【2023年8月9日】

78年目の

長崎原爆忌に

 

今日は、8月6日の広島に続いて長崎に原子爆弾が投下されてから78年目にあたります。

 

1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、米軍のB29爆撃機が上空9600メートルから、現在「爆心地公園」となっている地点に、搭載していたプルトニウム爆弾(第二号の原子爆弾)を投下しました。

 

印が原爆投下中心地

現在の「爆心地公園」

(原爆投下2日前の写真)

 

爆心地に立てられた標識(1946)

 

「爆心地公園」に建つ

現在の原子爆弾落下中心地碑

 

上空約500メートルで炸裂した原子爆弾は、直径280メートル、摂氏数千万度の火球となって衝撃波と爆風と熱線で地上のあらゆるものを破壊し焼き尽くし、その残骸を巻き上げながら、巨大な原子雲(きのこ雲)を立ち上げました。

 

 

原子爆弾がいかに無差別に建物も人もあらゆるものを破壊する非人道兵器であるかは、被爆後の写真を見ていただければ一目瞭然です。

 

文字通りの「焦土」と化した長崎の街

(原爆投下1ヶ月後の写真)

※被爆2日前の写真と見比べてください

 

爆心地の方角を見た焦土の光景

(中央に見えるのが今は世界遺産になっている浦上天主堂)

 

当時、長崎には24万の人がいたとされますが、1945年末までに約7万4千人が亡くなり、ほぼ同数の人びとが負傷しました。

つまり、一地方都市の人口の6割以上が、たった一発の爆弾で殺傷されたのです。

 

臨時救護所の布団に横たわる

重度のやけどを負った女性

 

それにとどまらず、被爆直後を生き延びた人の中からも、ケガなどの有無にかかわらず、目に見えない放射線の被曝によっていわゆる原爆症を発症し、長年にわたって苦しみ、亡くなる人がたくさん出ることになります。

 

原子爆弾の投下時やその後に、身体に放射線の影響を受けた人は「被爆者」と呼ばれます(厚労省)。

 

長崎の被爆者の一人に、以前にこのブログ(広島の被爆者であった教師が身を守ろうとして生徒を刺した「忠生中学事件」)で少し触れた、渡辺千恵子さんという人がいます。

 

渡辺千恵子さん

 

1928(昭和3)年9月5日に長崎市銅座町の商家に生まれた渡辺さんは、小学校を卒業した1941(昭和16)年に私立鶴鳴女学校(現在の鶴鳴学園 長崎女子高等学校)に進学します。

 

 

そして、16歳の女学生だった渡辺さんは、8月9日、女学校から「学徒報国隊」として学徒動員され(戦争末期に労働力不足を補うため中等学校以上の生徒・学生が工場など生産現場に動員された)、爆心地から約2.5キロ離れた三菱電機製作所の工場で働いていました。

 

 

渡辺さんたちがいた三菱電機製作所の工場は、原子爆弾のすさまじい爆風で一瞬にして瓦解し、下半身が崩れ落ちてきた鉄骨の下敷きになった彼女は、脊椎を骨折して下半身不随になりました。

ちなみに、この日に彼女の長兄も、勤め先の三菱製鋼所で爆死しています。

 

倒壊した三菱重工長崎工場

 

渡辺さんは、診察した医師から「もう助からない」と言われましたが、母親のスガさんは諦めずに必死の看病を続けました(父親の健次さんは1940年に他界していた)。

そのため、被爆後の3年間というもの、スガさんは帯を解いて寝たことがなかったほどです。

 

スガさんは、砕かれた娘の下半身の肉が腐ってくるので、一部は骨が見えるまでになりながらも壊死したところをカミソリで削ぎ落とし、なんとか一命をとりとめることができたそうです。

 

かろうじて生き延びることのできた渡辺さんですが、16歳で下半身不随となった彼女は、生きる希望を失って自暴自棄になり、母親にきつく当たったり、自殺したいとさえ思うようになります。

そのために彼女が動ける範囲には、果物ナイフなど自殺に使える道具はいっさい置かないよう、家族は常に気を配っていたそうです。

 

被爆して約10年、渡辺さんはこうして自宅で悶々とした寝たきりの日々を送っていました。

しかし、1954(昭和29)年8月4日付け『毎日新聞』の地方版に「寝たままの原爆乙女」という見出しで彼女の紹介記事が掲載されたことをきっかけに、彼女のもとに人が訪ねてくるようになります。

 

中でも、渡辺さんと同じように被爆した若い女性たちとの出会いと交流は、それまで家族に支えられながらも孤独に生きてきた渡辺さんにとって、大きな喜びと生きる力になりました。

 

1955(昭和30)年、4人の「原爆乙女」たちと一緒に渡辺さんは、被爆者団体「原爆乙女の会」を結成します。

渡辺さんたちの会は翌1956(昭和31)年5月に、「長崎原爆青年会」と合流して「長崎原爆青年乙女の会」となりました。

 

こうして孤独な日々を脱し、社会(人びと)とのつながりを得た渡辺さんは、自らの原爆被害体験と原爆への怒りを広く伝えようとします。

 

その彼女に、1956年8月9日に開催される第2回原水爆禁止世界大会の長崎大会で、長崎の被爆者代表として発言する機会が与えられます。

 

母親に抱きかかえられて登壇した渡辺さんは、緊張に身体を震わせながらもしっかりとした言葉でスピーチしました。

 

 

 

    

私は長崎原爆青年乙女の会の渡辺千恵子でございます。

長崎大会は私にとっては二度とないよい機会でございますので、母の手を借りて出席さしていただきます。

 

大会にご出席の皆さま、みじめなこの姿を見てください。私が多くを語らなくとも原爆の恐ろしさはわかっていただけるものと思います。

 

学徒報国隊のとき原爆にあい、鉄筋のハリの下敷きとなって腰から下がぜんぜんきかなくなってしまいました。上半身だけで生きつづけている私は母なくしては生きていられないのです。なんで私たちは苦しまなければならないのでしょうか。

 

いくたびか死を宣告され、いくたびか死のうとさえ思ったわたしでしたが、母の愛にはどうしても勝つことができませでした。十年間、まったくかえりみられなかった私たち被爆者は、昨年の広島大会で初めて生きる希望が出てまいりました。これも皆さまがたとわたしたち被爆者とがしっかりと手を握ることができたからではないでしょうか。皆さま、ほんとうにありがとうございました。

 

今年の春、“生きていてよかった”のロケに出演したのがきっかけとなって、私は被爆後十一年目に、はじめて長崎が原爆の廃墟から復興した姿をこの目でみることができました。

 

わたしが被爆した三菱電機へも行ったのですが、あの日のしっしゃげた(ひしゃげた)鉄骨も、暗い工場もすっかりかわって、今は明るい近代的な工場がどうどうと立ち並んでいました。でもわたしの青春はもう二度ともとの姿に返ってこないのです。それなのに、工場のすぐ前の港には、不気味なまっ黒い煙をもくもくと吹き上げている軍艦を見たとき、戦争の予感さえ感じ、十一年前の今日の日がハッキリと思い出されてなりません。

 

原爆犠牲者はもう私たちだけでたくさんです。原爆はわたしの体を生まれもつかぬかたわにしてしまいましたが、私の心まで傷つけることはできませんでした。

 

最後に、私は先日、原爆のいけにえとして、現在、長崎大学病院に入院しておられる患者さんをお見舞いさしていただきましたが、白血病のため何回か死線をさまよわれ、いまは腹が大きくはれあがって明日の命さえわからず、原子病のお薬が一日も早く欲しいと、またほかの患者さんは、自宅療養七年で商売も破産し、どん底の生活のため二人の幼い子どもさんはベッドの下で、患者さんの残飯で生きておられ、生活の保障をなによりも痛切に訴えておられました。これは全国被爆者のみんなの願いなのです。

 

世界の皆さま、原水爆をどうかみんなの力でやめさせてください。そして、私たちがほんとうに心から、生きていてよかったという日が一日も早く実現できますよう、お願いいたします。

 

 

1959(昭和34)年に再生不良性貧血で原爆症と認定された渡辺さんは、体調に不安を抱えながらも、それから精力的に活動を続けます。

 

1977(昭和52)年、長崎の平和祈念式典では被爆者・市民で作った「平和宣言」を代表して読み、1978(昭和53)年のジュネーブでのNGO軍縮国際会議、1980(昭和55)年の国連軍縮特別総会に参加し、また長崎を修学旅行で訪れた生徒たちに被爆体験を語り伝える、後に「語り部」と呼ばれる活動を先駆的に始めました。

 

原子爆弾の非人道性と核兵器の廃絶を訴え続けた渡辺千恵子さんは、1993(平成5)年3月13日、入院先の聖フランシスコ病院(秋月辰一郎院長・当時)で65年の生涯を閉じました。

 

朝日新聞(1993年3月13日夕刊)

 

葬儀での遺影

(1993年3月20日)

 

今回触れることができませんでしたが、被爆者たちはヒロシマでもナガサキでも、原爆症に加えて無知からくる社会の偏見と差別にも苦しめられ続けました。

 

最初にあげた「忠生中学事件」では、戦争を知らない中学生たちが、「ゲンバク」「ヒバクシャ」を侮蔑とからかいの言葉として、被爆者である教師に投げつけたのです。

 

そうした苦しみを負いながらも、渡辺千恵子さんら被爆者は、この苦しみは自分たちで終わらせてほしいと訴えたのです。

 

初盆を迎える故人を弔う長崎の伝統行事

「精霊流し」で用いられた

渡辺千恵子さんの精霊船

 

ヒロシマ・ナガサキに原爆が投下されて78年、渡辺さんら被爆者の願いはいまだに実現しないまま、逆に核兵器の新たな使用さえもが案じられる状況です。

 

核兵器を切り札に使って政治的駆け引きがなされる「現実政治(リアル・ポリティクス)」を前にして、「新たな被爆者をつくらせない」「核兵器を地球上からなくそう」という訴えを、現実を知らない「お花畑」の理想論と冷笑する人が、「被爆国日本」においてさえ少なくない現状があります。

 

しかし、政治的駆け引きの道具として核兵器を使おうという発想こそ、原子爆弾の現実を知らない浅はかで愚かな考え、いや狂気の沙汰ではないでしょうか。

 

原爆は、赤ん坊であろうが妊婦であろうが年寄りであろうが、情け容赦なく無差別にむごたらしく人間たちを殺戮する、非人道的な大量破壊兵器です。

核兵器は、決して人間と共存できるものではありません。

 

長崎の大村海軍病院に運ばれた

熱傷を負った少女

(撮影・塩月正雄さん)

 

核兵器廃絶への道のりがいかに険しくても、忘れてはならない原点はそこにあります。

原爆で無惨に殺された人びとや被爆者は、変わり果てた姿と、わが身の癒えない傷と苦しみをもって、無知な私たちにそのことを訴えているのではないでしょうか。

 

原爆の爆風で吹き飛ばされ

爆熱で丸焦げになった少年

(長崎市浜口町付近で8月10日に発見)

 

その原点に思いを致しながら、原爆犠牲者への追悼の気持ちを込めて、78年目の長崎原爆忌を迎えようとする小川です。

 

参照資料

・長崎原爆資料館作成「長崎原爆と都市の破壊」(オンライン展示)

・「ナガサキ、フィルムの記憶」朝日新聞DIGITAL

・「原爆と人間展」日本原爆被害者団体協議会(日本被団協)Webギャラリー

・木永勝也「渡辺千恵子氏資料の概要紹介と若干の検討」長崎総合科学大学『平和文化研究』第36-37号、2017年3月

・「“原爆乙女”渡辺千恵子の歩み〜没後30年を迎えて」県立長崎図書館郷土資料センター 企画展示2、2023年

 https://www.pref.nagasaki.jp/shared/uploads/2023/07/1688383251.pdf

 

 

・平和の旅へ・長崎「渡辺千恵子物語」

 https://ynagano75.wixsite.com/website/1