千葉県柏市
みどりちゃん殺人事件
1981(昭和56)年
 
朝日新聞(1981年6月15日夕刊)
 
1981(昭和56)年6月14日の午後1時すぎ、千葉県柏市立柏第三小学校の西側にある「マラソンコース」と呼ばれる道で、同小学校6年の波田野みどりさん(11歳)が血まみれで倒れているのを近くに住む主婦が見つけました。
 
小笠原和彦『少年は、なぜ殺人犯にされたか』より
※加工は小川
 
マラソンコース
 
みどりさんは、右胸と右手首を刃物で刺されており、遺体の右手首には刃渡り約10センチの果物ナイフが刺さったままでした。
ただ、着衣に乱れはなかったようです。
 
刺された後みどりさんは逃げようとしたのか、道の上には12、3メートルにわたって血痕が点々とついていました。
 
現場検証をする捜査員
朝日新聞(1981年6月15日夕刊)
 
波田野みどりさん
毎日新聞(1981年7月6日夕刊)
 
この日みどりさんは午前中、日本バプテスト柏教会の日曜学校に行った後、昼食をとりにいったん自宅に戻りました。
 
日本バプテスト柏教会(現在)
 
午後2時からの教会のボランティア行事に参加する予定だったみどりさんは、学校の反対側に住む友だちの家に寄ると言って早めの午後12時55分に自宅を出ました。
遺体が発見されたのは、そのわずか15分後のことです。
 
学校南門から望むマラソンコース(現在)
みどりさんはこの道を
友人宅へと向かう途中で襲われた
 
柏第三小学校の構内には、日曜日のこの日も「学校開放制度」で市民がジョギングなどをするため自由に入ることができましたが、雨が降っていたので人影はほとんどなかったようです。
 
そうしてたまたま死角となった道で、みどりさんは何者かに襲われたのです。
 
朝日新聞(1981年6月16日)
 
千葉県警は殺人事件と見て柏署に捜査本部を設け、変質者か非行グループの犯行ではないかと目星をつけて捜査を開始しました。
 
朝日新聞(1981年7月6日夕刊)
 
警察は、犯行のあった直後に自転車で走り去るのが目撃された柏市内に住む中学3年生の少年A(14歳)を、6月27日に参考人として任意で事情を聴いたところ、「ぼくがやった。次姉とケンカしてむしゃくしゃしていたので、近くのスーパーでナイフを買った」と犯行の一部を認める供述をしました。
 
けれど、ナイフの柄からは指紋が検出されず、また捜査員が家宅捜索で押収したAのズボンと自転車から血液の付着を示すルミノール反応が出たので返り血かと思われましたが、血液型を特定できるほどの量ではなく(後に弁護側は、自転車で転んだ時についた本人の血だと主張)、また事件当日に着ていた紺のトレーニングウェアからはルミノール反応が出ませんでした。
 
このように、Aの犯行を示す確かな物的証拠は得られなかったのですが、本人が自供を崩さなかったため、警察は7月6日に彼を殺人容疑で逮捕し司法手続きを進めました。
しかし、自供頼みで物証のないことが、後になって冤罪の疑いが強く持たれる原因になります。
 
毎日新聞(1981年7月6日夕刊)
 
ところでA少年は、母と2人の姉の4人暮らしで、前年(1980)の暮れに植木職人だった父親が亡くなっています。
この父親は酒乱で、酒を飲むと家族に暴力を振るったり物を投げたり大声をあげたりしており、家族は父親の暴力におびえる日々を送っていたようです。
 
Aもそのストレスからか、小学2年生のころから軒先の放火でボヤ騒ぎを起こすなどの問題行動が見られ、中学に入ってからも2、3度家出をしていました。
 
子どものころの病気の後遺症で軽度の知的障害があるAは、普通学校に通っていましたが、成績は振るわず、親しい友だちもいなかったとの報道(「学校になじめず孤独感」)がなされています。
 

しかし、父親が亡くなってからは気持ちが落ち着いたのか、母親によるとAは高校進学を考えるようになり、学校にほとんど休まず通っています。

また事件後にAの無実を確信する級友たちが支援活動に加わり、彼は犯人ではないという最高裁への上申書の署名を集めたりしていることから、言われるようにAが学校で友だちもなく孤立していたのかも疑問です。

 

事件の日も、自転車で小学校の校庭に遊びに来ていたAは、出会った友人と声を交わしています。

 

けれども自白を証拠にして7月6日に逮捕されたAは、千葉地検松戸支部を経て17日に千葉家庭裁判所松戸支部に送致されました。

 

千葉家庭裁判所松戸支部

 

8月7日から家裁で始まった少年審判では、Aが自供を保持したことから事実関係について争われることのないまま、8月10日の第2回審判で「医療少年院の特殊教育課程へ送るのが相当」との処遇意見付きで「初等少年院送致」の保護処分が下されました。

 

 

Aが抗告しなかったために処分が確定し、Aは神奈川医療少年院に収容されました。

 
サムネイル

小川里菜の目

 

入院中の患者さんにお花を届けるボランティア活動をしていた心優しい少女みどりさんが、その活動に参加する日に、何者かによってわずか11歳で無惨にも命を奪われたこの事件……彼女はどんなに怖く無念だったことかと想像するだけで、小川の心は怒りと悲しみに震えます🥺

 

毎日新聞(1981年6月15日夕刊)

 

犯人として軽度の知的障害がある中学3年のA少年が逮捕され、犯行を認めたために確たる物証がないまま処分が確定し、事件は「一件落着」となりました。

 

Aが本当に犯人であればいいのですが、それについては冤罪ではないかという重大な疑義が提起されて、真相はいまだに解明されないままです。

 

もしもAが無実なのであれば、みどりさんを殺害した真犯人は野放しになっているわけで、警察も早く犯人をあげなければと焦っていたのでしょうが、捜査と審判の過程でもっと慎重な事実の検証がなされていればと悔やまれます。

「自白偏重」と言われてきた日本の刑事司法の問題が、ここでも影響したのかもしれません。

 

ただ、冤罪かどうかの議論に深く立ち入るのはブログの範囲を超えてしまいますし、どちらと断言できるだけの根拠を小川が持っているわけではありませんから、関心を持たれた方はWikipediaの解説や参照資料にあげた書籍などに当たってくださるようお願いします。

 

とは言え、まったく問題に触れないわけにはいきませんので、以下、冤罪をめぐって再度の審判がなされたものの、最終的には原処分を覆すには至らなかった顛末を、できるだけ簡単に紹介しておきます↓

 

最初に冤罪ではないかと疑って動いたのは、小笠原和彦という人です。

彼は、この事件の2年前(1979)に千葉県野田市で起きた「野田事件」という殺人事件で犯人とされた知的障害者の冤罪を訴える支援活動に加わっていました。

 

その彼が、たまたま事件の日のほぼ同時刻に、所用で柏第三小学校の南門近くに車を駐めて知人宅(先にあげた現場見取り図で、教会北側の「網宅」と書かれている家)を訪れていたのです。

そうした偶然もあって事件に関心を持った小笠原さんは、犯人として逮捕された少年が知的障害者だと知り、野田事件と重ね合わせて冤罪を疑ったようです。

 

彼はすぐに野田事件で国選弁護人だった若穂井透弁護士にAの審判での付添人(刑事裁判の弁護人に相当、少年審判の図を参照)を担当しないかと声をかけ、若穂井弁護士も依頼を引き受けて7月27日に付添人に選任されました。

 

8月7日に迫った少年審判の開始に準備の時間がない若穂井弁護士は、Aの自供が確かなものなのかAと4回面会してただしましたが、彼は自供を覆しませんでした。

 
Aが一転して無実を訴えるようになったのは、みどりさんの遺族が1982(昭和57)年3月に、Aと母親を相手に起こした損害賠償請求の民事訴訟がきっかけです。
 
その時もAは、みどりさん殺害の責任を認めて争わず、請求された2360万円をめぐって和解のための交渉がなされた結果、5月25日に賠償額について最終合意がなされる予定でした。
 
その額はAの母親にとっては自宅を売却しても足らない額で、覚悟を決めた母親は5月24日にAに面会に訪れ、状況を説明しながら本当にやったのかどうかを最後に聞こうとしたのです。
というのも、母親は息子から直接事件への関与について聴かされたことがなかったからです。
 
その面会の場でも、話題が「本当にやったのかどうか」になるとAはけわしい表情になって口をつぐんで答えず、ついに母親が諦めて席を立とうとしたとき、「ぼく、やっていないよ」とAが初めて無実を口にしたのです。
 
母親は帰るとすぐにそのことを若穂井弁護士に連絡しました。
そこで若穂井弁護士は、翌日に迫っていた和解の中断を裁判所に申し出、27日に長姉を伴ってAと面会をしました。
 
若穂井弁護士から聞いた話をもとに、小笠原さんが面会でのやりとりを再録していますが、それを読む限りではAの知的障害の程度は想像していたよりもかなり軽いという印象を小川は受けました!
 
自供について改めて若穂井弁護士が尋ねるとAは、長い沈黙の後に、「ぼく、犯人ではありません!」と大声で叫ぶように言ったそうです。
「では、なぜうその自白をしたの?」と重ねて尋ねる弁護士にAは、「いくら弁解しても、警察は信用してくれなかったから。それで……」とのことでした。
 
若穂井弁護士は、Aの犯行とされた状況証拠についても何点か真偽を尋ねているのですが、犯行に使われたのと同じ果物ナイフをスーパーで購入した件についてAは、購入の事実を認めた上で、自宅2階の押し入れにある新しいふとんの包みの中に隠したと言いました。
 
警察の家宅捜索では布団の中までは調べていないので、もしナイフが本当にそこにあればAの無実を証明する有力な証拠になると考えた若穂井弁護士は、面会を終えて帰るとすぐにカメラとテープレコーダーで逐一記録する準備を整え、その日の夜に若穂井弁護士ら5人が立会人となり、2階の押し入れを開けて問題のふとんを確かめました。
するとAが言ったとおり、ガムテープでとめられた新しいふとん包みの合わせ目から、鞘に入った新品の果物ナイフが見つかったのです。
 
ふとん包みから見つかったナイフ
 
これを「無実を証明する新証拠」として若穂井弁護士は、5月31日に千葉家裁松戸支部にAの保護処分取消しの申し立てをし、審判が開始されることになりました。
 
ただ、人手不足のために審判を担当したのが以前に保護処分を決めた裁判官その人だったこともあって、ナイフの件をずっと隠していたのは不自然で、一方自白の任意性は信用できるとして、1983(昭和58)年1月20日に保護処分不取消しの決定が下されました。
 
若穂井弁護士は、決定を不服として東京高裁に抗告しましたが、保護処分不取消しについては抗告できないという従来の法解釈に従って、高裁は実質的な審理なしに2月23日に抗告を棄却(門前払い)しました。
 
それでも若穂井弁護士ら弁護団は、最高裁に再抗告の申し立てをおこないました。
先に述べた、Aの無実を信じる元級友たちが、最高裁に再審判を求める嘆願書を提出したのはこの時です。
 
毎日新聞(1983年4月6日)
※赤線は小川
 
最高裁でこの件を担当した木谷明調査官は、当初法解釈に従って型通りに抗告棄却を考えたようですが、事件の内容を調べるにつけAの犯行に疑問を感じた木谷調査官は、保護処分不取消し決定についても一定の条件で上訴を認めるべきとの報告書をまとめ、それに基づいて最高裁第三小法廷は、9月5日に原決定を取り消し高裁に差し戻す画期的な決定を下しました。
 
これによって、誤って保護処分が下された少年について、前提となる非行事実がないと証明されれば、処分取り消しという救済の道が開かれることになったのです。
ざっくりと言えば、少年法による処分についてもこれによって無実の再審請求が可能になったということです。
 
毎日新聞(1983年9月7日)
 
そうした画期的な成果も副産物としてはありながら、Aについては東京高裁での差戻審でも、その後の最高裁への再抗告でも、さらに1985年に起こされた第二次取消し申し立てにおいても、弁護側はことごとく敗訴となりました。
 
その長い法廷での争いの間にAは、1983年10月に少年院を仮退院し、1985年4月1日には本退院して社会復帰しています。
 
毎日新聞(1985年7月18日)
 
簡単に経緯を紹介するつもりが、思いのほか長くなってしまい読みづらかったかもしれません🙇
また日ごろなじみの薄い司法の世界の仕組みや解釈は、小川にも分かりにくかったです😭⤵️
 
ただ小川が強く思ったことは、たとえ無実であっても、いったん犯行を自供してしまうと、後でいくら無実を訴えたところで、それを司法の場で認めさせるのは非常に難しいということですキョロキョロ
 
にもかかわらず、無実の人が取り調べで虚偽の自白をしてしまう例は数多くあります
中には、取調官による暴力や脅迫、甘言や誘導などで虚偽の自白をするケースもありますが、少なくともこの事件に関してはAに対してそうした不当な取り調べはなかったようですびっくりマーク
 
それでも、Aはまだ未熟な少年であり、軽度とはいえ知的障害もあることから、心ならずも、あるいは彼なりにいろいろ迷い考えたからこそ、虚偽の自白をしてしまった可能性があったのかもしれません。
 
また、Aが若穂井弁護士に無実を訴えた時、「なぜナイフを隠した件をこれまで誰にも言わなかったのか」(裁判官から「不自然」と疑われたまさにその点)と問われたAが、「人間が信用できなかったからです」と答えたことも、そもそも「真実を話す」前提が損なわれているケースもあるのだということが、小川の心に強く残りましたショボーン
 
虚偽自白の心理・社会メカニズムについては、それを解明する研究が蓄積されてきており、第一人者による一般向けの本も出されています。
 
 
みどりさんの殺害犯については、警察はA少年のほかに、赤いジャンパーを着た20歳前後の男も目撃証言から容疑者にあげ、聞き込みをしていたそうですが、Aの逮捕によってその線はうやむやのままに放棄された可能性があります。
 
最初に述べたように、このブログはAが有罪とも無罪とも断言するものではありませんが、もしもAが無実であれば、みどりさんを殺害した真犯人は何の罰もうけず野放しにされたままです。
みどりさんの無念も、無実の人を罰したのではおさまらないでしょう。
 
自白に依存した司法の危うさを、この事件を通してあらためて感じた小川です🥺
 
(Aの犯行ではないと疑われる理由には、ナイフの件以外にもアリバイの有無などいくつかの点がありますが、ここではそれらについてはすべて省略しました。)
 
参照資料
・関連する朝日新聞記事
・小笠原和彦『少年は、なぜ殺人犯にされたか』現代史研究会、1983年
 

 

 

 
昨日は半年ぶりにヘアサロンにヘッドスパをしに行ってきましたニコニコ
髪を綺麗にしてもらっている間に今日こそは行政書士の勉強しようと思っていたのですが、美容師さんとの会話がはずんで、できませんでした驚き
 
気持ちだけが焦る小川でした笑
 

 
 
読んでくださった方!ありがとうございます🥹
次回も宜しくお願いいたします✨✨