昭和のありえない女教師

 

前回のブログでは、女詐欺師たちの事件を取り上げました。

 

 

その中に2人の女性教師が含まれていましたが、その一人について少し詳しく紹介します。

 

彼女の名は宮本登志子(当時45歳)、熊本県宇土市立の中学校に勤めていたベテラン教師です。

 

1985年暮れに撮影した「見合い写真」

(『FOCUS』1986年2月28日号)

 

宮本は、1963(昭和38)年に県立熊本女子大学(現在の熊本県立大学)国文科を卒業後、天草郡の中学校に国語教諭として赴任します。

 

天草時代に彼女は同僚教師と結婚し2人の子どもにも恵まれますが、1976年ごろに離婚。

その後、1978(昭和53)年に再婚した会社員とも1984(昭和59)年に別れ、その後は宇土市内で両親、高2、中3の娘と一緒に暮らしていました。

 

上の写真は、3度目の結婚用にと半ば冗談で撮った「見合い写真」だそうですが、逮捕されたひと月後の3月には、パチンコ店で知り合った男性と3度目の結婚を予定していました。

 

宇土市の中学校には1982(昭和57)年に赴任し、事件当時宮本は3年生の担任をしていました。

ちなみに、彼女の下の娘も同じ中学校の生徒だったそうです。

 

その宮本が、暴力団の組員らと組んで交通事故を偽装し、保険金をだまし取ったとして、1986(昭和61)年2月12日に熊本県警捜査二課・同交通課・山鹿署に詐欺容疑で逮捕されました。

 

朝日新聞(1986年2月13日)

 

逮捕されたのは、宮本のほか、暴力団森原組幹部の清水良彦(同34歳)、組員の坂田俊一(同21歳)そして自動車整備工の鍬崎浩治(同21歳)です。

 

 

清水良彦 / 坂田俊一

 

調べによると4人は、1985(昭和60)年6月9日、熊本市内の市道交差点で、鍬崎が運転する清水ら男3人が乗った車に、宮本がわざと車を追突させ、3人がむち打ち症などのケガをしたとして入院し、保険会社から計73万円余りをだまし取りました。

 

彼らは同様の手口で4つの保険会社から一千万円を超える保険金を詐取し、暴力団の資金源にしたほか、宮本にも「分け前」を渡していました。

 

宮本が清水と知り合ったのは1985年の3月ごろで、当時彼女は複数の男性とつき合いがあり、サラ金から数百万円も借りては男性たちに貸して利息を稼いでいたそうです。
その貸金の取り立てを清水に依頼したのが始まりと見られ、そのために宮本は組事務所にも出入りしていたと言われます。
 
宮本は、良い意味でも悪い意味でも活動的な女性で、学校では元気で開放的な先生として生徒に人気があり、国語の授業はもちろん演劇クラブの顧問としても熱心に取り組んでいたそうです。
教職員組合の活動にも熱心で、戒告などを7回も受けた「強者(つわもの)」でした。
 
その一方、自分を「オレ」と呼ぶなど言葉遣いが悪く、生徒や保護者の前でも平気で校長らの悪口をしゃべるなど、ひんしゅくを買う行動も目立っていました。
 
そんな宮本がハマっていたのがパチンコです。
宮本のパチンコ好きは有名で、ついには「軍艦マーチ」(当時、パチンコ店でよくかかっていた「軍艦行進曲」)というあだ名がつけられたほどです。
 
宮本のパチンコ店通いは2度目の離婚のころからエスカレートしたらしく、学校の昼休みにパチンコ店に行き、景品の菓子を抱えながら午後の授業にすべり込むようなこともあったそうです。
また、学校が終わると毎日のように閉店までパチンコ店で過ごすなど「パチンコ狂い」と言ってもいいようなのめり込みようでしたが、それで月に10万円ほど稼いでいたそうですからちょっとした「パチプロ」でもあったのです。
 
パチンコ店で知り合った男性たちと、つき合ったり金を貸したりという関係になるうちに、ついには暴力団員と関わって保険金詐欺事件の片棒を担ぐまでに身を持ち崩してしまいました。

 

宮本には、1985(昭和60)年ごろから暴力団員とつき合っているといううわさが広がり、また先に見たような素行の悪さから、教育委員会や保護者から生徒への悪影響を懸念する声が学校に寄せられていたとのことです。

 

 

前回のブログにはもう一人女性教師の事件がありましたので、彼女についても簡単に触れておきます。

 

朝日新聞(1970年4月17日)

 

江戸川区立小学校の教諭をしていた竹田タヘ(当時45歳)は、1960年代の中頃から、教員組合の共済金庫から350万円を借り入れて、近所の主婦や商店主、中小企業の経営者などに法定外の高利でお金を貸していました。

 

竹田タヘ

 

1967(昭和42)年1月には、竹田十久子という偽名で自宅に、高利貸の資金にする手形を発行するためだけの名目会社を設立し、計800万円の手形を乱発しました。

 

ところが、1968(昭和43)年10月に、竹田から借金をした人物が酒場で暴力団磧上会幹部の飯泉昭(同42歳)と知り合い、「小学校の先生から借りた金の返済に困っている」と相談します。

 

そこで飯泉は、「話をつけてやる」と言って竹田と話をしたことで2人は出会ったのです。

その後は、竹田が金を貸し、飯泉がそれを取り立てるという高利貸の共犯関係になりました。

 

しかしそれだけではなく、1968(昭和43)年12月から1969(昭和44)3月にかけて飯泉は、江戸川区内の貴金属店で指輪や時計など120万円相当の月賦(ローン)や竹田が発行した手形(不渡になる)で購入してはすぐに質に入れて遊興費に使うという詐欺行為を繰り返しました。

 

この件で手形の名義人だった竹田は、1970(昭和45)年4月、警視庁深川署で飯泉との関係について事情聴取を受けます。

 

その時に警察が飯泉の逮捕状を取って行方を探していることを知った竹田は、すぐに飯泉に連絡して逃走資金として2万円を渡し、千葉県内に竹田が所有する工場の宿舎にかくまったことから、警察は詐欺容疑で飯泉を、犯人隠匿容疑で竹田を逮捕したのです。

 

竹田は、会社員の夫と中学生の2人の子どもと暮らしていましたが、生活が派手だったようで、飯泉と知り合ってからは学校でも遅刻や早退が増え、また夜には浅草のバーでホステスのアルバイトもしていたそうです。


 

サムネイル

小川里菜の目

 

前回の女詐欺師のブログからの派生として、その中から女性教師が関わった事件をクローズアップしてみました。

 

宮本登志子について『FOCUS』の記事は、「淋しさと退屈をパチンコで紛らす独身中年女性の転落」と書いていますが、小川の印象は少し違います。
 
まず宮本のパチンコ狂いは、何かを「紛らす」という程度のものではなく、もう「ギャンブル依存症」のレベルではないでしょうか…凝視
月に10万円ほど勝っていたとのことですので、実利的な目的もあったかもしれませんが、それよりも勝つか負けるかという緊張感がたまらない、あるいはそういう危うい刹那(せつな)にあえて身を置くことで、少し大げさに言えば「生きている」という実感が得られるタイプの人間だったのではないかと思うのです。
 
逆に言えば、安定指向とは正反対でじっくり何かに取り組むというより、絶えず変化がなければ満足できない人なのでしょう。
 
ということは、宮本は結婚や子育てには不向きなタイプで、詳しい事情はわかりませんが結婚・離婚を繰り返しながら、その「失敗」(という意識さえないかもしれませんが)を反省することもなくまた結婚しようとしていたことには驚きます驚き
 
また、毎日閉店までパチンコをしていて、2人の子どもたちとの時間はどうしていたのか、同居の両親に任せきりにしていたのか、その点も疑問です(女性だから子育てをしろ、と言っているのではありません)。
 
それが、周りのひんしゅくを買う程度で済んでいればまだしも、反社会的人物と組んで犯罪行為にまで及ぶとなると、教師としてだけでなく人間としても「失格」と言われて仕方ないでしょう。
 
親を選ぶことのできない2人の娘さんたちが、祖父母の愛情を一杯に受けて健やかに育っていてほしいと小川は願うばかりです。
 
最後にあげた竹田タヘについては、詳しい生い立ちや境遇が分かりませんが、いわゆる「カネの亡者」に近い印象を受けます。
 
竹田は、会社員の夫と2人の子どもがありながら、慎ましく暮らすということができない性分で、派手な(贅沢な)生活を送りたいと違法な稼ぎに手を染めてしまいました
 
偶然ですが、宮本と竹田は同じ45歳で事件を起こしていますけれど、事件の起きた年が違いますから、宮本は1941(昭和16)年生まれ、竹田は1925(大正14)年生まれ(推定)とかなり世代が異なります。
 
そうした世代による時代経験の違いが、よく言えば自由奔放、悪く言えばその場限りの身勝手な欲求に囚われた宮本と、お金とぜいたくな生活に囚われた竹田の違いの背景にあるのかもしれません。
 
いずれにしても、2人ともせっかく教師という社会にとって必要とされる仕事につきながらも道を誤ってしまったことは、小川として残念としか言いようがありませんふとん1ふとん3
 
参照資料
・関連する新聞記事
・「「パチンコ狂」から「保険金詐欺」へ——熊本・ハチャメチャ女性中学教師の「転落」」(『FOCUS』1986年2月28日号)
・「ヤクザと組んで保険金詐欺を働いた「パチプロ女教師」の転落」(『新潮45』2008年5月号)
 
 

 
 お読みくださった方、ありがとうございます🤗💕