親による

障害児の殺害事件

1970年〜80年代

 

山本おさむ『どんぐりの家』第1巻より

 

障害児者に対する社会福祉の施策や保健医療は、今日でも不十分な点がまだ残されているとはいえ、以前と比べると格段に整備・充実されてきています。

しかし、福祉・医療が貧困であった昭和の時代には、障害児者を抱えた親の高齢化や生活不安、あるいは子どもの将来への絶望などから、子殺しや無理心中といった悲劇が多発していました。

 

以下では、小川の目についた6つの事例を紹介し、どこに問題があったかを考え、また現在ではそれらに対してどういう支援の制度・施策があるのかを見てみたいと思います。

 

なお、情報源が事件を報じた新聞記事に限られていますので、詳しい事情にまでは踏み込めていないことをお断りしておきます。

また、通常の犯罪とは異なることから、姓は一部伏せて表記し、敬称は全員につけています。

 

①55年にわたる介護の果てに

 

朝日新聞(1983年10月10日)

 

1983(昭和58)年10月9日午前1時ごろ、埼玉県新座市の住宅で、自分の老齢と娘の将来を案じたI田ふきさん(82歳)が、三女のとし子さん(55歳)を腰ヒモで絞殺しました。

とし子さんは先天性脳性マヒで両手足と言語が不自由でした。

母親のふきさんは無理心中するつもりが死にきれず、午前5時半ごろになって警察に自ら110番通報したものです。

 

ふきさんは、約20年前(1963年)に教員だった夫と別居しています。

夫との間には一男五女がおり(そのうち長女は他界)、東京都練馬区に嫁いだ四女の近くに住みたいと、別居の後すぐにふきさんはとし子さんを連れて茨城県東茨城郡から新座市に転居してきました。

 

二人は1964(昭和39)年5月から生活保護を受けていましたが、7年前に亡くなった夫の遺族年金が支給されるようになったことから、1980(昭和55)年に生活保護を打ち切られています。

 

新座市は、ふきさんに老人ホーム、とし子さんには授産施設への入所を勧めていたそうですが、住み慣れた地域で母娘が一緒に暮らしたいとふきさんは入所を断っていました。

 

その後、1982(昭和57)年4月にふきさんが糖尿病と高血圧で入院したことから、娘の将来に不安を募らせていました。

 

4人の子どもたちも代わる代わる訪れていたそうですが、ふきさんが思い余って一緒に死のうと娘に手にかけてしまったようです。

 

 

 

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この当時は、施設に入所するときは親子が別々になりますし、また施設に入ると外に出ることも難しく、施設の中だけで生涯暮らすことも多かったのです。

 

しかし、施設への収容中心から住み慣れた地域でできるだけ自立した生活を送ることへと障害者・高齢者の福祉の方向性が変化し、地域社会の中にある一般の住宅で少人数の障害者・高齢者が専任のスタッフの支援を受けながら一緒に暮らす「グループホーム」が1990年以降つくられるようになってきました(国の制度化は1997年)。

 

さらに、富山県では高齢の親と障害のある子が一緒に暮らす「共生型グループホーム」が、大分県では親子が同じ施設で暮らせる有料老人ホームができて全国に広がるなど、新たな形の取り組みもなされるようになっています(参照:渡部 伸『障害のある子の「親なきあと」』主婦の友社、2018)。

 

また、2006(平成18)年には「バリアフリー法」(高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律)ができ、道路や建物、公共交通機関の利用がしやすくなったため、これまで家や施設に閉じこもらざるをえなかった障害者や高齢者の外出の利便性が格段に改善されてきています。

 

②地域社会と福祉支援から孤立して

 

朝日新聞(1975年8月16日夕刊)

 

1975(昭和50)年8月16日、大阪市西淀川区のアパートで、管理人のS田幾次郎さん(70歳)と次男の穣さん(38歳)がなくなっているのを住人が発見しました。

父親の幾次郎さんが息子を手ぬぐいで絞殺した後、自分も首をつって自殺した無理心中でした。

穣さんは脳性マヒでしたが、言語が不自由だったものの手足に不自由はなかったそうです。

 

妹に宛てた幾次郎さんの遺書には、「(自分の)身体が悪くなり、回復の見込みはありません。ふびんでかわいい息子を一人残すことはできないので、一緒に連れていきます。」とありました。

 

幾次郎さんは、脳動脈硬化症と胃炎などで通院しており、前日の8月15日には民生委員に「入院したいが息子があんな具合なので、家政婦をあっせんしてもらえないか」と頼みに行ったとのことです。

近隣住民の話ではS田さん親子は近所とのつき合いがほとんどなかったそうで、福祉の支援も得られそうにないと思い、絶望のあまり無理心中したのではないかと思われます。

 

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この時代は、通院などの移動支援や自宅での居宅介護の公的扶助が制度としてありませんでした。

 

この父親は自分の入院中に息子の生活を支えてくれる家政婦のあっせんを民生委員に頼みに行ったとのことですが、介護ヘルパーの制度が始まるのは1990年以降になってからなので、自費で普通のお手伝いさんを雇うことは無理と断念せざるをえなかったのでしょう。その翌日に無理心中してしまいます。

 

また、今では独居老人や障害者など社会的支援が必要と思われる家庭への声かけや見守りを民生委員や自治体職員がおこなったりしていますが、この当時はそうしたこともほとんどなく、近所づき合いがない家族は困難を抱えていても誰にも知られないまま孤立した状態に置かれがちでした。

 

この息子さんは、脳性マヒとはいえ手足は不自由でなかったとのことなので、障害は軽度だったように思われます。にもかかわらず死を選ぶしかないとまで父親が思い詰めたのは、その時代の福祉がそれほどまでに貧困だったことを物語っているのではないでしょうか。

 

③子どもの難病と生活苦から

 

朝日新聞(1983年10月10日)

 

1983(昭和58)年10月9日、岩手県鹿角(かづの)市花輪越えの県道で、乗用車が23メートル下に転落・炎上し、乗っていた親子5人のうち4人が焼死、子ども1人が重傷を負いました。

 

亡くなったのは、岩手県二戸郡のH山正夫さん(42歳)と妻のひさ子さん(36歳)、長女で小学3年のひとみさん(9歳)、三男の通良君(4歳)の4人で、重傷は次男の真仁君(5歳)でした。

長男で中学2年の朋章君(13歳)は、その前に「お前だけ帰れ」とひとり車から降ろされています。

 

H山夫妻は再婚で、それぞれの連子を含めて5人の子どもがいましたが、四男の秀行君は不治の難病で生後2ヶ月から入院をしていました。

 

長男を含む一家6人は、前日の10月8日に入院中の秀行君を見舞っています。

それから十和田湖で遊んで夕食をとった後、9日の午前3時ごろに父親が勤務する鉱山会社の前で成長した長男だけを降ろし、無理心中したものと思われます。

四男の難病に加えて生活苦が原因ではないかと見られています。

 

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この事件は、夫婦ともに子どもを連れての再婚で、5人の子どもを育てていました。

 

一家無理心中ですが、難病の四男を巻き込んでいないことから難病の子どもの将来というよりも、四男の医療費を含めての生活苦で今後を悲観したのが原因だったのではないでしょうか。

 

しかし、記事を読む限りですが、この夫婦が子育てや生活苦についてどこかに相談した様子はありません。

今では、自治体の子ども福祉課やNPO法人など相談に乗ってくれる窓口がありますが、このころはまだそうしたところも少なく、たとえ相談しても十分な対応はしてもらえなかったと思います。

 

例えば、子育て支援事業として子どもを一時預かってくれる「子どもショートステイ」を今では多くの自治体が実施していますが、この当時はまだありませんでした。

 

また、夫は定職についていましたのでどれくらいの収入があったのかにもよりますが、額によっては生活保護の受給も今ならできたかもしれません。

しかし1983年は、1981年の厚生省担当課長の通知によって、不正受給対策の名の下に生活保護の受給に非常に大きな制限がかけられており、いわゆる「水際作戦」(受給の申請すら窓口でさせない)で餓死者まで出たような、国民の権利であるはずの生活保護を受けるのが非常に難しい時代でした。

 

④子どもの将来に絶望して⑴

 

朝日新聞(1973年8月21日夕刊)

 

1973(昭和48)年8月21日、京都市東山区のK村正男さん(38歳)宅で、長女の理恵子さん(1歳)が苦しんでいるのを母親の和子さんが見つけ、近くの病院に運びましたがまもなく亡くなりました。

子どもの死を不審に思った和子さんが110番通報し、警察が調べたところ、理恵子さんの死因は青酸カリによる毒殺であることが分かり、父親が殺人容疑で緊急逮捕されました。

 

1972年6月に生まれた理恵子さんは、1973年3月に脳性小児マヒと診断されています。

父親はそのことで2,3週間前からノイローゼ状態だったようで、自分も一緒に死ぬつもりで前日の20日に勤務先から青酸カリを持ち出していました。

 

父親は19日に妻や妻の両親、会社の上司ら5人に宛てた遺書を書いて通勤カバンに入れており、妻への遺書には、「11年間の結婚生活もこれで終止符が打たれた。苦労の連続で、何ひとつ夫らしいことをしてやれなかった。理恵子の病名が病院で宣告されたとき、私は今日のことがいつか起こると思っていた。娘になっても働けないと思う。理恵子に対してこんなムゴイことをしてしまったのを、許してくれ」と書かれていました。

 

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生まれる子どもの平均して約3%は先天的な異常・障害をもっていると言われますし、誕生後の事故や病気などもあって、日本国民の約7.6%(約965万人、2021「障害者白書」)は身体/精神/知的障害者です。また、2025年には65歳以上の18.5%が認知症になると推計されています。

さらに、「健常者」に分類される人であったとしても、日常生活に大きな支障がない程度の障害を抱えているのはごく普通のことでしょう。

 

ところが、競争の勝者だけが価値ある者として賞賛され目指されるような社会では、競争に勝てないどころか競争に加わることもできない障害者や病者などの「弱者」は、社会に負担をかける「お荷物」「やっかい者」のように扱われることになります。

社会全体がそのような「空気」に染まってしまうと、大部分は偶然に(しかし一定の割合で)生まれる障害児を持った親は、社会に対して後ろめたい気持ちにさえなりながら、親も子も不幸な人生を送るしかないと絶望してしまうことになります。

 

この父親は、子どもの病名が告げられた段階で、「今日のこと」がいつか起こると絶望したとのことですが、病名を告げた医師は親をどのようにフォローしたのでしょうか。

また、夫婦の意思疎通もうまくはかれていなかったように思います。

人の間(関係)を生きる場とする人間は、孤立するととても弱いものです。

 

今では、「アウトリーチ」(言葉の意味は「手を伸ばす」)と言って困難を抱えた人からの申し出を待たずに支援の手を積極的に差し伸べることで人を孤立させない取り組みがなされるようになってきていますが、このころにはそうした考えもまだありませんでした。

 

子どもの将来に絶望して⑵

 

朝日新聞(1975年6月7日)

 

1975(昭和50)年6月6日、神戸市垂水区の団地で、小学校教諭のI塚忠史さん(35歳)と長男の和史君(5歳)が亡くなっているのを、早起き会から戻った妻のアイ子さん(32歳)が発見しました。

 

和史君は生まれつきの小児マヒで、首にアザがあった事から父親が絞殺し自分はガス管をくわえて自殺した父子の無理心中と見られています。

 

和史君は、1973(昭和48)年9月から長田区にある神戸市立あじさい学園に通園し、機能回復訓練をしていました。

土日以外の毎日、長女を保育所に預けて母親が和史君を園に連れていき、午前10時半から午後2時半まで訓練をしていたそうです。

 

その甲斐あって、入園時には重度だった和史君の障害も、その時には中度まで回復し、近所の子どもと砂場で一緒に遊べるまでになっていました。

 

6月6日は和史君の5歳の誕生日で、家族でお祝いをする予定でした。

 

母親のアイ子さんは、「これまで一生懸命、和史の治療のためにがんばってきたんです。近く歩けるようになると学園の先生にいわれ、喜んでいました。突然こんなことになるなんて、魔がさしたとしかいいようがありません。」と話していたそうです。

 

近所の人の話では、夫婦とも子どもの教育に熱心で、父親は二人の子どもを三輪車に乗せて毎夕のように散歩していました。

 

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父親によるこの無理心中事件も、妻が「魔がさしたとしかいいようがありません」と言うように、父親が一人で思い悩んでしまったように思われます。

 

同じコップ半分の水でも、「まだ半分もある」と感じるか「もう半分しかない」と感じるかでまったく違うように、平日の毎日子どもの機能回復訓練に付き添っていた母親は、小児マヒによる障害が「近く歩けるようになる」と言われるまでに改善してきた面を見ていたのに対し、父親はそれでも残る障害にとらわれて将来を絶望したのではないでしょうか。

 

この場合も、夫婦の意思疎通がもう少しあり父親の不安に対するケアがなされていたら、事態はここまで深刻化しなかったのではないかと残念でなりません。

 

⑥子どもの将来に絶望して⑶

 

朝日新聞(1975年6月7日)

 

大阪府堺市のM靖弘さん(36歳)が、1975(昭和50)年6月4日の午後6時ごろ福岡県八女市にある妻・里美さん(23歳)の実家で、5月20日に生まれたばかりの次男・一隆君を布団にうつ伏せにして窒息死させたとして、6月6日に逮捕されました。

 

父親の自供によると、5月26日に産院を退院するとき、一隆君は泣き声が少なく筋肉の弾力がないことから、ダウン症候群の疑いがあると医師から言われたそうで、それを苦にしての犯行と見られます。

 

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障害児者の殺害や心中は母親によるケースが最も多くあります。しかし、特に意識して選んだのではないのですが、これまで取り上げた④⑤そして⑥も父親によるものです。

 

生まれたばかりの子どもにダウン症候群(以下、ダウン症)の疑いがあると医師に言われたことを苦にしてとのことですが、短い記事で詳しいことは分かりません。

 

ダウン症は染色体異常が原因で診断可能ですので、「疑い」という曖昧な言い方を医師がしたのは今日からするととても不十分な対応と言わざるを得ません。

もしも外形的に疑いがあるのなら、検査をして確定診断を下した上で、ダウン症についての情報と発育の見通し、そしてどういう子育て支援があるかやダウン症の子どもを持った家族の例など、丁寧に説明することが今では当然のこととして求められるでしょう。

 

日本ではダウン症に対する否定的な見方がまだ根強く、出生前検査(胎児の主に染色体異常の有無を調べる検査)でダウン症の疑いがあるとされると大多数の親が妊娠中絶を選んでいます。

 

そこには障害があることをマイマスとしか受けとめられなくさせている競争社会の「空気」に加えて、ダウン症について一般によく知られていないことがあるでしょう。

 

4月2日の国連が定めた世界自閉症啓発デーに行われたライトアップイベントを小川はブログで紹介しましたが、ダウン症についても全米ダウン症協会が1995年10月のダウン症啓発月間に合わせて始めた「バディウォーク」(「ダウン症の人と一緒に歩こう」という世界的なチャリティーイベント、buddyとは仲間の意味)が、東京・大阪はじめ日本各地でも開催されるようになっています。

 

また、ちょうどこのブログを書いている4月26日、アメリカの玩具メーカーのマテル社が、子どもたちに美しさの多様性を伝え、障害への否定的な見方を取り除こうとダウン症協会とのコラボでダウン症のバービー人形を発売したというニュースが流れました。

 

ダウン症のバービー人形を持つ

モデルのエリー・ゴールドスタインさん

 

この事件から半世紀近くがたった今、時代はようやく大きく変わろうとしています。

 

これら以外にもこの時代は、新聞で同様の事件が次のように報じられています。

 

●脳性マヒの息子(12歳)を絞殺し、遺書を残して姿を消した母親(1978.12.9.横浜)

 

朝日新聞(1978年2月10日)

 

●前夫の借金にも苦しみ、ろう学校に通う娘(6歳)と無理心中した母親(1981.5.12.東京)

 

朝日新聞(1981年5月12日夕刊)

 

●次男(4歳)の発音障害を苦にして無理心中した母親(1978.2.19.山梨)

 

朝日新聞(1978年2月20日)

 

 

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小川里菜の目

 

福祉の貧困が言われてきた日本も、最初に書きましたように、近年では多くの制度が設けられまた施策が実施されて、障害児/者やその家族の置かれた状況も大きく改善されてきました。

そこには、「完全参加と平等」を掲げた1981(昭和56)年の国際障害者年を経て、2006(平成18)年に国連総会で採択され2008(平成20)年に発効した「障害者の権利に関する条約」(障害者権利条約)が大きな影響を与えています。

  


 

日本でも1970(昭和45)年には障害者基本法が作られ施行されていましたが、障害者権利条約の趣旨・内容に沿って2011(平成23)年に改正され、また2013(平成25)年には障害者差別解消法(障害を理由とする差別の解消に関する法律)が公布されるなどして、2014年にようやく障害者権利条約が批准されました。

 

【長く続いた就学猶予・免除の時代】 

障害児を育てる親にとって最初の大きな節目となるのは、子どもが就学年齢になる時です。


山本おさむ『どんぐりの家』より


就学は、子どもにとっては障害を持ちながらも持てる可能性を最大限開花させるために必要な学習の機会を得ることであり、家庭の中から学校へと生きる場を広げ、家族以外の人たちとの関わりを体験する社会生活への第一歩でもあります。

また、親にとっても子育てへの社会的支援を就学の形で得ることになります。

 

ところが国は、重い障害がある子どもはそれを理由に「就学猶予」または「就学免除」として障害児への教育責任、親への障害児子育て支援から逃げてきたのです。

 

 


 

上に描かれているような悲しみを、どれだけの親子が味わなければならなかったでしょうか。

その涙の上に、ようやく1979(昭和54)年に養護学校が義務化され、重度・重複障害児も学校に入れるようになりました。

養護学校は2007(平成19)年に、視覚障害者の盲学校、聴覚障害者の聾(ろう)学校と同一の学校種として「特別支援学校」になっています。

また、養護学校ではなく普通学校の特別支援学級に通いたいと希望する場合は、その選択も尊重されるようになっています

 

【今もある問題】

「戦後における「親による障害児殺し」事件の検討」(『社会福祉学』第48巻第1号、2007)という論文で夏堀 摂氏は、「地域で自立した生活」を送ることを目指す「脱施設化」「地域福祉」といった理念を評価しながらも、2005年の知的障害者のグループホーム設置件数4688箇所に対して18歳以上の知的障害者数が2001年で34万2300人もいることから、受け皿がない状態での障害者の「地域生活」は親など「家族」によって支えられるしかなく、結局のところ施設に充てられてきた福祉予算を削減しながら障害児者を施設から「放り出す」ことにしかならないのではないかという懸念を示しています。

 

また夏堀氏は、「親による障害児者殺し」が1970年代に突出して多く(100件)、1980年代にはいったん半減している(51件)のは事実であるが、その後は漸増して2000年代には90件を超えるのではないかと指摘しています。

 

被害者の年齢層で見ると、1970年代は11歳までの子ども(未成年)が多かったのですが1980年代以降は急減し、1990年代以降は代わって成年の障害者が被害者となるケースが6割を超えているとのことです。

そこには、このブログで取り上げた事件でもすでに見られている障害児の親の高齢化という問題があります。

つまり、親が高齢になってもなお成人した子どもの世話・責任を負わされ続けているという現実です。

背景には、義務化された養護学校(特別支援学校)で高等科まで卒業したものの6割以上は仕事に就けず、卒業者の3割以上が無業のまま在宅生活を余儀なくされている実態(1991年の文部省統計)があります。

 

夏堀氏のもう一つの重要な指摘は、同じ障害者でも知的障害者が被害に遭う事件の増加が顕著だということです。

そこには、18歳以上の身体障害者の6割が配偶者と同居しているのに対して、知的障害者の配偶者との同居はわずか2.4%で、7割以上が親と同居している(2001)実態があります。

 

また、近年では「障害当事者の声」を尊重することが重視され、そのこと自体は正しいと思うのですが、自分で考え意思を表明することが難しい知的障害者の「声なき声」は「当事者主義」の論理の隙間からも脱落させられてしまうことになりかねないのです。

 

そうした現状を踏まえて夏堀氏は、「障害児者の生活基盤を家庭に置くことを「常識」とし、「自然」な形で親をケア要員として動員していく過程は、障害児者に対する福祉施策から公的責任を撤退させ、子の障害に関わる負担のすべてを親に負わせるという状況を作り上げる過程」であって、「親が主たるケアの負担者になることが当然視され」ることは、「どの家庭にもアンペイド・ワーク〔無償での仕事〕をにないうるメンバーがいること、どの家庭にも十分な介護力があることを所与の前提とし、制度設計が行われている」と指摘しています。

 

夏堀氏は最後に、「「子殺し事件」は、こうした制度設計の矛盾がもたらした悲劇だといえるのではないだろうか」と述べていますが、小川もその通りだと思わざるをえません。

 

【障害者は殺されても仕方ないのか】

脳性マヒの当事者によって1957(昭和32)年に結成された「青い芝の会」という有名な運動団体があります。

非常に「過激」な考え方や直接行動には批判もありますが、1970(昭和45)年に横浜で起きた、介護に疲れた末に母親が脳性マヒの娘を殺害した事件で、母親に同情して刑の軽減を求める運動が起きたことに同会の神奈川県連合会は「殺される側」から、「障害者は殺されても仕方ないのか」と強い批判の声を上げました。



というのも、神奈川県の心身障害児父母の会連盟がこの事件を受けて、福祉が行き届かない社会の現状では「障害児を殺すことはやむをえない」と訴えたからです。

 

正直言うと小川も、それまでは障害児者をケアする親の大変さに目がいくあまり、障害児者本人の立場から考えるという視点が弱かったと青い芝の会の批判を知って気づき反省することができました。



もちろん、親も当事者であることは間違いないので、親の立場か子どもの立場かと対立させるのではなく、両者を対立せざるをえないところに追い込んでいる社会の構造に問題の根を見て解決をはからなければならないと小川は思います。

 

今回の問題はブログで取り上げるにはあまりにも大きく複雑で、中途半端な記述で誤りや誤解を生むことがないか心配ですが、どんな障害があってもその人なりの幸福追求が最大限保障される社会に近づけたいという思いから、問題提起の一つになればとあえて取り上げました。

 


こちらのマンガを使わせて頂きました。

 

 


こちらの本は「親なきあと」について書かれております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読んでくださり、ありがとうございます🥹💕