宇都宮病院事件

1983年(昭和58年)

(後編)

 

報徳会宇都宮病院

 

1983(昭和58)年に2人の入院患者が看護人らの暴行によって「リンチ死」した報徳会宇都宮病院(以下、宇都宮病院)に、文字通り独裁者として君臨していたのが、院長・理事長だった石川文之進医師でした。

 

石川文之進院長(当時)

 

石川文之進は、1925(大正14)年に宇都宮で、薬局と特定郵便局を経営していた父の長男(三男三女の6人きょうだい)として生まれました。

 

旧制宇都宮中学(現在の宇都宮高校)を出た石川は、1943(昭和18)年に、大阪大学医学専門部(5年制)に入学します。医学専門部とは、戦時下の医師不足に対応するために作られた医師の早期養成機関です。

 

1年留年して1949(昭和24)年に卒業した石川は、故郷に帰り義兄が経営する広瀬医院(内科小児科)を手伝い、1955(昭和30)年にその医院を引きつぐ形で大恵会石川病院を開設し、院長になります。

 

内科医だった石川ですが、1960年ごろから精神科病院に関心を持つようになり、1961(昭和36)年に石川病院を内科から精神科に事業変更を行なって名称も改め、報徳会宇都宮病院を開院します。

精神科病院を増やしてそこに精神障害者を収容するという政府の方針のもと、精神科病院の開設・運営が容易になる諸施策が行われたことがその背景にあります。

 

1958(昭和33)年10月2日の厚生省事務次官通知では、精神科病院の「特例基準」が設けられ、一般の病院に比べて医師の数は3分の1、看護師は3分の2でよいとされました。

それだけでなく、その直後(10月6日)の厚生省医務局長通知で、事情があればゆるい特例基準すら満たさなくてよいとされたのです。

 

医療・看護の人員を減らすことができるようになったのは、抗ヒスタミン薬として開発されたクロルプロマジンにドーパミン(脳内の神経伝達物質)の遮断効果があることが1952(昭和27)年に発見されたことがあります。

当時、精神病の中で最も患者の多かった統合失調症の幻覚・幻聴や妄想は、ドーパミンの過剰によって生じるという仮説に基づいてこの薬を使うと、一定の抑制効果がみられたのです。

クロルプロマジンなどの抗精神薬(いわゆる「精神安定剤」)を用いることで、副作用や薬づけのリスクをともないながらも、患者の症状をある程度コントロールできるようになり、以前よりも少ない人数で患者の「管理が」(「治療が」ではない)可能になったのです。

 

クロルプロマジン錠(例)


また、精神科病院の建設を容易にするために医療金融公庫による低利の長期融資が始められ(1960)、措置入院(精神保健指定医2名の診断と都道府県知事の命令で本人や家族の同意なくできる強制入院)を促進するために国庫負担が5割から8割に引き上げられました(1961)。

 

これら国の施策によって精神科病院は、他の診療科病院と比べて「やり方によっては」格段にまた容易に「儲かる病院」になり、結果として宇都宮病院のような営利第一で劣悪な医療・看護体制の病院にも国がお墨つきを与えてしまうことになったのです。

 

悪質な精神科病院の存在に目をつぶっても社会の安寧のために精神障害者を社会から排除・隔離するべきだといういわゆる「社会防衛」の考え方は、精神障害者は本質的に「危険な存在」だという何の根拠もない偏見に基づいているのですが、1964(昭和39)年にアメリカのライシャワー駐日大使が精神病歴のある青年に刺されて重傷を負った事件が起きたことも、精神科病院の増設・増床の流れに拍車をかけることになりました。

 

朝日新聞(1964年3月24日夕刊)

 

下の表に見られるように、日本の精神病床数(人口千人あたり)は1960年から70年にかけて急増し、1990(平成2)年ごろにピークを迎えるまで増え続けます。

その後は徐々に減少に転じますが、その間に欧米諸国では精神障害者の脱施設化(施設に閉じ込めず地域社会で暮らせるようにすること)が急速に進められたのと対照的に、日本では施設への隔離・収容が中心の旧い精神医療体制が今にいたるも主流になっているのです。

 

 

1960年からのこの流れにいち早く目をつけた石川文之進は、できるだけ多くの患者を受け入れて利益をあげようと「アル中患者大歓迎」というパンフレットを関東一円に配って、統合失調症だけでなく他の精神科病院では敬遠されるアルコールや薬物の依存症患者を積極的に受け入れ、開院時は57床だったベッド数を、1965年には300床、1967年には375床、1975年には722床、1976年には852床、1983年には920床にまで増やし、全国で5本の指に入る大規模な精神科病院にまでしました。

 

 

上の図に見られるように、「リンチ死」事件の起きた1983年の宇都宮病院の入院患者で最も多かったのは「精神分裂病(統合失調症)」の患者ですが、石川院長は朝日新聞の取材に次のように話しています(大熊一夫『新ルポ・精神病棟』)。

 

こういうの(精神分裂病)は不治ですから、分裂病っていうのは思春期に発病して、何も原因などわかんなくて、そして、荒廃していく……。治っていくことあり得ないんですからね。治ったとしたら診断が間違ってたんですね。」

 

それに対して大熊氏は、「分裂病が生やさしい病気でないことは誰もが承知している。だが、「不治の病」と決めつける根拠は全くない。分裂病と診断されて入院した人々が、社会復帰して一般人に伍して生活している例はいくらでもある。そうした「社会的治癒」に関心を示さず、ひたすら患者を檻の中にため込んで、アイヒマン[ユダヤ人の強制収容所への移送責任者だったナチス高官]みたいな言葉を平気で吐くところに、この医師の患者蔑視の本音がうかがえる」とコメントしています。

 

患者を単なる金儲けの手段としか見ていない患者蔑視の姿勢は、宇都宮病院で石川自身が毎週おこなっていた「院長回診」の様子からうかがうことができます。

 

 

朝日新聞(1984年3月15日夕刊)

 

「リンチ死」事件報道の前に朝日の記者が取材した「院長回診」は、医師が患者の病室を回るのではなく、病棟の大ホールに「集団療法」と称して患者を集め、「○○ちゃんどうだ、よく眠れるか」「はい、眠れます」「そうか、はい、お次は△△ちゃん、尿は出ているか」「前より出てます。退院させてください」「(黙殺して)はい、お次……」のように、質問はいっさい受けつけず、一言二言交わすだけで一人数秒の流れ作業のようなものだったそうです。

ただこれでも、記者が取材に入っていたので、いつもより丁寧だったのかもしれません。

 

この「回診」でのやりとりをテープに録音し、後で患者に文字起こしさせ、それを「精神療法」をおこなった証拠にして、一人600円の保険請求をしていたのです。

900人を超える入院患者を、事実上病院でただ一人の常勤精神科医であった石川院長が「回診」すると、わずか1時間ほどで数十万円の利益になるという具合です。

 

宇都宮病院では、精神科病院の特例基準さえ事情があれば満たさなくてもよいという厚生省の通知を悪用し、徹底した人件費削減(基準の4割以下)を行なっていました。

定期昇給を45歳でストップさせ定年を55歳に引き下げて、給与の高くなるベテラン職員を積極的にやめさせる代わりに、若い職員を雇ったり、患者を1日タバコ1箱から月に最高で2万5千円程度の報酬や「作業療法」と称し無給で働かせた結果、他の病院では50〜70%ある人件費比率を同病院では26%にまで圧縮していたのです。

 

その一方、石川本人と家族(病院理事や医師であった妻や長男・長女ら)が当時受け取っていた報酬は合わせて年に2億円を超え、石川一家は敷地が8838平方メートルもある豪邸で暮らしていました。

 

 

石川一家の豪邸(当時)と正門(現在)

 

宇都宮病院がこうした数々の問題を抱えながらも「順調」に拡大・成長を続けてこられたのは、政界、学界から警察まで、緊密な関係を築いてきたことによります。

 

石川文之進の弟・石川裕朗氏は宇都宮病院の事務長を務めていましたが、文之進が病院長になった1971(昭和46)年に事務長を辞めて宇都宮市議会の議員となり、さらに1975(昭和50)年には栃木県の県会議員になります。

実は、1967(昭和42)年に栃木県精神病院協会の幹部が宇都宮病院の不正を県に告発するという出来事がありました。

この時は結局、告発はうやむやにされてしまったのですが、この経験から石川は、病院と県や議会との間に政治力を行使できるパイプを作っておかなければと思ったのではないでしょうか。

 

ちなみに、裕朗氏の後任の病院事務長に石川文之進がすえたのは、宇都宮南警察署次長であった松本という人物で、彼が文之進の補佐役となって病院へのクレームやマスコミへの対応などにあたっていたと思われます(朝日記者の院長へのインタビューにも同席し、石川の発言をフォローしている)。

 

そして病院にとって何より重要だったのは、東京大学の精神科医たちとのつながりです。

内科医であった石川が宇都宮病院の院長になるためには、精神科医を名乗れるだけのキャリアが必要でした。

そこで石川は、東大医学部精神科の「研究生」(正式な研究生だったかは不明)となり、1965(昭和40)年に精神衛生鑑定医(現在の精神保健指定医)の資格を得て、措置入院させるための診断ができるようになります。その時に秋元波留夫東大精神神経科教授の紹介で石川を指導したのが武村信義医師(当時・東大脳研究所助教授)で、そこから東大の精神・神経科医たちとの人脈が広く築かれます。

 

武村医師は、「リンチ死」事件の余波で東大を辞めざるを得なくなりますが、すぐに宇都宮病院の常勤医に迎えられます。

石川は一心同体の彼を病院長にしようとしますが、さすがに栃木県がそれを認めなかったそうです。

 

東大の医師たちと石川=宇都宮病院との癒着については、大熊一夫『新ルポ・精神病棟』に主な人物へのインタビューを含めて詳しく書かれているので割愛しますが、石川は名ばかりの顧問や非常勤医師として彼らの名前を病院案内や県への提出書類に載せるなど、宇都宮病院を一流の病院に見せかける権威づけに、東京大学の名をフル活用したのです。

 

 

顧問として秋元、武村両医師の名前がある

 

その代わり彼らには、研究会や「ディスカッション(診断会議)」への出席などいろいろな名目で金銭を与え、また病院を研究のためのデータ集めの場に提供していました。

保健所の許可を得ず、資格のないケースワーカーや患者まで使って入院患者の遺体を解剖し、ホルマリンにつけた脳を武村医師の東大脳研究施設に研究材料として提供していたのはその一環です。

 

 

事件発覚後に栃木県が、宇都宮病院に措置入院(強制入院)させられていた161名の患者を精神衛生鑑定医に実地審査させたところ、措置入院が必要と認められたのはわずか47名で、残りの114名(70%)はその必要なしと診断されました。

 

このように、宇都宮病院は数々の違法行為や患者への暴力支配をおこなっていただけではなく、必要ない人まで強制的に病院に収容・監禁して人生を奪い、金儲けの種にしていたのです。

 

しかし、2人の患者の「リンチ死」が事件として明るみに出るまで同病院の罪悪が見過ごされてきたのは、家族に見放され他の精神科病院も受け入れたがらない「処遇困難」な患者を、宇都宮病院が積極的に受け入れてきたからです。

 

つまり、宇都宮病院がブラックな病院であることは関係した東大の医師たちを含めてすでに知られていたにもかかわらず、「厄介」な精神病患者・精神障害者を排除・隔離するための必要悪として社会が「重宝」してきたのです。

 

患者にまともな治療をする意思も用意もなくただ監禁するだけの強制収容を同病院の「社会貢献」と評価した東京高裁が、宇都宮地裁が石川文之進に下した懲役1年の判決すら破棄し、情状酌量を加えて懲役8ヶ月に刑期を短縮したのは、前回のブログに書いたとおりです。

 

とすれば、宇都宮病院事件が提起している問題は、単に同病院や石川文之進や患者を「リンチ死」させた看護人の罪にとどまらず、私たちの社会が抱えている「闇」にまで目を向けメスを入れていかないと、同じような問題が延々と繰り返されることになります。

 

以下は、内閣府がまとめた精神科での問題事件(1954年から2009年まで)のうち、宇都宮病院事件後の暴行・不審死事件をピックアップしたものです。

 

1986年 厩橋病院(群馬) 看護士が患者を殴り頭を骨折させる

1993年 大和川病院(大阪) 患者が院内で暴行を受け不審死

1993年 湊川病院(兵庫) 患者が暴行を受け重傷

1994年 越川記念病院(神奈川) 患者にエアガン乱射、違法拘束

1997年 山本病院(高知) 職員2人が患者の頭を壁に打ちつけ死亡

1997年 大和川病院(大阪) 暴行死、違法入院、拘束など

1998年 奄美病院(鹿児島) 患者を庭木に縛る

2001年 真城病院(大阪) 看護士がゴルフクラブで患者の頭を殴るなど暴行

2002年 和歌浦病院(和歌山) 看護助手が患者を殴打し死なせる

2004年 西熊谷病院(埼玉) 職員が患者に暴行

2005年 長崎県の病院(長崎) 職員が患者に暴行

2005年 行橋厚生病院(福岡) 看護師2人が入院中の小5男児を殴り負傷させる

2006年 埼玉江南病院(埼玉) 准看護師が患者に暴行し負傷させる

2006年 国立・国府台病院(千葉) 医師がPTSDの患者を殴る

2007年 東京クリニック(東京) 説明を求めた患者の頭を医師が壁に叩きつけ負傷させる

2007年 武蔵野病院(群馬) 看護師が患者の頭を蹴り死なす

2008年 米子病院(鳥取) 看護助手が入院患者の顔を殴る

2008年 しのだの森ホスピタル(大阪) 看護師が患者の腕をねじ曲げ骨折させる

2009年 青葉丘病院(大阪) 保護室内で男性患者が不審死

 

これ以外にも2001年に元職員の告発で明るみに出た朝倉病院(埼玉)で40人以上の患者が不審死していた事件や、最近大きく報道されたものでは、2020年「神出病院」(兵庫)で看護師ら6人が2018〜2019年に7人の患者に準強制わいせつ・暴行・監禁、2022年「ふれあい沼津ホスピタル」(静岡)で看護師2人が3日にわたり患者を暴行、2023年「滝山病院」(東京)で看護師が患者を日常的に虐待、などがあります。

この滝山病院院長の朝倉重延は、朝倉病院の院長だった人物です。

 

滝山病院は、人工透析が必要な患者も積極的に受け入れ、「どこにも入れない患者が最後に行き着く場所」(元職員)として「重宝」されていたそうですが、非常勤職員を多用した看護の質の低さ、患者への虐待、不正な診療報酬請求など、宇都宮病院と同じ営利第一主義の経営を繰り返していました。

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

今回のブログを書くにあたって、大熊一夫『新ルポ・精神病棟』(1985)を写真も含めて多く参照させてもらいました。

 

朝日新聞の記者だった大熊さんは、1973(昭和48)年に『ルポ・精神病棟』という本を出しています。

 

本の帯には

「精神病院は人間の捨て場か?」

という問いかけが……

 

この本は、1970(昭和45)年2月、精神病院の実態を入院患者の立場で内部から明らかにするため、彼が「アル中患者」と偽って東京のある病院に潜入取材したものです。

 

ニセ患者にもかかわらず、院長の1分足らずの診断であっさり入院を認められた大熊さんが最初に入れられた「保護室」は、次のようなところでした。

ちなみに、精神科病院の「保護室」は患者を懲らしめるための隔離部屋として使われることが多く、密室ゆえに患者に暴行を加える場になりやすいところです。

 

 

「広さは約三畳、べっこう色に変色したたたみに、フケだらけのせんべいぶとん、コンクリート・ブロックの壁、北側の壁に、鉄格子入りの天窓、部屋のすみに便所のアナが見える。

絶えず、便所の土管から臭気が吹上げてくる。駅の公衆便所に寝るに等しい。[2月なのに]暖房はない。水洗のしぶきが床をぬらす。水が凍った朝もあった。」

 

6日目になって大部屋に移されますが「牢獄の雰囲気」は変わらず、あまりにも劣悪な状況に3週間の取材予定を12日で断念し、妻に助けを求めて退院した大熊さんは、「ここを病院だと思ってはいけない」と次のように書いています。

 

「病む心と医師がふれ合う所が病院であって、ここは「病院」の名をかたる「人間の捨て場所」であった。医師との接触はほとんどなく、入院したが最後、病状も退院時期もわからない、いわば不定期刑なのだ。もし、……もし逃げても失敗すれば恐るべきリンチが待っている。」

 

これを読むと、この時から10年後の宇都宮病院でも、50年後の滝山病院においても、本質的にはほとんど同じことが繰り返されているのではないかと思わざるをえません。

 

しかし、宇都宮病院事件をきっかけに、日本の精神科病院で患者の人権が蹂躙されている現状を是正するよう国連人権委員会から勧告されたり、国会でも当時の社会党議員が取り上げたことから、1987(昭和62)年に精神衛生法が改正されて精神保健法となり、本人の意思に基づく任意入院制度や開放病棟の創設など、精神科病院の改善がはかられるようになったはずです。

また、2004(平成16)年には厚労省が「精神保健医療福祉の改革ビジョン」で、欧米のように入院中心から地域中心への転換を打ち出しました。

 

けれども、そうした法改正や施策が精神科病院や精神障害者の置かれた状況の改善にどれほどつながっているかは、今にいたるも精神科病院での虐待事件が繰り返されていることから疑問です。

 

そこに踏み込むのはブログの範囲を超えてしまいますので、原昌平(読売新聞大阪本社編集委員)「精神科病院のどこが問題なのか、どうやって変えるか」(2019)から現状を示すいくつかのデータだけを紹介しておきます。

 

精神保健法のもとでは、精神科病院への入院には次の表のような3つの種別があり、「措置入院」と「医療保護入院」は本人の同意が必要ない強制入院です。

 

 

 

法改正から10年ほどは入院患者に占める「任意入院」の割合が増えていきましたが、2000年からはその割合が減り、代わって「措置入院」よりも条件のゆるい強制入院である「医療保護入院」が増え続けています。

 

また、閉鎖病棟から開放病棟への流れも、2000年以降は逆転しています。

それだけではなく、原氏によると「任意入院の患者は、日中なら自由に外出できるのが原則なのに、37%が閉鎖処遇を受けている」そうです。

 

どうしてそうなるのか不思議ですが、弱い立場の患者に「同意」さえさせれば、むしろ「任意入院」の患者の方が法的制約や第三者のチェックなしに病院が都合よく管理できるという現実があるようです。

 

 

また、保護室への隔離や身体拘束を受けている患者数も、減るどころか年々増えています。

下のグラフは、各年の6月30日に隔離・拘束を受けていた患者数なので、年間でみればその数ははるかに多く、「それぞれ10万人を超えるのではないか」(原)と見られています。

 

身体拘束(例)

 

 

一方、大熊さんが『新ルポ』の「第二部「宇都宮病院」をなくすために」で期待を込めて紹介していた全開放型の三枚橋病院(群馬県太田市、1980年に当時の石川信義院長のもとで病棟から鉄格子をすべて撤去)の試みも、今や「風前のともしび」だそうです(「男女交際やディスコも 自由掲げた精神科病院の挑戦はなぜ潰えたか」朝日新聞2021年12月4日)。

 

三枚橋病院内のディスコ(1982)

 

その背景には、欧米では精神科病院は公立が中心ですが、日本では1960年ごろから政策的に増やされてきた私立病院が9割以上も占めており、その多くが入院患者を増やすか回転率を上げて収益を確保する旧態依然の隔離・収容型のままで、政府・厚労省も「業界」の圧力に逆らえないという構造的な問題があるようです。

 

このように見てくると、日本の精神医療や精神科病院に対して絶望的な気持ちになってきます。

 

しかし、先にも見たように、日本の状況が停滞している間にも世界の流れは大きく変わってきています。

 

千人あたりの精神科病床数の変化

 

中でも先頭を走っているイタリアでは、フランコ・バザーリア医師らの尽力で、1978年に同国の精神保健を抜本的に改革する「180号法」が成立し、精神科病院を順次閉鎖して精神障害者が地域社会の中で適切な支援を受けながら生活していける体制づくりが進められています。

 

バザーリア医師

 

日本と対照的なイタリアの試みを大熊さんは、『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』(2009)で詳しく紹介しています。

 

 

 

 

信濃毎日新聞(2008年7月15日)

 

精神科病院を廃止し、精神障害者が地域社会で暮らせるようにすると言えば、日本ではまだ多くの人が「そんな危険なことを!」と不安になり反対するのではないでしょうか。そして、精神障害者についてよく知らないまま、危ない(かもしれない)人たちは自分たちの生活空間の外でなんとかしてほしいとも思うでしょう。多くの人が共有している偏見に基づくそうした意識が、「精神病院を捨てない日本」を支えているのだと小川は思います。

 

イタリアの精神科病院閉鎖は、精神障害者を何のサポートもなしに病院からただ放り出すのではもちろんありません。

 

 

上の図は、イタリア北部トリエステの精神障害者を支える仕組みです。

年中無休で24時間対応する地域の精神保健センターを中心に、住居、就労、当事者の自助グループ、相談、緊急時の医療サービスなどの体制が整えられています。

 

こうした仕組みがイタリアの自治体ごとに作られ、準備が整ったところから順次精神科病院を閉鎖していってるのです。

 

精神保健センターの役割とその基礎にある考え方について、ジョヴァンナさんというある県の精神保健局長で精神科医の言葉を、大熊さんは次のように伝えています。

 

「人間は複雑な関係性の中で生きています。だから私たちも、利用者の生活上の複雑さに正面から向き合って解決の道を見つけます。病気の兆候を観察するのではなくて、病気の背後の人間関係だの、労働環境だの、住環境だのを理解して対処する。それが精神保健センターです。こんなことは病院ではできません。」(p.178)

 

日本の精神保健の現状とのあまりの違いに愕然としながらも、上のトリエステの地図から小川は、学生時代に見たよく似た図を思い出しました。

 

 

これは、宇都宮病院事件が報道されたのと同じ1984年に、北海道日高地方の浦河という街で設立された「浦河べてるの家」のユニークな活動の全体図です(活動の始まりはイタリアで改革法が成立した1978年)。

 

べてるの家の活動は、浦河赤十字病院精神科のケースワーカーだった向谷地生良(むかいやち・いくよし)さんが、主に統合失調症の患者さんが退院後に地域社会で生きていけるよう、一緒に生活しながら当事者を中心に試行錯誤を重ね作り出してきたものです。

 

 

精神科病院という枠内での改革に限定せず、むしろ病院をその中に組み込みながら地域全体を精神障害者が自らの病気とともに生きていける仕組みにしていこうとするべてるの家の試みは、イタリアの改革とも非常に通じるものがあるように思います。

 

また、精神障害者が隣人として生きられる地域社会づくりは、精神障害者だけでなく、他の障害者や高齢者などハンディキャップのある多様な人たちが地域で共に生きられる社会の実現にもつながっていくに違いありません。

 

絶望したくなるような「闇」の中に輝く小さな「ともしび」を見逃さず、それらを手がかりに私たちの社会を少しでも良くしたいと、非力ながらも願う小川です。

 

参照資料

・新聞の関係記事

・大熊一夫『ルポ・精神病棟』朝日新聞社、1973、現在は朝日文庫に収録

・大熊一夫『新ルポ・精神病棟』朝日文庫、1988、単行本は1985

・大熊一夫『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』岩波書店、2009

・原昌平「精神病院のどこが問題なのか、どうやって変えるか」SYNODOS、2019

・斎藤正彦「滝山病院問題から考える~精神科病院の不祥事はなぜ繰り返されるのか」毎日新聞医療プレミア、2023

・桐原尚之「宇都宮病院事件から精神衛生法改正までの歴史の再検討」Core Ethics Vol.11、2015

・「【宇都宮病院事件】リンチ殺人事件の概要と裁判などのその後も」Windy、2019

・浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』医学書院、2002、ほか

・「べてるの家」(YouTube)

 

 
 

 
読んでくださった方!ありがとうございました🥹
これからも宜しくお願いいたします💕