昭和に起きた生徒間の

集団リンチ事件

 

今回は、新聞で小川の目にとまった昭和に起きた学校生徒による6つの集団リンチ事件を取り上げました。

早い時期のものは1969(昭和44)年と1973(昭和48)年ですが、後の4つは1980(昭和55)年に起きた事件です。

 

①小学2年生集団リンチ事件(1969)

 

②中学1年生クラス反省会体罰事件(1973)

 

③女子小学生集団リンチ事件(1980)

 

④女子高校生集団リンチ事件(1980)

 

⑤女子中学生集団リンチ事件(1980)

 

 ⑥高校生集団リンチ事件(1980) 

 

①小学2年生集団リンチ事件(1969.12.27、茨城県鹿島郡)

 

朝日新聞(1969年12月27日夕刊)

 

1969(昭和44)年12月27日、茨城県鹿島郡鉾田町の病院から、入院していた鹿島郡旭村(現在はいずれも鉾田市)の小学2年生小林栄一君(当時8歳)が、脳内出血と肋骨骨折で死亡したと届出がありました。数日前に同級生らから集団リンチを受け、それが原因と思われるとのことでした。

 

警察が関係者を呼んで調べたところ、12月24日に下校途中の午前11時ごろ、小学6年生1人を含む5人に自宅近くの山林に連れ出され、集団で殴られ気を失って倒れました。

直後に通りかかった父親の栄蔵さんが見つけて病院に運んだのです。

 

トラブルの原因は、前日の23日に数人の友人と氷すべりをしていた栄一君が転んで服を汚し母親に叱られたため、「友だちに水たまりに突き落とされた」と言ったことが始まりです。

それを聞いた栄一君の母親が、友だちの家を訪ねて文句を言ったため、それぞれの母親に叱られた5人が翌日、「自分で転んだのに嘘をついた」と栄一君を集団で殴ったのです。

 

殴った子どもたちは14歳未満で刑事責任を問えないため、警察は保護者に厳重注意をしたとのことです。

 

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この事件は、親に叱られた被害者がついた嘘のとばっちりを受けて自分の親から叱られた子どもとその友人たちが、嘘をついたことへの制裁として集団で殴る蹴るしたところ、大ケガをさせて3日後に死なせてしまったというものです。

 

いじめとしての集団暴行とは性質の違うもので、こうした暴力は半世紀も前の子どもの世界では珍しくなかったのではないでしょうか。

 

その意味では、事件というより打ちどころの悪かった不幸な事故と言えるかもしれませんが、脳内出血に肋骨骨折ですから小学生とはいえ相当ひどい暴行を加えたようです。

 

そこでは、集団になるとピアプレッシャー(仲間からの圧力)のために暴力への歯止めが効きにくくなるという集団心理が働いたのかもしれません。

この心理は、以下の集団リンチにおいても共通して見られるものではないかと思います。

 

②中学1年生クラス反省会体罰事件(1973.11.10、岐阜県高山市)

 

朝日新聞(1973年11月15日)

 

1973(昭和48)年11月10日の午後2時ごろ、高山市立中山中学校での出来事です。

放課後の反省会を開いていた1年生のクラスで、クラスの決まりを守らなかったと生徒のA子さん(当時12歳)が級友たちから殴られる体罰を受け、あごの骨を折る2週間のケガを負いました。

 

反省会は、クラスの生徒41人全員が参加して、服装や所持金など日ごろの生活態度をあらためるためとして毎日放課後に10〜15分程度行っていたもので、この日は、必要以外のお金は学校に持ってこないというクラスの決まりに反してA子さんが約950円を持ってきたと生活安全委員の男子生徒がA子さんを追及したそうです。

 

昭和の中学校の授業風景(1965)

(本事件とは関係ありません)

 

A子さんを反省させるために、「体罰を加える」「2週間口をきかない」「朝の掃除を続けさせる」の三つの罰が生徒から提案され、体罰案が賛成多数となったために、男女二十数人の生徒が次々とA子さんを殴っていたところ、一人の男子生徒が強く殴ったためにA子さんが倒れました。

 

そこでようやく見ていた担任の南忠男教諭(同41歳)が止めに入り、保健室でA子さんへの応急手当てをして家に帰しましたが、12日に病院での診断であごの骨を折るなど全治2週間のケガをしていたことが判明したため、保護者が高山署に届け出たものです。

 

警察は、傷害事件として南教諭を傷害容疑で調べるとともに、生徒からも事情を聴きました。

 

南教諭は、「体罰や2週間口をきかないという案はひどすぎると助言したが、教室のムードが異常で黙認する形になった」と供述しています。

 

反省会の運営は生徒の自主性に任せているとのことで、この時も先生は席を外してほしいと生徒に言われたそうですが、南教諭はそのまま教室に居て、A子さんが殴られるのを倒れるまで見ていました。

 

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教師が黙認し見ている前で行われた中学1年生のクラスでの集団制裁。

とても嫌な気持ちにさせられる事件です。

 

一人の生徒を立たせ、クラスの全員が順番に叩いていく光景を想像しただけで背筋が凍ります。

叩き続けるほど生徒の気持ちもエスカレートしていったのか、ついにはあごの骨が折れるほど力一杯殴りつけた男子生徒が出て彼女は倒れ、やっとそこで教師が止めに入ったのです。

 

この教師は、それまでどんな気持ちで生徒たちがよってたかって一人の女子生徒に加える暴力を見ていたのでしょうか。

 

また、クラスの「友人」たち全員からそういう仕打ちを受けたショックと傷は、A子さんの中に一生残ったのではないかと案じられます。

 

生徒たちが自ら学校での生活ルールを決めて守るというのは、民主的な自治の能力を養うための教育として意味あることだと思います。

しかし教育の一環であるということは、生徒の自主性を尊重すると同時に、教師の適切な指導が車の両輪のように必要ですけれど、この場合はどうだったのでしょうか。

 

罰は罪とのバランスが取れていてこそ正しいものと認められます。

A子さんの罪はどの点にまたどの程度のものとしてあったのか、彼女からの弁明はどのように聴かれ考慮されたのか、そうした手続きが適切に踏まれていたのか、さらにはルール自体に不適切さや曖昧さなどの問題はなかったのか、罰についての結論を出す前に考えるべきことはたくさんあります。

それこそが勉強になるはずですけれど、それらはどうだったのでしょうか。

 

罰についても、生徒から提案があった三つの処罰案のどれも小川には適切と思えません。

まず「体罰」と「口をきかない」は論外です。

 

刑事罰でさえ近代国家では自由権の制限が基本であって、ムチや棒で打つなど「暴力で痛めつける」という罰は今はありません。

ましてや教育の手段としての「体罰」は明確な違法行為で、それ自体犯罪です。

また、「口をきかない」(いわゆるシカトする)は最も多い陰湿ないじめのやり方です。

 

家庭や学校で体罰を受けたり、いじめで仲間はずれにされることの辛さや悲しさを子どもたちは知っているからこそ、こういう案が出るのでしょうか。

 

仮にA子さんが過ちを犯したとして、そもそも罰する目的は、痛い目にあわせて恐れさせ、ルール(集団の意志)に有無を言わさず屈服させることなのでしょうか。

それとも、ルールから外れた彼女に自分の行為を反省させ(=行為の意味や問題点を自ら考えて自覚させ)、仲間の輪の中へと再び迎え入れることが目的なのでしょうか。

もし後者であるなら、そのためにはどのような教育的処罰が効果的か、そうしたことを教師は中学1年生にも分かるように説明して考えさせねばなりません。

 

41歳ですからこの担任教師はもうベテランだと思いますが、彼が生徒に「助言」したのは「体罰と口をきかない案はひどすぎる」とだけで、結局は教室の「異常なムード」に流され黙認してしまったというのです。

 

「異常なムード」の正体は何でしょう。

A子さんがもともとクラス中の憎しみの対象になっていてそれが噴き出たというのでなければ、自分こそが正義を手にしていると思った時の人間の優越感、高揚感ではなかったかと小川は想像します。

A子さんを骨折させた男子生徒も、善意に解釈すれば、普段から暴力的な生徒だったのではなく、「正義感」から力まかせに殴ってしまったのでしょう。

 

「正義感」は大切なものですが、同時に人間をしばしば「独善」へと誤らせる双刃の剣でもあります。

だから善悪を問題にするときこそ、正義の感情に流されることなく冷静に考え抜く必要があるのです。

 

中学生といえば、まだまだ感情だけで行動してしまいがちな未熟な子どもたちですから、教師からの適切な教育的介入が必要だったのですが、その教師までもが「同調圧力」(①であげた「ピアプレッシャー」)に屈してしまったことの責任は非常に大きいと思います。

 

なお、「朝の掃除」という三つ目の罰則案も小川は不適切だと考えますが、長くなってしまいましたので理由は省略いたします。

 

③女子小学生集団リンチ事件(1980.9.1、長崎市)

 

朝日新聞(1980年9月14日)

 

長崎市内の4人の女子小学生が、同じ学校に通う女子小学生を集団でリンチし、果物ナイフで背中に4針を縫う全治1週間のケガを負わせた事件です。

 

1980(昭和55)年9月1日の午後1時半ごろ、小学5年、2年、1年の姉妹3人と小学2年のA子(当時7歳)が、A子の同級生のB子さん(同8歳)をA子の自宅2階に連れ込み、午後4時ごろにかけてB子さんを下着姿にして手足をなわ跳びのロープで縛り、殴る蹴るの乱暴をしました。

 

その後、A子は台所からさや付きの果物ナイフを持ち出し、B子さんの背中に押し付けたりしているうちにさやが抜けて、長さ11センチ、皮下にまで達するケガを負わせました。

 

さや付き果物ナイフ(例)

 

事件は、双方の家族からの連絡で発覚しました。

警察の調べによると、小学5年生の女児とB子さんの兄とは同級生ですが、その兄は知的障害者(当時の言い方では「知恵遅れ」)で、彼をいじめることがあるのを周りから注意されたのを根に持った小学5年の女児が、彼の妹であるB子さんに、自分の妹たちとA子を巻き込んで仕返しをしたものと見られています。

 

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A子の供述どおりだとすれば、さやが抜けたためにナイフで背中を切ってしまったのは意図せぬ出来ごとだったかもしれませんが、密室に連れ込み、2時間半にもわたって4人で小学2年の女児に暴行を加え、しかも下着姿にしてロープで手足を縛るといった辱めを与え、さやを付けたままとはいえナイフで背中を切るふりまでして脅す(B子さんにすれば、見えない背中ですので、ナイフの刃を本当に当てられていると恐怖を感じたことでしょう)というのは、大人顔負けで驚きます。

子どもたちは、いったい何からこうしたリンチの仕方を学んだのでしょうか。

 

それはそうとして、この事件で最も注意すべきは、知的障害者へのいじめが発端にあったことです。

 

以前のブログ(「親による障害児者の殺害事件」)で書きましたように、1979(昭和44)年に養護学校が義務化され、それまで就学免除・猶予という形で放置されていた重度の障害者も学校に通えるようになりました。

また、希望すれば養護学校(今の特別支援学校)ではなく普通学校の特殊学級(養護学級など学校によって呼び名は異なる、今の特別支援学級)も選択できるようになりました。

 

しかし、比較的障害が軽度の子どもは、それまでにも普通学校の中に設けられた特殊学級に通っており、B子さんの兄も軽度の知的障害者だったので妹と同じ小学校に通っていたのだと思われます。

 

特殊学級(特別支援学級)の子どもはいじめられるのではないかと心配する保護者が今でも少なくありませんが、1979年以降、「障害」や「特別支援」への社会的認知が進んできたこと、教員のサポート体制が改善されてきたことなどから、障害児というだけでいじめられることは、今日では無くなってきているようです。

 

ただ、この事件が起きたのはまだ1980年であり、障害者に対する社会の偏見や差別意識が子どもたちにも影響して、障害者へのいじめが今よりも起きていた可能性はあります。

 

B子さんの知的障害者の兄と同級だった小学5年の女児が、彼にどのようないじめをしていたのか、またそれに対して教師や親はどのような注意の仕方をしたのか、記事からは詳細が分かりませんが、関係ない妹を捕まえて仕返しをしようと思うほど叱られたことを逆恨みしたのは、この女児自身が何らかの問題を抱えていたのか、それとも叱り方が適切でなかったのかのいずれか(もしくは両方)だったのでは……と思われます。

 

④女子高校生集団リンチ事件(1980.9.13、東京都国立市)

 

朝日新聞(1980年9月20日)

 

東京都国立市にある都立第五商業高校で、文化祭が始まった1980(昭和55)年9月13日、2、3年生の女子生徒31人が、3年の女子生徒2人をトイレに連れ込み、集団で暴行を加えるという事件が起きました。

 

同校は商業科のみの高校で、当時は在校生の9割が女子生徒だったそうです。

 

学校側の話によると、同日午後1時ごろ、文化祭の売店で小間物を売っていた3年生のA子さん(当時17歳)のところに2年生2人が呼び出しに来て、近くの写真部の展示室に連れて行かれたそうです。

A子さんはいったん逃げたのですが、別の2年生4人にトイレに連れ込まれ、中にいた10数人の2、3年生が、「生意気だ」「お前、目立ちすぎる」と言いながら、スリッパでA子さんの顔を叩いたり、脚や内ももを蹴ったり、ぬれたスポンジで顔をこすったりという暴行を加えました。

 

その途中で、A子さんと同級のB子さん(同17歳)も同じトイレに連れ込まれ、「髪の毛を切ってやる」などと脅されながらA子さんと同様に乱暴されたのです。

 

二人は全治1週間の傷を負いました。

 

A子さんは帰宅して母親にそのことを伝え、また翌日登校した時に、蹴られて腫れた脚や内ももの手当てを保健室でしてもらったことから、事件が学校に知られることとなりました。

 

加害生徒によると、A子さんは普段から積極的にハキハキとものを言う性格で、これを快く思っていなかったのと、B子さんについては、クラブ活動の時に加害グループの2人に口頭で注意をしたことがあり、それを恨みに思っていたとのことです。

 

加害生徒31人のうち、実際に暴力を振るったのは14人で、学校はうち10人を退学、4人を無期停学、17人を5日から1週間の有期停学処分にしました。

 

小林拾一郎校長は、「ふだんから指導は厳しくやってきた。しかし、どうしても、いうことをきいてくれない子どもたちだった。事件の責任は最大限に感じている。生徒の処分については、学内で暴力をふるったことを許してはいけないと思い、厳しい処分にした」と話しているそうです。

 

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当時の同校の状況がよく分かりませんが、記事の限りでは、女子生徒ばかり31人の「不良グループ」ができていて、校長の話では学校としても彼女たちにはお手上げ状態だったようです。

 

しかし、グループのうち1人が暴走族と一緒に暴走行為をして警察に補導されたことがあるそうですが、他の生徒には特に補導歴は伝えられていません。

とすれば、トイレに連れ込んでの集団暴行はもちろん許されることではありませんが、暴力の内容・程度から見ても、学校が指導を諦めざるをえないほどどうしようもなく悪質な生徒たちだったのでしょうか。

 

被害にあった二人は、加害生徒たちがいわゆる「落ちこぼれ」だったのと対照的に、教師からもかわいがられる良くできる生徒たちだったように思われます。

 

ですから、男子の不良グループがいる荒れた学校であれば、彼らの不満の矛先は直接学校や教師に向けられ、校内暴力が日常化したことでしょう。

 

しかしこの事件の場合は、学校自体もそれほど荒れてはいないように思われる中で、勉強についていけず教師からも見捨てられたという不満やいらだちを日ごろから溜めていた生徒たちが、文化祭という非日常的な雰囲気にも刺激されて、学校側・教師側とみなされたA子さんとB子さんに矛先を向け、うっぷんばらしをしたのではないかと推測されます。

 

被害にあった何の落ち度もない2人にはとんだ災難でしたし、大人数で取り囲んでの弱いものいじめ的な暴力には怒りを覚えます。

 

けれども、(限られた情報で断定は避けなければなりませんが)校長の言う「ふだんからやってきた厳しい指導」とはどういう指導だったのか、「どうしても〔学校/教師の〕いうことをきいてくれない子どもたち」と言いますが、逆に生徒の言うことや言葉にならない思いをどれだけ親身になって聴こうとする姿勢を学校/教師はそれまでとってきたのか、「学内で暴力を振るったことを許してはいけない」という管理者の保身ともとれる校長の言い方も気になりますし、これを良い機会に「腐ったみかん」を学校から追い出すかのような退学・無期停学の「厳しい処分」を下すなど、小川には学校の対応に疑問の残る事件でした。

 

⑤女子中学生集団リンチ事件(1980.11.26、大阪府豊中市)

 

朝日新聞(1980年12月16日夕刊)

 

この事件は、1980(昭和55)年11月26日の午後1時45分ごろ、豊中市立豊中第7中学校3年のA子(当時15歳)を中心とする女子非行グループが、同級生のB子さん(同)に4時間にもわたって殴る蹴るの集団暴行を加え、首や足などに全治10日のケガを負わせたというものです。

 

調べによると、3年の初めごろまでA子らと親しくしていたB子さんが急に冷淡になり、A子らの悪口を言っているとのうわさを聞いて、A子は仲間10人と共にB子さんを学校近くの駐車場に呼び出し殴る蹴るの暴力を振るいましたが、通行人に見とがめられると場所を河川敷に移して、さらにタバコの火でB子さんのスカートや下着を焼くなど執拗なリンチを加えました。

 

警察は、A子ら中心の5人を傷害の疑いで逮捕し、6人を補導しました。

女子中学生が一度に5人も逮捕されたのは、大阪でも異例のことだそうです。

 

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不良グループを抜けようとした「仲間」に制裁を加えた女子中学生による集団リンチ事件です。

 

記事だけでは詳しい事情が分かりませんが、中学3年になると高校進学をどうするか嫌でも意識せざるをえなくなります。

B子さんは、このままグループにとどまっていたのでは進学に差しさわると考えて距離を取ったのかもしれません。

 

横浜のホームレス襲撃に加わった「凶悪」な少年たちも、一人ひとりになるとおとなしい子どもたちだったと言われますが、「落ちこぼれ」て孤立しがちな彼ら/彼女らからすれば、仲間集団は安心を得るためにも身を守るためにも必要不可欠な拠り所だったのでしょう。

 

ですから、仲間を捨てて「普通の生徒」に戻ろうとしたB子さんは、悪口云々以前に許せない裏切り者であり、リーダー格のA子からすれば、もし「ケジメ」をつけずにこれを見過ごせば、グループ自体が瓦解しかねない重大事だったのだと思われます。

 

先に書きましたように、中学生にとって3年生になるころが自分の将来をにらんだ一つの節目であり、子どもたちの心も揺れがちです。

この事件は、そういう時期にB子さんがグループを抜けたことから、A子らは取り残されるような疎外感もあって、執拗に暴力を振るったのではないでしょうか。

 

この記事では、「校内暴力続発のきざしに府警が強い態度を打ち出したのが注目される」と書かれていますが、A子らが不良化したのはどうしてだったのか、また学校/教師はA子らにこれまでどのように対応してきたのか、小川としては知りたいところです。

 

⑥高校生集団リンチ事件(1980.10.25、埼玉県上尾市)

 

朝日新聞(1981年3月20日)

 

この記事は、埼玉県警少年課と上尾署が、集団リンチや万引きなどをしていた中高校生グループや暴走族など合わせて5つのグループの構成員を身柄送検や書類送検などして、グループを解体に追い込んだというものです。

 

そのうち、上尾市内の女子中学生を中心とする番長グループが、1980(昭和55)年10月25日に、集団暴行事件を起こしました。

 

このグループは、市内の中学3年生14人、同校を卒業した高校生4人、専門学校生2人、無職2人で、グループのメンバーだった中学3年生4人が脱会したことに腹を立てて、同市上尾村の倉庫裏に彼女らを呼び出し、「生意気だ」などと顔を殴ったり腹を蹴ったりしました。

 

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この事件も、⑤と同じくグループを抜けた中学3年生4人に制裁を加えようと、人目につかないところに呼び出して暴行を加えたものです。

 

閉鎖的なグループでは、入会時と退会時に何らかの過酷な試練を儀式のようにして与え、それに耐えられた者だけ入退会を認めるというのはよくあることだと思います。

この事件の集団暴行も、それに似たものではなかったでしょうか。

 

 

 

上は、朝日新聞(1980年12月26日)の記事ですが、「女生徒のリンチ急増」という見出しで、女子中学生が集団で同級生や下級生の女子生徒に集団暴行した青森・徳島・秋田の3つの事件を紹介しています。最初の2つの事件の加害者は3年生です。

 

暴行の内容を見ると、具体的に書かれている徳島と秋田の事件では、単なる殴る蹴るにとどまらず、性的暴行・辱めを含む非常に危険かつ悪質なもので、被害者から金品まで奪っています。

 

後で触れるように、ここには集団暴行の性格が「制裁(リンチ)」から「いじめ」へと変わっていくその始まりが見て取れるのではないでしょうか。

 

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小川里菜の目

 

「リンチ」(lynch:私刑)という言葉の本来の意味は、もちろん今では不正な犯罪行為ですが、何らかの不正をおこなったとみなした者に対して加えられる私的な暴力的制裁です。

ただ日本で「リンチ」と言うと、不正への制裁とは関係なく、単に誰かを集団で吊し上げたり暴力を加えたりすることを指して用いられることも多くあります。

 

しかし、今回たまたま取り上げた6件の生徒間の集団リンチ事件は、加害者たちの独善的な思い込みとはいえ、被害者の「不正」行為(①の「嘘」、②の「ルール違反」、③の「告げ口」、④の[まったくの言いがかりですが]「良い子ぶり」、⑤⑥の「仲間への裏切り」)に対する「制裁」つまり「正義の行使」という意識が加害者にある、本来の意味のリンチに近いものだったように思われます。

 

とはいえ、私的な暴力的制裁は社会的に認められていないと加害者たちも自覚していたのでしょう、山林・自宅・トイレ・駐車場・倉庫裏・河川敷など人目につかない場所に被害者を連れ込んで暴行を加えています。

 

その中で②だけは、教師が体罰を黙認したことから公認された制裁であるかのような意識が生徒に生まれ、教室という公的空間での集団リンチという前代未聞の事件となりました。

そこには、反抗的な生徒は力づくで押さえ込みながら、教師に逆らわない生徒には逆に教師の方が迎合的になるという問題があったのかもしれません。

1986(昭和61)年に起きた中野富士見中学いじめ自殺事件で、教室での「葬式ごっこ」のいじめに担任教師ら4人が加担していたことが思い起こされます。

 

また⑥に関連して紹介した事件になると、制裁はきっかけや口実にすぎず、コーラのびんを使った性的暴行や服を脱がせてタバコの火を押し当てるなどのサディスティックな行為、さらには被害者が持っていた金品を強奪するなど、加害者なりの正義の行使という意味合いは失われ、暴行自体を楽しんだり金品を巻き上げる「いじめ」としての集団的暴力であるとしか思えず、「集団リンチ」のほとんどがいじめとしての行為になっていったように思われます。

 

そこで次は、昭和に起きたいじめとしての集団リンチ事件を取り上げようと思います。

 

 

  

 

 

 

 

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