金属バット

 両親殺害事件 

1980(昭和55)年

 

 
【事件発生と犯行の発覚】
1980(昭和55)年10月29日の朝9時過ぎ、パジャマ姿の一柳展也(いちりゅう・のぶや、当時20歳)が「親父とおふくろが大変なんです……」と隣家に駆け込んで来ました。
 
一柳展也
 
その家の主婦が一柳の家に一緒に行くと、一階の6畳間で展也の父の幹夫さん(同46歳)が、奥の8畳間で母の千恵子さん(同46歳)が、いずれも布団の中で血まみれになっていたので、あわてて自宅に戻り110番通報をしました。


事件が起きた一柳宅
神奈川県川崎市高津区(現・宮前区)

 

駆けつけた警察官は、二人が激しく頭部を殴打され、血しぶきなどが天井にまで飛んでいる凄惨な現場の様子に息を呑みました。

 

二人は即死状態でしたが、部屋のタンスなどに物色されたような跡があったので、怨恨と強盗の両面から捜査が開始されました。

しかし、強盗にしてはあまり盗られたものがないことや、二人をあのように惨殺しなければならない理由がなく、外部から侵入した形跡もないことから、怨恨の線から交流のあった人物への事情聴取を始めました。

 

展也も発見の経緯について事情を聴かれ、予備校の講習に行くために朝の7時に起こしてくれるよう母親にメモを置いていたのに起こされず、目が覚めたら9時になっていたので文句を言おうと一階に降りて殺害現場を発見し、隣家に駆け込んだと供述しました。


その日展也は、都内の伯母(母の姉)の家に泊まりました。

家族の犯行の可能性については、同居している展也の兄(長男)のアリバイが成立したため、警察は第一発見者でもある展也からさらに事情を聴きたいと伯母宅に電話で伝え、捜査員を派遣しました。

 

警察からの電話を受けた叔母(母の妹)が心配になり、意を決して展也に「ねえ、あなたがやったんじゃないわよね」と聞きました。

すると展也は、「もう、わかってるんでしょう……」、「葬式やなんか、みんな終わったら自首するつもりだった」と弱々しい声で両親の殺害を認めたそうです。

 

朝日新聞(1981年3月7日)

 

【事件に至る経緯】

一柳展也の家は、父の幹夫さんと母の千恵子さん、そして3歳上の兄の栄作さんと展也の4人家族でした。

 

一柳夫婦の故郷は、山口県南東部の周防大島(正式名は屋代島)です。

瀬戸内海で3番目に大きく、1976年に大島大橋で本土の柳井市とつながり、今では観光客も多く訪れるみかんが特産の島ですが、昔はこれといった産業に乏しく、明治時代には4千人近くもの島民が遠くハワイに移民しました。

 

 

その後も、若者は島を出て都会に働きにあるいは勉学に行くことが多く、旧家の造り酒屋に生まれた幹夫さんの父(展也の祖父)も上京して旧制の東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業し、三菱銀行の支店長にまでなって4男4女をもうけています。

 

祖父は、息子たちにも自分と同じ立身出世の道を歩ませようとしたのでしょう。それに応えて長男は東京教育大学(今の筑波大学)、次男・三男は東京大学、四男は慶應大学を卒業しています。

幹夫さんは東大経済学部を卒業して旭硝子(現在のAGC)に就職します。

学生時代はヨット部の主将をつとめたスポーツマンで、厳格な性格だったそうです。

 

母の千恵子さんも、周防大島の造り酒屋だった旧家の5人姉妹の次女でした。

幹夫さんと同い年の彼女は、上京して昭和女子短大を卒業しますが、一柳家を継ぐ必要があったため、同郷の幹夫さんが婿養子になる形で彼の卒業・就職と同時に結婚します。

 

 

父の幹夫さんと母の千恵子さん

(週刊女性、1981年12月23日・82年1月1日合併号)

 

一柳夫妻には、長男の栄作さんと、1960(昭和35)年8月10日に次男の展也が生まれます。

栄作さんは、早稲田の附属高校(早稲田大学高等学院)を出て同大学理工学部に進み、卒業後は日立製作所の研究所に勤めました。

 

 

東京都大田区の社宅で生まれた展也は、父親の昇進にともなってより広い社宅に移り、1973年に港区立青山中学校に入学します。青山中学は、多くの東大合格者を出してきた都立日比谷高校への登竜門とみなされていたところです。

 

展也は兄と同じ道を歩みたいと望み、早稲田大学高等学院を狙いますが学力が及ばず、受験科目の英・数・国を附属高校の3人の教師のもとに通う形で家庭教師をしてもらいます。しかしその甲斐もなく失敗。進学校としてはワンランク落ちると見なされていた私立海城高等学校に入学します。展也にとっては最初のつまづきでした。

 

 

 

そのことで親から叱責されることはなかったようですが、展也の中でやる気が失せたのか、高校1年のクラス担任に「東大を狙います」と口では言いながら、1学期の中間試験では、2科目で進級基準に満たないいわゆる「赤点」(同校の場合は30点未満)を取り、クラスのビリから2番目という成績でした。

この成績に驚いた両親に叱られた展也は、1週間後に母親の財布から数万円を抜いて家出をします。1976(昭和51)年6月のことです。

 

家出した展也は、周防大島に戻っていた祖父が上京する時のために借りていたアパートに入り込んでいました。そのために事前に鍵を複製するなど周到に準備をしていましたが、家出してどうするという目的も計画もなく、1日だけ大阪に行ってバーテンダーの求人の張り紙を見るなどしたようですが行動を起こすでもなくアパートに戻り、心配して上京してきた祖父に見つかって、1週間の家出騒動は一時の現実逃避で終わりました。

 

子どものころは色白でぽっちゃりとしてかわいらしく、周りを笑わせる明るい性格の展也だったそうですが、高校に入ってから、特に家出の後は明るさが消え表情も乏しくなり、「あの子、無気力、無感動、無関心の三無主義、典型的な高校生になってしまって……」と母親が姉妹にこぼすまでになっていきました。

 

なんとか進級はできたものの展也の成績は振るわぬままで、現役の大学受験では、本命だった早稲田大学の法・商両学部だけでなく、滑り止めだった上智・中央・明治学院・成城の各大学にもことごとく不合格となって浪人することになりました。

 

父親から「たるんでいる」と小言を言われたものの、当時は一浪して志望する難関校に入るのは珍しいことではなく、展也も「半ば当然のように」(地裁判決文)浪人して予備校に通いますが、受験勉強に熱が入るでもなく、迎えた再度の大学受験では、早稲田をはじめ立教・明治・法政・日大をことごとく不合格となります。

 

朝日新聞(1984年4月26日)

 

この時は、さすがに父親も展也を次のように叱責しました。

 

「一体、お前は何を目標にして勉強しているんだ。それをはっきり考えてやるのでなければ勉強に集中できるわけがない。もういい。大学を出るだけが人生じゃない。こんな調子ではいくらやっても同じだから、大学へ行くのは諦めて就職しろ。その方がずっと身のためだ。」

 

しかし、「仰げば尊し」の歌詞にある「身を立て 名を上げ やよ励めよ」と立身出世が奨励された祖父の時代はもちろん、高度経済成長を担って豊かな生活を実現しようと励んだ父親の時代も過去のものになっていました。

 

子どものころから当たり前のように享受している豊かな生活を送るためには大学ぐらいは出ておかなければ、同じ出るなら付加価値の大きな「一流」大学の方が良いという程度の意識はあっても、大学で何のために何を学ぶかを考えるよりも、自分の偏差値で入れるどの大学のどの学部が最も世間的な評価が高いかが問題にされた時代です。

 

父親の言ったことが、「自分がどう生きるか、人生の目標をしっかりと定め、そのためにどの大学/学部で何を学ぶのかをはっきりさせて勉強しろ」という意味だとすれば、それは確かに正論ではあっても、展也だけでなくほとんどの受験生には理解できなかったことでしょう。学校ではずっと、受験に役立つかどうかが何を勉強するか/しないかの基準だったのですから。

 

また、東大に現役入学で大企業に就職し、挫折知らずの人生を送ってきた父親が、「大学出るだけが人生じゃない」とこれも正論を吐いても何の真実味もなく、お前など敗北者になるしかないと言われたと展也には受け止められたことでしょう。

大学に行かずに就職するなど考えたこともなかった展也はうろたえて、父親にもう一度と頼み込みます。

 

この時は、母親と兄が懸命にとりなしてくれ、展也は2浪を父親から認めてもらい、早稲田大学の受験に特化した予備校の試験に何とか通って3度目の受験を目指すことになりました。

 

【振りおろされた金属バット】

母と兄の口添えもあってようやく父に許された2浪ですが、展也のやる気はすぐに失せて、予備校も休みがちになり、夏ごろになると家は出るものの予備校に行かずに映画を見たりパチンコをしたりして暇をつぶし、ウィスキーを買って帰って自室で飲むような生活を送るようになります。

 

お金は母や兄から小遣い銭としていくらかもらっていましたが、それで足らない時は、帰宅した父親がいつも定期入れなどをテレビの上に置くのを利用して、そこからこっそり銀行のキャッシュカードを抜いて現金を引き出し、カードを戻しておくということも時にやるようになります。

 

1980(昭和55)年11月25日の夜、展也はいつものように父親のキャッシュカードを抜いて翌朝に現金を引き出し、夜にカードを戻しておこうとしたのですが、父親はその夜は定期入れを出さなかったので、彼は仕方なくカードを自室に隠しました。

 

カードを戻しそびれたまま迎えた11月28日の夜、得意先との接待ゴルフの帰りに駅前の行きつけの店で酒を飲んで帰った父親が、大きな声で展也を呼びつけました。

キャッシュカードがないことに気づいたのです。

 

母親も同席する場で父は展也に、「定期入れからキャッシュカードがなくなっているのは、お前がやったんだな」と問いただし、さらに「財布からちょくちょくカネがなくなっているのもお前だな」、「俺は泥棒なんか育てた覚えはない。大学なんかやめちまえ!」と責めたのです。

 

現金には身に覚えのなかった展也は、キャッシュカードを取ったことは認め、カードを返して謝りながらも、現金については知らないと抗弁したのです。

展也のその態度に、いつもなら父親のなだめ役になってくれる母親までが「あんたどうしようもないわね。あんたには呆れたわ!」と突き放すように言ったそうです。

この夜は、兄も友人宅に泊まって家にいませんでした。

 

「知らないものは知らない、何を言ってるんだ!」と言って展也は自室に戻り、買っておいたウィスキーをポケットボトルに移し、やけ酒のようにラッパのみしていました。

そこに突然父親が入ってきて、「酒なんか飲んで何事だ!」と叫ぶなり展也の横腹を足蹴にし、彼は椅子ごと横倒しになりました。

父親が展也にこのような暴力を振るったのは、この時が初めてだったそうです。

 

座り直してふてくされたような態度をとる展也に父親は、「ふざけるな、なんだその態度は。お前は普段からなっとらんのだ。明日出ていけ!」と怒鳴って部屋を出て行ったのです。

 

もう11月も末なのに3度目の受験も絶望的な状況にあり、いつもならかばってくれる母親にまで見放されたと思った展也には、父親の「明日出ていけ!」という言葉が一時の怒りから出たその場だけのものとは思えなかったのでしょう。

しかし、家を出て生きていける力など展也にはありません。

 

2時間余りもウィスキーを飲み続けるほどに、あらぬ疑いをかけた父や一緒になって自分を叱責した母への怒りを増幅させながら、どうしたらよいのかわからず絶望的な心境になった展也の目に入ったのは、高校時代の唯一楽しい思い出とも言える友人たちとの草野球で使っていた部屋の隅の金属バットでした。

 

金属バット(例)

 

すでに日が変わって11月29日の深夜、午前2時半近くになっていました。

 

金属バットを手にした展也は階下におり、ゴム手袋をはめて父親の寝ている6畳間に入り、頭部をバットで何度も殴打しました。

それから、居間を挟んだ奥の8畳間で寝ている母親の頭部にも金属バットを振り下ろしました。いずれも即死状態だったそうです。

 

そのあと展也は、バットについた血を風呂場で洗い流し、ふと思い立って物盗りの犯行のように見せるためタンスの引き出しなどを荒らして母親の宝飾品や現金などを取り、血しぶきのついた服を脱いでパジャマに着替え、それらを自室に隠して証拠隠滅と偽装工作をしました。凶器の金属バットは自室の天袋に隠しました。

 

そうして朝になるのを待ち、第一発見者を装った展也は、パジャマ姿で隣家に駆け込んだのです。

 

【裁判と判決】

殺人罪で逮捕・起訴された一柳展也に対して、犯行の動機を解明するとともに、精神疾患や心神耗弱の可能性があるか刑事責任能力の有無を調べるために精神科医らによる展也の精神鑑定が1年以上かけて行われ、鑑定書が裁判所に提出されました。

 

逮捕後の一柳展也

 

それらも踏まえて1984(昭和59)年4月25日、横浜地裁川崎支部は、懲役18年の求刑のところ、懲役13年の判決を展也に言い渡しました。

求刑より5年も短い「温情判決」ですが、裁判官が、被告には前科や非行歴もなく、心神耗弱ではないものの是非善悪を弁識し行動する能力が相当減弱した中での偶発的な犯行であり、真摯な反省と後悔の念が見られ、親族の支援もあって更生の可能性があると判断したものです。

 

朝日新聞(1984年4月26日)

 

展也の弁護には父親の学生時代の親友だった弁護士があたりましたが、この判決を受け入れて控訴せず、そのまま刑が確定しました。

 

展也は千葉刑務所で服役し、1994(平成6)年に刑期満了で出所しました。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

前回のブログで、家庭内暴力を振るう開成高校2年の息子を父親が思い余って殺害した1977年の事件を取り上げました。

 

 


被害者の佐藤健一君(1961年2月生)とこの事件の一柳展也(1960年8月生)は、生まれ年は1年違いますが同学年・同世代の若者です。

 

一方、健一君の父親(1931年生)は大衆居酒屋の亭主で下積みからの叩き上げ、1934(昭和9)年生まれの展也の父親は、東大卒の大手企業社員で世間で言うエリートでした。

ただ「エリート」と言っても貴族のように生まれながらの特権があったわけではなく、戦後復興と高度経済成長を背景に、自らの努力で高い学歴と社会的地位そして豊かな生活を手に入れました。

道筋は異なりますが、健一君の父親も自らの頑張りと才覚で自分の店と経済的にゆとりある生活を手に入れます。形は違っても、二人の親は体験を共有する同世代人なのです。

 

いろいろな面でひもじさ(空腹)を知っている親世代が夢に見てやっと手に入れた、ものがあふれる豊かな消費生活を、子ども世代である健一君や展也は、自分が努力することもなく生まれながらに享受して育ちます。

 

その意味では恵まれた世代ですが、すでに出来上がった社会の仕組みの中で、親世代が敷いたレールに乗って進むことを求められるようになります。

それがうまくいっている間は良いのですが、何かでつまづいて傷つくと立ち直る力が乏しく、また自分で別のレールを敷き直すだけの創造性・能動性もありません。

 

既成秩序への適応努力ばかりを子どもたちに求めながら、無気力・無感動・無関心の三無主義だと親世代が批判しても、そのように育てたのは誰なのかと子どもからすれば言いたくなるでしょう。

 

学歴や社会的地位がない親を攻撃対象にできた健一君は、家の中で暴れることで受験競争が体現する外界との緊張と精神的バランスを取ろうとしたのでしょうが、非の打ち所がない学歴・職歴の父親を持ち、小さいころから「良い子」で反抗期もなかった展也は、緊張を内に溜めるしかなかったのでしょう。

 

海城学園高校のアルバムに残る

笑顔の一柳展也

 

その結果、健一君は家庭内の暴力が外部にまで及ぶことを恐れた父親に殺害され、展也は内に押さえ込んでいた暴力性を爆発させて両親を殺害してしまいました。

 

爆発のきっかけは、父親のそれまでにない厳しい叱責であり、母親の突き放したような態度でした。

 

「挫折知らずの父親」と先に書きましたが、実はこの時、父親も挫折のストレスを溜めていました。

長年彼が担当し部長補佐にまでなっていた旭硝子の貿易部が廃止され、東京支店の建材担当支店長に配置換えされたのです。

形の上では昇進でしたが、仕事内容は企画・戦略の立案から得意先を回ったり接待したりする慣れない営業職になり、部長(重役)への出世コースからも外れてしまいました。

 

ストレスを抱えた父親は、家に帰る前に駅前の割烹に寄って酒を飲むのが日常になり、妻に対してもわざと無視するなど冷淡な態度をとるようになります。

ギクシャクする夫婦仲を案じた展也は、母親に同情して父親への憎しみを抱き、カネを盗んだだろうと身に覚えのない疑いを父親からかけられた時に激しく反発した伏線には、そのこともあったようです。

 

ただ、事件のあったころにはようやく夫婦仲が元に戻ってきていたそうです。しかも父親が展也を叱責したその日(11月28日)は、一柳夫妻の結婚記念日でした。

これまでなら展也をかばって父親をなだめてきた母親ですが、この日だけは夫に同調するしかなかったのでしょう。

不幸な偶然が重なったとも言えますが、展也の中に溜め込まれてきた負のエネルギーがすでに臨界点に達していたのです。

 

この事件も単純な善悪では割り切れない複雑なものです。

親による「教育虐待」という見方もありますが、展也の両親が過剰な受験プレッシャーで彼を追い詰めたようには思えません。

 

しかし、「大学を出るだけが人生ではない」という父親の言葉を文字どおりに受け止めるほど展也も世間知らずではありませんでした。

「モノの豊かさ」をみんなが一緒になって求めた高度経済成長期が終わり、別の価値観や生き方への転換が言われ始めてはいましたが、先の見えない1970年代後半の時代状況の中で、限られた富の分配をめぐる競争だけが一層激しくなっていたからです。

 

そうした時代に生きることを余儀なくされて大きくつまづいた若者は、健一君や展也だけではなかったでしょう。この事件は、氷山の一角だったのではないでしょうか。

 

朝日新聞(1981年3月4日)

 

展也が出所後に、インドに渡ってボランティア活動をしたという話が伝わっています。その真偽は不明ですが、彼が親殺しという大き過ぎる代償を払いながらも、ようやく意味ある自分の生き方を見出せたのだとしたら、亡き両親にとってせめてもの慰めになったのではないかと思う小川です。

 

朝日新聞(1981年3月6日夕刊)

 

参照資料

・佐瀬 稔『金属バット殺人事件』読売新聞社、1997年

 

  

 

・横浜地裁川崎支部 判決文

 

 

・「朝日新聞」関連紙面

 

 
福祉の仕事をしている関係で行政のことにも詳しくなりたいと思い、今月から行政書士の資格取得を目指して受験勉強をはじめましたニコニコ
1時間このブログを書いたら、30分行政書士の勉強をして、またブログを書いて…と今はこんな感じですスター
 

 
読んでくださった方💕ありがとうございます🥹

週刊 昭和タイムズ12号 2008年1月1日号

 


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