1974年 平塚市
「ピアノ騒音殺人」事件
1974(昭和49)年8月28日の午前9時10分ごろ、神奈川県平塚市の県営横内団地で、34号棟3階の奥村正さん(当時37歳)の妻・八重子さん(当時33歳)と長女で小学2年生のまゆみさん(同8歳)、次女の洋子さん(同4歳)の母子3人が、真上の4階の部屋に住む大浜*松三(まつぞう、同46歳)によって殺害されました。
*戸籍の姓は旧字体の「大濱」ですが、このブログでは新聞報道の新字体で記載しています
1974年9月20日、横浜地検小田原支部は、大浜松三を母子3人の殺人と逃走中に衣類を盗んだ窃盗の疑いで起訴しました。
朝日新聞(1974年9月21日)
大浜に対して検察は死刑を求刑し、横浜地裁小田原支部は1975(昭和50)年10月20日の判決公判で、求刑通り彼に死刑を言い渡しました。
朝日新聞(1975年10月20日夕刊)
この事件を「ピアノ騒音殺人事件」としてマスコミが報道したことから、ピアノなど近隣の騒音トラブルが、ついに親子3人が殺害される悲惨な事件まで引き起こしたかと、社会の関心を集めました。
幼い2人の子どもと母親が無惨に殺されたことで、犯人である大浜への強い憤りを覚えた人が多数だったことは言うまでもありませんが、その一方で、犯行自体は決して容認できないとしながらも、同じように近隣の騒音に悩まされている人たちからは、大浜への同情的な意見も少なからず寄せられました。
当事者団体である「騒音被害者の会」の代表がマスコミの取材で騒音被害の実情と深刻さを訴えたり、同会員が大浜への情状酌量を求める裁判所への嘆願書を集めるなど、大浜の裁判を機に騒音が深刻な社会問題となっていることを広く世間に知らせ、また裁判所が騒音問題の解決に資する判決を下すことを期待する声が、大浜の苦しみへの共感と共に集まったのです。
しかし、横浜地裁の判決は、大浜がなぜこのような凶行にまで至ったのかの解明の点でも、騒音トラブルが深刻な社会問題となっていることの分析の点でも、不十分なものだったように思われます。
裁判としてやむを得ない面もありますが、大浜については事件への責任能力があったかどうかがもっぱら問題とされ、音に対する感受性や状況の認知に異常な点があることは認めつつ、冷静かつ周到に殺害準備をしている(刺身包丁だけでなく首を絞めるためのサラシ布も予備に用意し、さらに警察への通報を妨げるために電話線を切断するペンチも用意した)ことから、責任能力があったと認定しています。
けれども、大浜の音への過剰な反応や被害妄想的な状況認知がどのようなもので、それが犯行にどう影響したかについての解明はなされないままです。
また、奥村さん宅のピアノの音についても、警察が平塚市に依頼して3階で弾かれたピアノの音が4階では何ホンかを午後2時ごろと朝の7時半と時間帯を変えて2日にわたり各15分ほど計測したものを証拠採用するにとどまっています。
計測結果は、中央値(午後2時)と上限値(午前7時半)がいずれも44ホンで、1971(昭和46)年の「騒音にかかわる環境基準」での住宅地は朝夕45ホン以下という基準内に収まっていました。
その結果をもって裁判所は奥村さん宅からのピアノの音には特段の問題なしと結論づけたのです。
しかし、曲の練習から遊びで鍵盤を叩くような音も含めて1時間から2時間続いたというピアノの体感された音量を、短時間の簡単な計測だけで機械的に判断できるのかは疑問です。
また仮に44ホンだったとしても、神奈川県公害対策事務局が音の人体に対する影響をまとめた基準例によれば、それは「睡眠をさまたげられ、病気の人は寝ていられない」音量なのだそうです。
それを「右程度の音量」と片づけた裁判所の評価に対して、騒音被害当事者から批判の声が上がったのは当然のことと思います。
最近、HSP(Highly Sensitive Person)という言葉を耳にするようになりました。「生まれつき敏感で、周りからの刺激を過度に受けやすい繊細な人」を指す心理学の概念です。
大浜がそれに該当するかどうかは分かりませんが、生まれついた素因と生育・生活環境の影響で、大浜が特に音に対して過敏で、事態を被害妄想的に受け止めてしまう性格だったことは間違いないように思われます。
大浜の生い立ちや人生に詳しく立ち入る余裕はありませんが、一例として彼がふすまの文にもあるように「挨拶」に非常なこだわりをもっていたことの背景について少し触れておきます。
小学生のころの大浜は勉強もよくできる方で、級長にも選ばれていたそうです。
その彼がつまづいた一つのきっかけは、近所の吃音(きつおん)の少年と遊ぶようになったことです。
言葉がなめらかに出ない吃音症も、下の図のように3つの種類(最初の言葉を繰り返す連発性吃音、言葉の間が伸びる伸発性吃音、言葉がなかなか出ない難発性吃音)があり、その少年は難発性吃音(下の図の「ブロック」)で、それが原因で学校に行けずにいたそうです。
ちなみに、今日でも吃音の子どもにとって学校に行くことはかなりなハードルになっています(「吃音の中高生 受診の4分の1「学校行くのが怖い」」朝日新聞デジタル、2023年9月9日)。
NHK「健康チャンネル」より
吃音の原因は分かっていないこともありますが、ほとんどが遺伝的要因で、中にはストレスなどから発症するケースもあるそうです。
大浜は、少年と遊んで吃音のマネをしているうちに、自分にも吃音の症状が出たそうです。
それ以来大浜は、自分の吃音を非常に気にして、性格も内向的になっていったと言います。
実際には大浜の吃音は気にするほどのものではなかったようですが、本人が気にして緊張すればするほど症状が出てしまいます。
中学を卒業して就職した大浜は、職場で先輩や同僚に挨拶をしようとしながら緊張して言葉が出ず、周りから挨拶もできないやつという目で見られて疎遠にされ、居づらくなって仕事を辞めるという苦い経験があったようです。
奥村さんが引っ越しの挨拶に来なかったことにそれほどまでに大浜が執着し非難し続けたのは、軽んじられたのではないかという自尊心の問題もあったでしょうが、自分がかつて挨拶ができずに挫折を味わったというコンプレックスの裏返しの優越感だったのではないでしょうか。
さて、死刑判決を受けた大浜は、死ぬことでつらい現実から逃避したいという思いから死刑を受け入れる一方で、長文の控訴趣意書を書くなど心が揺れます。
結局、控訴はしない意向を示しますが、弁護人が控訴手続きをとり、1976(昭和51)年5月に東京高裁の刑事第4部で控訴審が始まります。
裁判長は審理に先立って職権で大浜の精神鑑定を東京医科歯科大学の中田修教授に依頼しました。
4ヶ月に及ぶ鑑定の結果、中田教授は、大浜が「犯行当時パラノイアに罹患しており、殺人行為は妄想に影響づけられて実行したもの」という知見を示しました。
パラノイア(偏執症)とは、「 不安や恐怖の影響を強く受けており、他人が常に自分を批判しているという妄想を抱く妄想性パーソナリティ障害の一種」(ウィキペディア)です。
この鑑定書をもとに審理が進められていくと、死刑が回避される可能性がありましたが、大浜は、死刑か無期懲役かであれば騒音に悩まされ続けるであろう無期懲役よりも死刑の方がよく、仮に心神耗弱で無罪となっても精神科病院への長期入院は避けられないので、それも同じ理由から死刑の方がよいとして、控訴を取り下げる申し立てを中田教授ら周囲の反対を押し切って裁判所に提出しました。
それに対して弁護人が、取り下げの申し立ては正常な判断能力でなされたものではないという異議を申し立てたため、東京高裁の刑事第5部で申し立ての有効性が検討されましたが、1977(昭和52)年4月11日に、大浜がパラノイアに罹患しているとしても申し立て書を書くための正常な認知・判断能力はあり有効だという判断がなされました。
弁護人は最高裁に特別抗告することを大浜に提案しますが、死刑を受け入れるという大浜の意思は固く、特別抗告の期限が切れる4月16日付で大浜の死刑が確定しました。
それは大浜本人の選択ですので良し悪しを言うことはできませんが、もし高裁で第一審よりも丁寧かつ掘り下げた審理がなされていれば、判決はどうであれ、この事件からもっと多くのことを知れたのではないかと小川は残念に思います。
朝日新聞(1977年4月12日)
しかし皮肉なことに、中田鑑定書を踏まえて控訴審が続けられれば死刑が回避された可能性があったという事情が影響しているのか、大浜松三には死刑執行がなされないまま、95歳という最高齢の死刑囚として今もなお東京拘置所に収監されています。
その間、彼が騒音に苦しみ続けたのかどうかはわかりませんが、もしも獄中で騒音にひどく苦しむようなことがあれば、向精神薬の処方がなされたかもしれません。
事件が起きた1970年代は、まだ精神障害への偏見もあり、精神科の受診は本人にとってハードルが高かったのではないかと思います。
もしも今のように比較的気軽に受診できる状況であれば、もしかしたら大浜の激しいいらだちは薬によって緩和された可能性もあるのでは、と思います。
事件の舞台となった住宅団地(団地)についてですが、高度経済成長期の1960年代から70年代にかけて、都市の人口増加に対応するために数多く建てられ、住民は「モダン」な生活設備が便利かつコンパクトにまとめられた団地にそれぞれの夢を抱いて入居したことでしょう。
しかし、建設コストを低く抑えるために団地の壁や床は十分な厚みがなく、騒音問題は建物の構造からして起こるべくして起こったとも言えます。
さらに、本来は天井の高い石造りの広い空間で演奏されるピアノという大きな楽器が、狭く防音性に乏しい日本の団地に持ち込まれたわけです。
またあの時代にピアノは、芸術に親しむゆとりのある豊かな生活のシンボル的なもので、子どもにピアノを習わせるのはある種のステイタスでもあったそうです。
ちなみに、大浜がかつて喜んで聴いたステレオ装置も、それに近いものがあったと思います。
ですから奥村さんからすれば、子どもがピアノを弾くのは誇らしいことで、他人の耳には騒音かもしれないという想像力を欠いていた面があったかもしれません。
さまざまな事情が重なり合って起きた騒音トラブルが、極端な形で爆発してしまったこの事件、ピアノ自体については音を小さくするペダルがつけられたり、音量調節可能でヘッドフォンでも聴ける電子ピアノが作られたりしてきました。
しかし、ネットで検索すると騒音被害に悩まされている人は今も数多くあります。
生きた人間に対する音の影響は、機械で測定される客観的な音量だけで測れるものではなく、受け取る側の個人差も大きいだけに難しい問題ですが、公平な第三者を交えながら当事者同士が話し合って騒音問題解決の糸口を見つけるような地域社会での仕組みづくり*を含めて、この事件からほぼ50年が経過する今日、これまでの経験を踏まえた知恵をもっと形にできないものかと思う小川です。
*小川は、NHKが2009年に放送した「未来への提言 犯罪学者ニルス・クリスティ」という番組で、ノルウェーでは住民同士のトラブルを、裁判にかける前に、市民から選ばれた調停員と被害者・加害者が直接話し合って、罰ではなく解決を目指す「対立調停委員会」という制度が自治体に義務づけられており、問題の90%が裁判にならずに解決しているということを知りました。
参照資料
・関連する新聞記事ならびにウィキペディアの「ピアノ騒音殺人事件」
・上前淳一郎『狂気ーピアノ殺人事件』文藝春秋、1978年
・横浜地裁小田原支部 判決文