昭和の出会い系ツール

「ペンフレンド」と文通

 

スマホやSNSがなかった昭和の時代に、見知らぬ人との新たな出会いと交流を求めて、手紙でやり取り(文通)する「ペンフレンド」が若者の間で人気でした。

 

定期的に手紙を交換する人のことを「ペンパル」とも言い、少年少女を含めて若者が読む雑誌にはペンフレンド/ペンパルを募集するページ(掲示板や投稿欄)が必ずのようにあったそうです。

 

 

また、英語の勉強を兼ねてアメリカやオーストラリアなど英語圏のペンフレンドと国際文通をしたい人のために、海外のペンパルとの間を仲介する団体もありました。

それは、現在もあるようです。

 

日本郵政の青少年ペンフレンドクラブ(現在)

※青と赤の縁取りは航空便用の封筒

 

日本で一般の人にインターネット利用が普及し始めるのは、個人用コンピュータ(パソコン)とWindows95という使いやすいOS(操作用基本ソフト)が登場した1995(平成7)年以降のことです。

それまでにも、アイコンで操作できるアップル社のマッキントッシュ(現在のMac)というパソコンがありましたが、とても高価でした。

 

NECのPC-98とWindows95

 

パソコンでの電子メールのやり取りもそのころからで、さらに携帯電話のメール(携帯メール)が爆発的に普及するのは1999(平成11)年にNTTドコモが、携帯電話から他の携帯やパソコンに文字・静止画・動画が送れる「iモード」のサービスを提供し始めてからのことです。

こうして、2000年代以降になると個人間の手紙(ましてや手書きの手紙)でのやり取りは急速に減っていきます。

 

ペンフレンドが廃れていった背景には、コミュニケーション・ツールの変化とともに、「個人情報の保護に関する法律」(個人情報保護法)が2005(平成17)年に全面施行されたことがあります。

 

雑誌の不特定多数の読者に自分の実名と顔写真と住所(下の写真で消されている部分)をさらした当時のペンフレンド募集ページを見ると、今の感覚ではその開けっぴろげなおおらかさに驚くと同時に、悪用されはしないかと恐ろしくもなることでしょう。

 

1970年の雑誌のペンフレンド募集ページ

(加工、赤線は引用元の「70年代研究会」)

 

文通は、基本的に双方が名前と住所を明かしてのやり取りになりますから、匿名の壁に隠れることのできる電子メールやSNSより安全な面もあったでしょう。

しかし、ペンフレンドがらみの凶悪事件も起きていたようで、1977年8月5日号の『週刊朝日』は、「ペンフレンドの殺人や暴行から娘の身を守る法」という危険性への注意を喚起する記事を掲載しています。

 

 

 

記事の冒頭(上の赤線で囲った部分)に、最近の例として1977年に起きた次の2つの事件があげられています。

 

【宮島ペンフレンド殺人事件】

 

「団体旅行で広島にやってきたペンフレンドの女性を、乱暴したうえ殺した20歳の男」

 

朝日新聞(1977年6月24日夕刊)

 

1977(昭和52)年6月24日、勤務していた山形農業協同組合の研修旅行で同僚28人と一緒に広島県の宮島に来ていた山形市に住む高野利子さん(当時18歳)が、宿泊していた宮島グランドホテルの自分のとは別の部屋で遺体で発見されました。

 

厳島神社に近い宮島グランドホテル

 

農協の一行は、6月23日の午後に同ホテルに到着、夜は2階の大広間で宴会をしましたが、それが終わった午後9時ごろ、高野さんは5階511号室にペンフレンドが泊まっているから会いに行くと同僚に言い残して行ったまま戻りませんでした。

 

いつまでも帰らぬ高野さんを心配した同僚が、ホテルの従業員と予備の鍵で同室に入ったところ、布団の上で全裸にされ両手足を腰紐で縛られた高野さんの遺体を見つけたので、警察に届け出ました。

高野さんは性的暴行を受けていました。

 

この部屋に宿泊していたのは、広島県三原市に住む工員・実光保(同20歳)でした。

 

警察は、実光を重要参考人として行方を探していましたが、24日の午前8時半ごろに、ホテルから約1キロ離れた宮島町杉ノ浦の松林の中に雨の中を上半身裸でいた実光を発見し、署に連行しました。

 

取り調べによると、23日の午後5時半に一人でホテルにチェックインした実光は、午後9時半ごろに部屋を訪ねてきた高野さんとふざけ合っているうちに暴行しようと思い、彼女の首を絞め気絶させてレイプしました。

そして、自分のことがバレては困ると思いさらに高野さんの首を絞めて殺した実光は、その後、ホテル1階大浴場の窓から逃げ出しました。

着ていた上着は、途中で脱ぎ捨てたそうです。

 

被害にあった高野利子さんは、高校を卒業してこの3月に農協に就職したばかりでした。

 

実光は、友人から文通相手の手紙を100通ほど借り、その中から女性を選んで自分も文通を始めたようです。

 

手紙のやり取りはまだ3回しかなく、たまたま実光が住む広島に高野さんが職場の研修旅行で行くという偶然がなければ、事件に巻き込まれることもなかったと思われます。

 

ペンフレンドになったばかりの高野さんは文通相手の実光についてまだほとんど知らなかったでしょうが、実光には1975(昭和50)年10月29日に婦女暴行で逮捕され、1976(昭和51)年11月6日まで広島少年院に入っていた前歴がありました。

 

朝日新聞(1978年3月29日夕刊)

 

婦女暴行と殺人の罪で起訴された実光に対し広島地裁は、1978(昭和53)年3月29日の判決公判で、「文通で知り合った純真でまじめな少女を乱暴し殺した犯行は残忍冷酷で反社会的。被告はまだ若いが同じような前歴を重ねていることや反省の色がない」と求刑通り無期懲役を言い渡しました。

 

上記の記事に例として載せられたもう一つの事件は次のようなものです。

 

【暴力団員が文通相手をだまし性的暴行を繰り返した事件】

 

「文通を希望する少女たちをだまし、次々と婦女暴行、強制わいせつを重ねていた東京の暴力団員」

 

朝日新聞(1977年7月16日)

 

1977(昭和52)年5月下旬に発売された月刊誌『近代映画』7月号のペンパルコーナーに、19歳の学生で西村明夫と称する人物の、「男女を問わず、全国の皆さんと楽しい文通を期待します」との書き込みが、顔写真とともに掲載されました。

 

『近代映画』1977年7月号

 

「西村明夫」

 

実在の住所が記載されていたので、北海道から香港まで、162人の女性たちから計461通もの手紙が送られてきたそうです。

 

ところがこの男は、暴力団員でキックボクサーの「西村明夫」こと曺京柱(20歳)でした。

 

曺京柱

 

曺は、来た手紙の中から好みの女性を選んで2、3回文通した後、「素敵なあなたにぜひ一度お目にかかりたい」などと東京に誘い出していました。

 

1977(昭和52)年7月10日、曺はペンフレンドである小田原市の女子高校生A子さん(16歳)を総武線平井駅に呼び出し、一緒について来た彼女の友人B子さん(17歳)とともにタクシーでアパートの自室に連れ込みました。

 

部屋に入ったとたん豹変した曺は、登山ナイフを彼女らに突きつけて頭や顔を殴ったうえ、「静かにしろ! このあたりはヤクザがゴマンといるんだ。騒ぐと、みんなで輪姦(まわ)してやるぞ!」と脅して裸の写真を撮ったあとB子さんをレイプし、所持金まで強奪しました。

曺は犯行時の音声をテープレコーダーに録音し、ノートに犯行の記録まで残していたそうです。

 

被害にあった2人は、「今度はほかの友だちも連れて来い、さもないと写真を学校に送るぞ」と脅されましたが、勇気を出して小田原署に訴え出たことで、曺は逮捕されました。

 

曺京柱は、韓国生まれの韓国育ちで、1973(昭和48)年5月に入国し、当時都内のキックボクシングジムで修行中でした。

 

取り調べで曺は、ペンフレンドコーナーを利用して女性を誘い出す手口はテレビ番組などからヒントを得たと供述しており、被害者は大部分が未成年の女子高生やOLら10人以上に及ぶと見られています。

 

朝日新聞(1977年7月16日夕刊)

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

いつの時代も若者は、未知の世界に好奇心を抱き、新たな人との出会いや交流を求めて行動を起こそうとするものです。

 

今ではその手段はSNSや出会い系アプリが主流ですが、そうしたものがまだなかった昭和の時代(1960年代から80年代)に流行したのが、それまで知らなかった相手と手紙でやりとりするペンフレンドでした。

 

今回ブログを書くために、ペンフレンドにからんで当時どんな事件があったかを調べてみましたが、30〜40年以上も前のことだからでもあるでしょうけれど、上にあげた2つの事件以外にはネットや手持ちの本・雑誌で見つけることができませんでしたショボーン

 

それに対して、SNSの利用で犯罪被害にあった18歳未満の子どもの数は、2022年の1年間で1732人(うち在校生は、高校生833人、中学生718人、小学生114人)にものぼります(警察庁まとめ)。

全体の件数は前年より4.4%減少していますが、重要犯罪の被害は前年比12.1%増え、158人と過去最多になったそうです。

 

時事通信(2023年3月9日)

 

巻き込まれた犯罪の内容では、児童買春・ポルノ禁止法違反と、みだらな性行為を禁じた青少年保護育成条例違反が合計で9割を占め、大多数が性犯罪にからんだ事件となっていますびっくり

 

その場合も、最初に投稿したのは子どもの方であるケースが75%もあり、それらを見た犯罪者が正体を隠して子どもに近づいたのでしょう。

 

先に書きましたように、ペンフレンドの場合は、暴力団員の事件のように名前や年齢、職業、顔写真を偽るケースもあったでしょうけれど、少なくとも郵便が届く住所の記載は必要でした!

 

曺が実際に住んでいた都営住宅

(402号室が犯行現場)

 

また、手紙を書くとなるとSNSのように数行で済ませるわけにはいかず、便箋に最低2枚は手書きで丁寧に書く必要がありましたし、相手のことを想像しながら自分の思いがうまく表現できているか、出すまでに何度も読み返して書き直したことでしょう。

やりとりにも時間がかかり、返事をもらうまでに2〜3週間はかかったのではないかと思います。

その待ち時間は、冷静に自分(たち)について振り返る時間になったかもしれませんキョロキョロ

 

そのように手間暇がかかる文通は、今の若者にはまどろっこしいと感じられるでしょうけれど、言葉巧みに誘われ時間に急かされて自撮り写真を送ったり、まだろくに知らない相手に会いに行くといった性急で危険な行動に出てしまう可能性はSNSよりはるかに少なかったのではないでしょうか…

 

その意味では、文通のやりとりの遅さや面倒くささには、今のSNSにはない人への優しさや生身の人間のリズムにより適っているという面があったように思うのです照れ

 

『週刊朝日』の記事は、その趣旨からして、主にペンフレンドの危険性について書かれており、利用する人たちも男女ともに何らかの下心を持っている場合が少なくないとして、「紹介者がしっかりしていない限り文通はなるべくしないこと、もしやってもプライベートなことは決して書かないこと、むろんデートに誘うなんて、もってのほか」と「オトナの結論」を述べています。

 

そうした注意が必要なことはその通りでしょうが、若者の好奇心や欲望をただ危険だと言って押さえつけようとしてもうまくいかないのは、先に見たSNSの犯罪被害の多さからも明らかです。

 

便利さと危険性が裏表の関係にある現代のコミュニケーション・ツールを適切に使いこなせるために、必要なリテラシー教育を子どもたちに提供することはもちろん必要です。

 

けれども、最新の技術をうまく使いこなすことばかりに目を奪われるのではなく、人間的なコミュニケーションに必要なものは何かと立ちどまって考えることが求められているのではないでしょうか。

 

ペンフレンドの時代が復活することはもうないでしょうけれど、昔をたずねて新しいことを知る「温故知新」(おんこちしん)という言葉のように、今の若い世代が文通というツールやその時代の人たちの体験について知り考えてみると、今に活かせる新たな発見があるかもしれないと思った小川ですニコニコ

 

 

参照資料

・『週刊朝日』1977年8月5日号

 

・「広島の事件事故問題レポート」

 

・下川耿史「ペンフレンド・ブームの裏の強姦魔」『男性の見た昭和性相史』PART4、第三書館、1993

読んでくださり、ありがとうございました🥰💕