福田和子も被害に!

無法地帯となった

松山刑務所

 

1972年に東温市見奈良に移転するまで

松山市春日町にあった松山刑務所

(絵葉書)

 

「アサヒグラフ」(1966年7月8日号)

 

前回と前々回のブログで取り上げた「松山ホステス殺害事件」(1982年)の犯人・福田和子(2005年に和歌山刑務所で病死)は、1965(昭和40)年9月、同棲していた男性と高松国税局長の家に強盗に入り、翌年2人は逮捕されました。

 

【福田和子のレイプ被害】

当時まだ18歳の少女だった福田和子は、松山刑務所内の拘置監(刑の確定していない拘禁者を入れる施設)に収容されましたが、そこで前代未聞の「松山刑務所事件」に遭遇し、女子雑居房内で性暴力被害を受けたのです。

 

衆議院の法務委員会で示された拘置監の図面

(佐木隆三『悪女の涙』より)

*説明は小川

 

標準的な雑居房の例

 

この時、2つある女子雑居房には合わせて5人が収容されていましたが、福田和子の手記『涙の谷』によると、和子と同じ房は「覚醒剤で捕まった目と眉の離れた童顔の30位の太めの女と、放火未遂の27、8の女」の計3人だったそうです。

 

1966(昭和41)年3月22日に起きた出来事を、和子は「手記」で次のように書いています(〔 〕は小川の補足)。

 

    

 拘置所に入って間もない昼下がり、ガチャと重そうな音を立てて、扉が開いた。

 私はこの時の光景を、30年経った現在でも、はっきりと思い浮かべることができる。扉を開けた刑務官の藍色の制服が、房の窓から差し込む陽にあたって一瞬、青が勝った。扉の前には先日の〔房の前に来て「お前が18か」と「にたりと笑っ」て煙草をくれた〕眼鏡の男と子分が立っている。「なに?」と尋ねるように刑務官を見ると、土間の隅で黒子のように俯(うつむ)いていた。事態を察し、男達に視線を戻すと、2匹の巨大な爬虫類に見える。硬直していく私の躰、声も奪われた。

「ぎゃー」

 放火未遂の女が絶叫して、房の外に転がり出ると、男達がぬるりと入ってきた。眼鏡の男が私の肩を押すと、ころんと私は転がった。見上げた天井がうねうねとうねり、くっくっくっ女の忍び笑いに顔をひねると、男女の律動。これは夢?

 ぐぁーん、ぐぁんぐぁんぐぁんぐぁん、頭の中にドラが鳴り、真上の眼鏡の男の顔が、横に広がったり、縦に縮んだり……。これも夢?

 ばさっと毛布がかけられ、はっと身を竦(すく)めると、悠然と男はズボンをあげ、太めの女はだらっとした顔で男を見送り、あわてて掻き上げた下着には体液が流れた。

 太めの女は固く口止めをした。刑務官とヤクザがグルだなんてぇ……下手に騒ぐとどんな危険が降りかかるかもしれない。恐いとこや。〔和子が一緒に強盗をした〕男が刑務所には行きたくないと泣いた訳が分かったようで、私は貝になった。

 

ウィキペディアでは、和子は「看守による強姦被害者」とされています。

 

 

しかし、彼女を襲ったのは看守に手引きされた暴力団員です。

 

「手記」はレイプした暴力団員を仮名で「須藤組長」と書いていますが、朝日新聞(1966.6.23)が「兵藤卓也」と実名で報じ、また1966年7月15日の衆議院法務委員会で坂本泰良(たいら)議員も兵藤の名前をあげて質問し、それが議事録に残されています。

 

兵藤卓也は、岡本組とともに郷田会の傘下にあった兵藤組(「第一次松山抗争」を機に郷田会は解散し、兵藤組は独立して兵藤会となる)の組長でした。

 

彼が「子分」と共に来て、子分の組員は「太めの女」と合意で関係をもち、その横で兵藤組長が和子をレイプしたのです。

 

なお、「ぎゃー」と絶叫して房外に転がり出たと「手記」に書かれている放火未遂の女性がそれからどうなったのか……とても気になります。

 

【松山刑務所事件】

和子が強盗事件を起こす前年の1964(昭和39)年6月6日、利権をめぐって緊張関係にあった松山の暴力団「矢嶋組」と「郷田会」が、組員同士の暴行傷害の応酬に端を発し、双方が猟銃・ライフル銃・拳銃を撃ち合う抗争事件(「第一次松山抗争」)を起こします。

 

矢嶋組の事務所ビルから発砲する組員

 


警察に連行される組員

(「サンデー毎日」1964年6月28日号)

 

この抗争事件で、双方の組員合わせて58人が逮捕され、そのうち郷田会の会長と組員たち34人が松山刑務所の拘置監に収容されました。

 

その後、1965(昭和40)年12月27日の一審判決で32人に有罪判決が下されますが彼らは控訴し、高松刑務所に移された郷田昇・郷田会会長以外の組員たちは、引き続き松山刑務所の拘置監に残ります。

 

松山刑務所の刑務官(看守)が何をきっかけに暴力団員に買収されたのか、ウィキペディアでは、時期も出典も書かれていないため確認がとれませんが、「1人の看守が入所前から顔見知りであった被告人に頼まれ、不正に手紙を投函し礼金を受け取ったことがきっかけ」とあります。

 

この贈収賄の汚職事件の贈賄側で逮捕されたのは、郷田会長の妻の多都子(ウィキペディアでの「被告人」)で、郷田会長が房内で禁じられているタバコを吸ったり正座の時間に寝ているなど、規律を守らず自由に振る舞えるよう彼女から現金をもらい便宜をはかっていたのが、看守の宮岡照雄(当時37歳、松山刑務所看守から逮捕時は大洲拘置所看守部長)です。

のちに収賄容疑で逮捕され懲戒免職となるこの宮岡が、ウィキペディアが言う「1人の看守」だと思われます。

 

こうして看守を買収し「弱み」を握った郷田会の組員たちは、汚職看守の勤務時に拘置監の中を自由に歩き回り、飲酒・喫煙や花札賭博、他の収監者からの領置金(日用品の購入のために囚人が施設に預けているお金)の脅し取りなど傍若無人な振る舞いをするまでになります。

 

領置金の脅し取り

朝日新聞(1966年7月3日)

 

それにとどまらず、佐木氏が「66年3月初め、覚醒剤密売の28歳のホステス〔中島鶴子という名の、和子が「手記」で「30位の太めの女性」と書いている同房だった人物で、同所に拘置されていた郷田会組員の内妻〕が、30歳の看守を誘惑し、空いている房内で性交をした。これで弱みをにぎられた看守は、女子の雑居房に通じるドアの合カギを女囚に渡した。その手引きにより、暴力団の組長たちが自由に出入りし、ホステスと性交をした」と書いているように、組長らが性欲のはけ口を求め、看守の手引きで女子房に入り込むまでになります。

 

朝日新聞(1966年6月26日)

 

読売新聞(1966年6月23日)

※福田和子への暴行には触れず

「デートの手引き」と書いている

 

朝日新聞(1966年6月23日)

*上の読売新聞と同じ日の紙面だが

「18歳の少女に乱暴」と書いている

 

「“狼の群れ”に送り込まれた」と佐木氏は書いていますが、福田和子が入れられたのは、まさに無法地帯と化していた松山刑務所だったのです。

 

なお、佐木氏が「30歳の看守」と書いたのは杉原章という人物で、宮岡と共に松山刑務所での汚職看守の中心人物です。

 

朝日新聞(1966年7月8日)

 

さらに、看守の丹生谷文夫(同26歳)も、拘置されている組員の夫の指示を受けた妻から現金をもらったとして逮捕され、この事件で懲戒免職処分を受け、収賄容疑で起訴された看守は、宮岡・杉原・丹生谷の3人になりました。

 

【贈収賄は形式処分、性暴力は封殺】

松山刑務所での贈収賄汚職による現場の無法状態が明るみに出たのは、一つの事件がきっかけです。

 

1966(昭和41)年3月28日、新たに松山刑務所に着任した看守長の梅崎元也保安課長補佐(同29歳)が、風呂に行く途中の郷田会幹部を含む拘置囚6人から拘置監2階の廊下で暴行を受け、10日間のケガを負ったのです。

 

それに気づいた看守30人が駆けつけ、暴行した6人を力づくで「制圧」したのですが、その際に肋骨を折るなどの重傷を負った囚人が出たことから、6人が傷害罪で告訴されたのに対抗して、彼らの弁護人が「制圧」に関わった看守を特別公務員暴行凌虐罪(警察官や刑務官など司法に関わる公務員が、職務の遂行において被疑者・被告人に暴力を振るった罪)で告発します。

 

そこで、松山地検が事件に関する取り調べを行ったことから、その過程で贈収賄など松山刑務所の驚くべき実態が明るみになったのです。

 

事件は、梅崎課長補佐が、房内に禁止されているタバコがあるなど拘置監内で不正が蔓延していることに気づき、問題解決に取り組もうとした矢先に起きたのでした。

 

その後、梅崎課長補佐への襲撃は、不正の発覚を恐れた看守の杉原章が、郷田会の組員に指図してやらせたものだと分かりました。

 

読売新聞(1967年10月5日)

 

杉原はまさに「墓穴を掘った」わけです。

 

信じられないような看守の腐敗と所内の無法状態が明らかになると、当然ながらそれは大きな波紋を広げました。

 

まだ関係者への公式の処分が下されていない段階で、責任を感じた現場の管理職が自殺します。

 

読売新聞(1966年6月28日夕刊)

 

6月28日、松山刑務所教育係長の大森常市副看守長(同52歳)が、高さ50メートルのごみ焼却場煙突から飛び降りて亡くなったのです。

大森係長は、服役者を来島ドック大井造船作業所で働かせる、「ヘイのない刑務所」と言われるユニークな更生の取り組みを推進していた人で、事件の監督責任を感じての自殺と見られています。

 

6月末には法務大臣が、法務事務次官への異例の訓告を含め、事件に関して「大幅処分」をすると発表し、7月7日と9日には先にあげた3人の元看守に懲戒免職処分が下されました。

 

朝日新聞(1966年6月30日)

 

しかし同月に、松山刑務所の現場の管理職がまた自ら命を断ちます。

 

朝日新聞(1966年7月24日)

 

7月23日に、保安係長の門屋茂副看守長(同52歳)が、「職員の配置にも問題があったのではないか、職員間に不明朗な人間関係があったのに耐えられなかった」と上司の名をあげ批判する遺書を残し、刑務所内で首吊り自殺をしたのです。

 

刑務所の人員配置や人間関係に、上級幹部が関与する問題のあったことを告発する遺書の内容ですが、刑務所長は、「職員に休養を与え精神状態の安定をはかりたい」と、門屋係長の自殺が疲労による精神状態の不安定が原因であるかのようなコメントを出しています。

 

7月30日に法務大臣は、8月1日付で第二次処分をすると発表、最終的に高松矯正管区と松山刑務所の関係者については、合わせて31人(懲戒免職の3人を含む)が処分されて事件に幕が引かれることになりました。

 

朝日新聞(1966年7月30日夕刊)

 

このように、形式的には広範囲かつ厳正な処分が行われたように見えますけれど、自殺した門屋保安係長が遺書で示唆したような刑務所の上級幹部も関わる人為的あるいは構造的な問題について、どこまでの真相解明と改善がなされたのでしょうか。

 

さらに納得いかないのは、福田和子が被害にあった房内での性暴力被害について公的には問題として取り上げられず、後で述べるように、法務省自身も事件化について否定的な姿勢を取り続けたことです。

 

このブログの「「悪女」福田和子の生涯(前編)」で簡単に触れましたが、和子は6月上旬の検察官の取り調べで性暴力被害について訴えています。

ところが、その数日後に刑務官を伴って面会に来た国選弁護人(和子は私選と記述)から、「ここであったことはあなたの裁判にはマイナスになりますよ。あなたも早くここから出たいでしょう。この書類に署名、捺印をしなさい」と言われ、和子は「検察官に騙されていたのかと、あわてて署名、捺印をした」というのです(「手記」)。

署名したのが加害者の責任を問わないという「示談書」だったと、まだ未成年だった和子は知りませんでした。

 

なぜこの弁護人が、和子の無知につけ込んで強姦事件の隠蔽工作と思われても仕方ないようなことをしたのか、兵藤組長との癒着なのか、刑務所上層部の意向を受けてのことだったのか、それとも……。

 

松山刑務所事件は、先にも触れたように、1966(昭和41)年7月15日の第52回国会衆議院法務委員会で取り上げられました。

 

質問に立った日本社会党所属で弁護士の坂本泰良議員が、「郷田会の兵藤組長兵藤卓也を手引きして、同刑務所内にある廊下伝いの女囚監房に入り、兵藤は未決勾留中の十八歳の少女に乱暴したことがわかっておる」と述べ、政府の見解と対応を質問しました。

 

議事録によると、それに対して、津田實・法務省刑事局長(当時)は次のように答弁しています(強調は小川)。

 

「在監者の間におきまして、先ほど申しました暴力団に属する者であろうと思いますが、その者が女区へ出入りした間における当時の未決の在監者との関係でありますが、(中略)当該関係事件について告訴等は現益存しておりませんので、その内容につきましては、これはおそらくあるとすれば強姦等の事件だと思いますけれども、告訴等が現存存しておりませんので、内容を捜査をいたしておりません。ある程度の行き来はわかっておると思うのでありますが、それは結局告訴のない事実に属するかもしれない、その点については公にすることを差し控えたいと思います。」

 

性暴力が被害者からの親告罪だったこの当時のこと、事実を述べているだけと言えばそうかもしれませんが、6月に弁護人が「裁判に不利になる」という虚偽の口実で、本人もよく理解できないまま告訴をさせないよう「示談書」に署名捺印させ、そのひと月後に法務官僚が「告訴がないから捜査もしないし、この件について公にすることもしない」と国会の委員会で述べている、この「タイミングの良さ」に、なんの証拠もない話ですが、不可解さを感じるのは小川だけでしょうか。

 

このようにして、福田和子の性暴力被害、未成年の女性が刑務所内で刑務官に手引きされた暴力団員に強姦されるという前代未聞の事件は、事件そのものがなかったかのように歴史の闇へと葬られてしまったのです。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

外国の映画やテレビドラマで、腐敗した看守と無法地帯のようになった刑務所が出てくることがありますが、そのようなことが日本で実際に起こるなど考えたこともなかった小川は、松山刑務所事件を知って、信じられない思いがしました。

 

福田和子が被害者になり、手記『涙の谷』に彼女が被害体験を書かなければ、贈収賄については明るみに出ることはあったでしょうが、性犯罪までもが白昼堂々と行われていたことは、ついに知られることなく終わったかもしれません。

 

それにしても、懲戒処分され収賄容疑で起訴された看守はわずか3人、それだけの看守を買収すれば、そこまで好き放題ができるほど拘置所内を支配できるものなのか、刑務所の仕組みをよく知らない小川には、リアルに想像が難しいところです。

 

おそらく、その3人の勤務時に合わせて暴力団員たちは自由にしたのでしょうが、そうであれば自殺した保安係長の門屋副看守長が遺書に書いたように、そういう時間帯ができるよう担当看守の配置を上層部の指示もしくは黙認のもとに組む必要があったのではないでしょうか。

 

事務次官まで訓告処分したと言われますが、そうした疑惑の解明がなされたようには思えません。

 

それ以上に問題なのが、獄中での強姦事件が闇に葬られたことです。

 

個々の役人(看守)の贈収賄までであれば、「ありうること」と世間も受けとめるかもしれませんが、国が管理する刑務所の中で、買収された看守が手を貸し、18歳の未成年女性が暴力団員の囚人にレイプされたとなると、単なる「不祥事」では済まない司法機関の権威を揺るがす「ありえない」大スキャンダルになったことでしょう。

 

なんとしてもその事態を避けたいと、権力が被害女性の告訴阻止に動いた——そういう疑惑を持たれないためにも、親告罪の壁はあったとしても弁護人の不可解な行動を含めて、この件を可能な限り捜査・解明すべきだったのではないでしょうか。

 

また、事件隠蔽の悪意がなかったとしても、刑務所の権威の保持が一女性の、しかも強盗容疑をかけられたような「小娘」の人権よりも優先されるという意識が司法関係者にもしあったとすれば、それは到底許すことができないと小川は思います。

 

贈収賄事件にとどまらない(それ自体も大変な問題ですが)松山刑務所事件の封殺された「闇」の存在は、福田和子の起こした事件とともに、忘れてはならないと思う小川です。

 

参照資料

・関連する新聞記事(朝日、毎日、読売)

・福田和子『涙の谷ー私の逃亡、14年と11ヶ月10日』扶桑社、1999

・佐木隆三『悪女の涙ー福田和子の逃亡15年』新潮社、1999

・松田美智子『福田和子はなぜ男を魅了するのかー〈松山ホステス殺人事件〉全軌跡』幻冬舎、1999

・「第52回国会衆議院法務委員会 第1号 昭和41年7月15日」

 

今回もお読みくださり、ありがとうございましたおねがい

 




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