荒木友雄の3裁判官は、取り調べの期間を5つに分け(下表)、取り調べの状況がどのようであり、それが小野の心身の状態ににどう影響し、供述にどのような変化があり、自白の任意性・信頼性がどれだけ担保されるか、捜査関係者にも証人尋問をおこなって丁寧に検証していると小川は思いました。

 

 

特に第2期間から小野の身柄を、新しく作られ留置者が小野一人しかいない印西(いんざい)警察署の留置場に移し、看守者も本事件の捜査員を充て、捜査員以外とは誰とも言葉を交わすことをさせず、房内での独り言も看守者が記録する事実上24時間の取調べ体制のもとに置き、ほとんど休みなく連日長時間の取り調べを行い、運動場での運動の機会を小野が求めても認めない状況だったことに対して裁判官は、「このような留置のあり方は、不当なものであり、代用監獄に身柄を拘束して、自白を強要したとのそしりを免れない」と疑問を呈しています。

 

また、犯行の状況についての自白内容や唯一の物証とされた自供にもとづく宮田さんの遺留品の発見についても、判決文では詳しく検討を加えています。

 

結論として高裁判決文は、「取り調べた証拠中、被告人の自白以外には被告人と右犯行を結びつける直接的証拠はなく、右自白は証拠能力がないので、結局、その犯罪の証明がないこととなる」と無罪言い渡しの理由を述べています。

 

小野が犯人だと確信している人たちからすれば、これは到底受け入れ難い「誤判」だということになるでしょうが、どんなに疑わしいものであっても立証できなければ罪には問えないという刑事裁判の大原則(見方によっては限界)を示した判決だと小川は思います。

 

先に述べたように、連続殺人事件のいくつかについて小野が関与しているという疑いを拭いきれない小川にとっても無罪判決は口惜しいものですが、これを機に、手段を選ばず自白を強いるという古い手法ではなく、その後に導入された科学的捜査法も駆使しながら、動かぬ証拠を突きつけて犯罪事実を立証するという信頼性の高い方法で、有実の犯罪者を一人でも多く確実に有罪にする努力を、捜査当局に期待したいと考える小川です🥺

 

参照資料

・新聞各紙(朝日、読売、毎日)の関連記事

・東京高裁判決文

 

 

 

*今回は、仕事の多忙もあってアップするのにかなり時間がかかってしまいましたネガティブ

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