宇都宮病院事件
1983年(昭和58年)
(前編)
朝日新聞(1984年3月14日)
今回は前編として、宇都宮病院事件の概要をお伝えいたします。
【事件の発覚】
栃木県宇都宮市の精神科病院、報徳会宇都宮病院(以下、宇都宮病院)で、入院患者2名が看護職員らに暴行され死亡していたと朝日新聞が1984(昭和59)年3月14日付の朝刊紙面でスクープしました。
宇都宮病院は当時、920床に定員を超える944人の入院患者を受け入れていた北関東最大の精神科病院でした。
これをきっかけに、宇都宮病院で長年にわたって行われていた患者に対する数々の暴力行為・虐待行為や不正行為が明るみに出され、同病院だけではなく日本の精神医療が抱える問題点や精神科病院の「闇」が大きな社会問題になりました。
直接問題とされた暴行死事件は1983(昭和58)年に起きましたが、事が明るみに出たのは、同病院に1978(昭和53)年3月から5年間も意思に反して入院させられていた安井健彦さんが、1983年6月になってようやく交際相手の女性の助けを得て退院に成功し、病院の暴力支配の実態を告発したことによります。
安井健彦さん
安井さんは家族間のトラブルから兄によって措置入院(本人の同意なしの強制入院)させられていたのですが、宇都宮病院の看護職員による患者への徹底した支配・管理と、逆らうものへの容赦ない暴力をなんとか告発したいと思っていました。
しかし、厳しい監視と脱走者への容赦ない懲罰から、病院を逃げ出すことが不可能であると悟った安井さんは、看護職員の下働きをさせられている「配膳」と呼ばれる患者の中で信頼できる人に、虐待の確かな事実をつかんで教えてくれるよう依頼していました。
そこで上がってきたのが、看護職員らによる患者への「死のリンチ」だったのです。
安井さんが出版した告発本
(三一書房、1986)
【死のリンチ】
安井健彦さんが退院時点でつかんでいたのは1件目の暴行死ですが、朝日新聞が「患者2人に「死のリンチ」」との見出しで報じたように、告発の過程で2件目の暴行死が明らかになります。
以下は、2人への暴行に直接関わった看護人ら4人の刑事裁判の判決文において、宇都宮地方裁判所が認定した事実を基にしています。
朝日新聞(1984年3月14日夕刊)
第一の「死のリンチ」は、1983年4月25日に、同病院新館2階閉鎖病棟の大ホールで起きました。
大ホールの手前(上の図の下方)
から奥(上方)を写した写真
統合失調症(当時は精神分裂病と呼ばれた)と診断され、1969(昭和44)年から14年間措置入院(強制入院)させられていた小島惣一郎さん(当時32歳)が、同日の午後4時過ぎ、夕食(同病院の食事の質の悪さはすべての退院者が訴えている)に少し手をつけただけで食べないのを、看護助手の萩原久之が見とがめて「食べなきゃだめだ」と言いながら小島さんの頭を握り拳で2、3回叩きました。
しかし小島さんは、「食いたかねえんだ」と答え、「捨てるんじゃない」と言われたのを無視して残飯入れに捨ててしまいました。
それに腹を立てた萩原に握り拳で頬を殴られた小島さんは、さらなる殴打を避けようと萩原の手首をつかみました。
たまたま数日前に手首をケガしていた萩原は、つかまれて痛みを感じたのと、他の患者らが見ている前で抵抗されメンツをつぶされたと憤り、暴力で制裁を加えようと決意します。
萩原は、小島さんの腰をサンダルばきの足の硬い甲で力を入れて回し蹴りし、小ホールのベッド付近に連れて行ってさらに力一杯回し蹴りをしました。
その騒動を見聞きしていた石川亨(看護助手)、橋本光浩(「配膳」の患者)、石川敏彦(看護助手)の3人も小ホールに駆けつけ、言うことを聞かない患者に制裁を加えていると了解して、小島さんに代わるがわる暴行を加えました。
その間に萩原は、リネン室から長さ80センチの金属パイプを持ってきて、小島さんが「助けてくれ、やめてくれ」と哀願するのも聞かず、野球のバットを振るように勢いをつけて彼の背中や腰を殴打し、また金属パイプを受け取った橋本も、パイプがくの字に曲がるほど激しく小島さんの背中や尻を殴りつけました。
朝日新聞(1984年3月17日夕刊)
痛みに耐えかねて大ホールに逃げた小島さんを追いかけた萩原は、椅子につまづいて転んだことから、多勢の患者の前で恥をかかされたとますます激昂し、徹底的に痛めつけようと考えたのです。
小ホールに連れ戻された小島さんが「痛え。やめてくれよ。助けてくれよ」と泣き叫ぶのも構わず、萩原らは、手すりにつかまって跳躍しながら四つん這いにさせた小島さんの背中に飛び乗って足踏みし、床にうつ伏せにつぶれてしまってからも同様の暴行を続けたところ、小島さんはうめき声もあげずぐったりとしてしまいました。
しばらくして自力で起き上がり、小ホールのベッドに足を引きずるようにして行き腰を下ろした小島さんの背中を、追いかけて行った橋本が蹴りつけてベッドから突き落とし、さらにベッドから飛び降りて、横向きに倒れている小島さんの脇腹をプロレス技のニー・ドロップのように膝打ちしたのです。
ニー・ドロップ(膝打ち)
こうして萩原らの暴行により多数の打撲挫傷、筋肉挫滅などの傷害を負った小島さんは、午後8時ごろには外傷性ショックで亡くなりました。
第二の「死のリンチ」は、1983年12月30日に、同じ大ホールで起きました。
てんかんの持病があった大栗皇英さん(当時35歳)は、1973年に発作が原因で交通事故を起こし、同乗していた母親を死なせたことから酒に溺れるようになり、1983年8月に慢性のアルコール依存と肝硬変と診断されて宇都宮病院に入院しました。
12月30日の午後4時20分ごろ、大栗さんが面会人に「こんな病院にいたってよけいに病気が悪くなる。やたらと殴られる」などと不平・不満を漏らし、さらに夕食時に「食事がまずい。配給されるタバコの本数が少ない」と文句を言ったため萩原久之が怒鳴りつけたところ、大栗さんが反抗的な態度をとったので、メンツがつぶされたと感じた萩原は懲らしめようと考えました。
萩原が大栗さんの手をつかんで小ホールに連れて行こうとしたところ、彼が逃げ出したため、その様子を見ていた石川敏彦も制裁に加わり、小ホールで小島さんの時と同じような殴る蹴るの暴行を加えました。
さらに石川は、入院患者に命じて一斗缶(18リットル)入りの水を持って来させて頭から浴びせたほか、配膳室からスチール製の折りたたみ椅子を持ってきて、たたんだ状態のパイプ椅子で大栗さんの背中を殴打しました。
パイプ椅子で殴打するプロレスラー
その後、同日午後8時20分ごろ、大ホールで大栗さんが他の入院患者と口論していたのを見かけた石川が注意したところ、反抗的な態度をとられたので腹を立て、もう一度制裁しようとします。
石川は、勤務中だった看護人の斉藤三千男と一緒に大栗さんを同ホールに置かれていた卓球台の上に正座させようとしましたが、「畜生」と言ったり立ち上がろうとするなど反抗的な態度を取られたため、ホールの掃除をしていた入院患者から木製モップを取り上げて、その柄が折れてもまだ何度も殴りつけ、さらに2本の抑制帯で大栗さんの両手を後ろ手に縛って正座させ、暴行を加えました。
抑制帯(例)
朝日新聞(1984年3月28日)
大栗さんは、翌日(12月31日)の午後に容態が急変し、亡くなりました。
どちらのケースも病院は暴行の事実を隠して死因を病死と偽り、遺族に対してもそのように説明しています。
朝日新聞(1984年3月26日)
【リンチをした4人の起訴と判決】
朝日新聞(1984年4月20日)
リンチをした4人を裁いた宇都宮地方裁判所は、小島惣一郎さんについては暴行と死亡の因果関係を認めましたが、大栗皇英さんについては暴行の事実を認めたものの、肝硬変が相当に悪化していたこともあり、暴行が直接の死因とまでは認めませんでした。
なおこの裁判で傷害致死と暴行の罪に問われた4人のうち、第一のリンチを主導し第二のリンチにも関わった萩原久之には懲役4年の実刑が、看護人になったばかりで先輩の萩原に追随したものの暴力の程度が軽度だった石川亨には懲役3年執行猶予4年が、患者の橋本光浩は軽躁状態で心神耗弱と認められ懲役3年施行猶予3年が、第二のリンチの主導者だが保釈後に大栗さんの遺族の下に何度も謝罪に訪れ悔悟の情が深いと認められた石川敏彦には懲役1年6ヶ月執行猶予3年が、それぞれ言い渡されています。
【告発】
話を戻しますが、退院した安井健彦さんはすぐに警視庁目黒署と東京地検特捜部に行き、宇都宮病院で殺人があったと訴えました。
しかし、どちらからも告訴を拒絶されました。
それでも諦めない安井さんは、病院の実情をマスコミや国会議員、そして宇都宮病院と深い関わりのあった東大医学部などに出向いて訴えを続けます。
やがて、朝日新聞社会部と宇都宮支局、社会党の代議士、さらに「宇都宮病院問題調査担当班」を設置した東京大学精神科医師連合(東大精医連)の医師たちや弁護士などとつながりができ、連絡を取り合いながら事件を明るみに出し社会問題化するための準備が進められました。
その過程で1983年8月にも患者が一人不審死していることが分かり、また12月に起きた第二の「死のリンチ」の信頼できる情報が得られて、1984年3月14日の朝日新聞のスクープ報道になります。
また報道翌日の3月15日には、宇都宮病院で取材をしていた朝日新聞の記者に向けて、窓の鉄格子の間から2人の患者が告発の手紙を紙飛行機のようにして投げ落としました。
外部との連絡が厳しく制限されていた患者たちは、こうした通信手段を「ハトを飛ばす」と呼んでいたそうです。
2通の手紙(ハト)を受け取った記者は、3月16日付の紙面でその内容を次のように伝えました。
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朝日新聞(1984年3月16日)
1通目には、「我々は暴行を受け又目撃もしているが、貴方に知らせることは看護人によってきびしく止められ話せません。」とありました。
記事はそこまでしか書いていませんが、紙面に載せられた手紙の写真を見ると、さらに「なお金属バットでのコロシの犯人……」と読める文が続いています。
また2通目には、「あまり病院の生活がきびしすぎるので首つりして、しんでいった人がだいぶいました。その中の一人が○○です。」とあったそうです。
朝日新聞(1984年4月9日夕刊)
事件発覚後の調査によれば、宇都宮病院では1981年からの3年間で220人もの入院患者が死亡しており、うち少なくとも19人は「不自然な死亡」でした。
朝日新聞(1984年4月7日)
事件化された2件は氷山の一角に過ぎず、それ以外にも手紙にある監禁や暴行を苦にした自殺を含め虐待死が相当数あるのではないかと疑われますが、閉鎖病棟という密室での出来事だけに、真相は闇に葬られたままです。
朝日新聞(1984年3月23日夕刊)
【数々の不正と審判】
報道を受けて、ようやく栃木県警が傷害致死容疑で捜査を開始します。
また、栃木県の衛生指導部も宇都宮病院に実地調査に入りました。
宇都宮病院に実地調査に入る県職員
その結果、宇都宮病院が創業者でありワンマン経営者である石川文之進(院長・理事長、当時59歳)のもとで行なってきた数々の不正行為が明るみに出されました。
①看護職員による入院患者への日常的な暴力・リンチ(患者の人権無視・蹂躙)
②看護師や患者など無資格者による検査や診療
朝日新聞(1984年4月9日)
③いちじるしい医師・看護師の不足(千人近い入院患者に対し、常勤精神科医は石川院長含め3名、看護師6名、無資格・未経験が多数の看護助手61名)
④患者の使役(看護助手の下働き=「配膳」)、作業療法の名を借りた報徳会グループ企業での無償労働
朝日新聞(1984年3月16日)
⑤通信・面会の自由の制限・剥奪(手紙の検閲、公衆電話はあるが患者に十円玉1枚持たせない)
⑥不必要な強制入院、定員を大きく超過する入院患者(酒に酔っただけで20年間も入院させられた患者など、1984年は920床に944人の入院患者)
⑦患者に強制的に預けさせた現金の着服(3300万円が不明)、生活保護患者の看護料の不正請求(1億円)
朝日新聞(1984年4月14日)
⑧保健所の許可なしに、死亡した患者を解剖し脳を摘出(協力関係にある東大医師に研究標本として提供)
⑨病棟として認可されていない施設を患者用に使用
⑩人件費の水増しなどによる2億円の所得隠し、法人税の脱税
朝日新聞(1984年3月15日)
栃木県警は347人を取り調べ、石川院長はじめ9人が逮捕され、延べ111人が被疑者として書類送検されました。
石川文之進
ただ、石川院長が起訴されたのは、無資格検査・診療と違法な遺体解剖そして患者に「作業療法」で作らせたコメの違法販売の3件の管理責任のみで、入院患者への暴行死について検察は罪に問いませんでした。
しかし宇都宮地方裁判所は、1985(昭和60)年3月26日の判決公判で、「患者の人格を無視した被告の姿勢、態度が看護職員に、患者に対する暴力支配の傾向を生み、患者が職員を怖がるという異常な状況を作り出した」と指摘し、「リンチ死事件はその頂点で、石川の監督責任は重大で、単に道義的責任だけでは済まされない」と院内での患者の暴行死の責任にも言及し、石川に懲役1年の実刑と罰金30万円(求刑は懲役1年6ヶ月)を言い渡しました。
朝日新聞(1985年3月26日夕刊)
違法行為の事実を認めながらも石川は、量刑不当として控訴します。
それを受けて東京高裁は1987(昭和62)年1月28日、地裁が「リンチ死事件」に対する石川の監督責任を「量刑上重要な要素」と評価した点を否定し、地裁判決を破棄して改めて懲役8ヶ月罰金30万円と一審より軽い判決を下したのです。
地裁判決よりも刑が軽くなったのは、上記の理由のほか、宇都宮病院が他病院が受け入れない患者を多く受け入れてきたことを「社会貢献」と評価したことがあります。
またそれとは別に石川は、厚生省(当時)の医道審議会から医業停止2年の行政処分を受けました。
朝日新聞(1987年1月29日)
このように、宇都宮病院のすべてを支配していた石川文之進に対する責任の追及・認定は極めて甘いもので、石川は院長・理事長職こそ辞したものの、その後も宇都宮病院の事実上の支配者として君臨し続け、医業停止処分が解けるや医師としての診療にも復帰しています。
前にブログで取り上げた「赤ちゃんあっせん事件」の菊田昇医師が、胎児の命を守ろうと出生届に事実と異なる記載をしたというだけで、厚生省や医師会、学会から袋叩きのように処分を受けたのと、あまりにも大きな違いがあります。
自分の管理下の病院で患者を暴行死させるような問題を起こしながらも、その責任者が地域の精神医療に貢献しているとして軽微な罪にしか問われず、病院ともども何事もなかったかのようにすぐに復活できるところに、日本の精神医療と精神科病院をめぐる深い「闇」を見ることができるのではないでしょうか。
【今も変わらぬ宇都宮病院/医師の体質】
朝日新聞(1984年4月5日)
東洋経済ONLINEが2020年から2022年にかけて連載した「精神医療を問う」というシリーズの第13回(2021年7月14日)「報徳会宇都宮病院に今も君臨する95歳社主の正体〜精神医療史に残る不祥事経てもなお最前線に立つ」で、「オー先生」「オードクター」と呼ばれる高齢の医師が取り上げられています。
主治医だったこの医師に何年も振り回された2人の元患者が、「口調は乱暴で、とにかく人の話を聞こうとしない」「診察時、周囲に聞こえるほど大声、しかもべらんめえ口調で、よく患者を笑いものにしていた」と語るこの高齢医師こそ、2021年時点でなお宇都宮病院の社主を名乗り診療を続けていた石川文之進その人でした。
さらに、2018(平成30)年に長男との金銭トラブルから宇都宮病院に民間救急車で拉致同然に連行されて医療保護入院(医師の診断と家族の同意だけでできる強制入院)させられた富山県在住の江口實さん(提訴時80歳)が、向精神薬の投与などで心身に損害を受けたとして、2022(令和4)年2月に医療法人報徳会と鈴木三夫院長、そして直接担当した医師2人を相手どり損害賠償を求める裁判を起こしました。
記者会見で宇都宮病院の実態
について語る江口實さん
訴えられた2人の医師の一人は、江口さんの入院を決めた同病院の池田啓子医師ですが、入院時に検査もせず、わずか3分間の会話だけで「老年期認知疾患型」精神疾患と決めつけ、「酒を飲んで暴れる」などとして強制入院の措置を進めたのが石川文之進医師です。
池田医師は精神保健指定医資格のない石川に代わって彼の判断のままに形式的に入院を決定したのです。
実は、長男から事前に相談を受けた石川が患者も診ずに強制入院をはじめから決めていたようで、入院後に行われた江口さんの頭部MRI検査や長谷川式認知症検査では「非認知症」との結果が出ています。
それでも退院は認められませんでしたが、薬づけの副作用や劣悪な入院環境(ひと月超の入院期間に入浴はわずか3回)で体重が10キロも減り、ろれつも回らず、衰弱する夫を見かねた妻が必死に長男を諭して、ようやく江口さんは退院することができたのです。
江口さんの拉致と宇都宮病院の強制入院の実態については、参照資料にあげた「週刊金曜日」と文春オンラインの記事が証拠資料とともに詳しく伝えています。
なお、江口さんは損害賠償を求める民事訴訟とは別に監禁での刑事告訴も行ない、宇都宮地検が訴えを受理したそうです。
(後編につづく)
参照資料
・朝日新聞、事件関連の紙面
・宇都宮地方裁判所判決(リンチ死事件の刑事裁判)
・東洋経済ONLINE「精神医療を問う」シリーズ
・吉田明彦「報徳会宇都宮病院の驚愕実態とは 強制入院させられた男性が病院を提訴」週刊金曜日ONLINE、2022年7月2日
・「「男4人組に羽交い絞めにされ精神科病棟へ強制入院」の裏に“長男夫婦との金銭トラブル”《高齢男性が“誤認入院”で提訴》」文春オンライン、2022年2月8日
読んでくださり、ありがとうございます🤗
後編も宜しくお願いいたします✨