当時の雑誌・新聞記事から 

(追補)立教大学助教授

教え子殺害・一家心中事件

1973(昭和48)年

 

朝日新聞(1973年9月6日夕刊)

 

立教大学助教授の大場啓仁(ひろよし、当時38歳)が、教え子で愛人だった関京子さん(同24歳)を殺害し、その後、妻の順子さん(同33歳)と二人の幼い娘さん(同6歳、4歳)と共に南伊豆の断崖から飛び降りて一家心中したこの事件については、2022年10月にこのブログで取り上げました。

 

 今回は、その後に小川が入手した新聞・雑誌記事を元に、気がついたことなどをいくつか補っておこうと思います。

 

この事件についてお知りでない方は、先のブログをまずお読みくださるようお願いしますキラキラ

事件の概要もこちらに書いています

 

 

 

祥伝社が1971年〜1996年に発行していた女性誌『微笑(びしょう)』の1974(昭和49)年3月20日号(上が表紙)に、「完全再現! 関京子さん扼殺の一夜 いまわかった大場助教授7月20日の全行動」という特集記事が掲載されています↓

 

 

教え子の関京子さんの葬儀

この特集が掲載された『微笑』は、2月28日に京子さんの遺体が発見され、3月7日に長野県甲府市の実家で彼女の葬儀が行われた直後に発行されたもので、葬儀での関京子さんの遺影や両親の写真が掲載され、あらためて京子さんの無念とご遺族の悲しみが伝わってきます。

 

関京子さん

 

母・淑子さん/父・勇さん

 

大場の「完全犯罪」を覆した捜査陣の執念

関京子さんが失踪・殺害された1973(昭和48)年7月20日から7ヶ月も経ってようやく発見された彼女の遺体——大場は、京子さんの殺害を周囲にほのめかしながらも、遺体が発見されないことに強い自信を持っていたようで、「完全犯罪」をもくろんでいたとも言われますうーん

 

同誌特集記事では、イラストと写真を交えながら小説風に大場の犯行の様子を生々しく描いています。

 

 

遺体が発見されない限り殺人事件として捜査されることはないという大場のもくろみを覆したのは、容疑者が死んだ後も被害者の遺体の発見に執念を燃やした捜査員たちでした。

 

朝日新聞(1973年11月5日)

 

上の記事では、心中事件後に京子さんの遺体の捜索を始めてから2ヶ月近くが経ち、これが「最後の望みをかけて」の捜索だと書かれていますが、この時も遺体は発見できませんでした。

そうして年も越して、4度目の捜索が行われましたが難航し、もう打ち切りやむなしの声が出た1974年2月28日、ついに京子さんのミイラ化した遺体が大場の恩師である細入藤太郎・立教大教授の別荘(殺害現場)の裏山から発見されたのですえーん

 

朝日新聞(1974年3月1日)

 

京子さんの遺体発見現場で合掌する

父親の勇さんと弟さん

 

関京子さんの強い意志

 

 

『微笑』の記事に戻りますが、そこには立教大学での京子さんの同期生で、入学してまもなく交際を始め、4年間恋人としてつき合っていたというAさん(記事では仮名)の話が出ています。

 

二人はお互いに実家を訪ね合うほどの間柄だったのですが、Aさんの方はまだ若いということで結婚までは考えておらず、そこに京子さんとの意識のズレができたようです。

 

京子さんが4年生になって大場に研究指導を受けてから、Aさんに大場のことを「ステキな人だ」と何度も口にするようになり、大場が彼女に執拗に交際をせまっていることも知っていたそうです。

 

二人は4年生の11月ごろから、Aさんは就職に、京子さんは大学院にと進む先が分かれたこともあってか、次第に会う回数が減って疎遠になっていったといいます。その間に京子さんの気持ちは大場へと急速に傾斜していったのでしょうか。

 

ただAさんの証言は、「不倫」したという世間の冷たい視線から京子さんをかばいたいという意図があってなのか、とても微妙ですアセアセ

 

「彼女の口から大場を好きになったということは聞きませんでした。ぼくは4年間、関さんとつきあっていて、性格はよく知っています。彼女のことを〝妻子ある男に惚れるなんて〟と世間ではとやかくいっているようですが、そんなことはないんです。彼女は純粋すぎて、大場にだまされたり、妊娠したりしても逃げだせなかったのです。/彼女が自らすすんで、大場との関係を続けていたとは、どうしても思えません……。」

 

「純粋」というとほめ言葉のようですが、これではまるで京子さんは心ならずも大場の言いなりになって従わされた、自分の意志では行動できない女性だったかのようです。

 

小川は先のブログで、大場はいつものようにただの遊びという軽い気持ちで関京子さんに手を出したのだけれど、彼女は非常に意志の強い女性で、そこに大場の誤算があったと書きました。

一方の京子さんは、人生経験・男性経験の未熟さから人を見る目が甘く、大場を過大に評価してしまったところに誤算がありました。

殺害・一家心中の責任はもちろん大場啓仁にありますが、双方の誤算が掛け合わされた結果が事件の生まれた背景にあると小川は見ていますビックリマーク

 

京子さんの誤算に関係しますが、雑誌の小説風の記事に次のような「彼女の胸の内」が綴られています。

 

「彼女は、大場との師弟関係を越えてしまった日のことを回想していた。めくるめくような愛を感じたころ、《先生を学者として大成させるには奥さまより私が彼のそばにいたほうがいいのだ》と自分でも信じていたし、それだけ彼を愛してもいた。」

 

裏づけのある話かどうかは分かりませんが、そこには京子さんの大場への気持ちはそうだったのかもしれないと思わせるものがあります。

というのは、京子さんが大場との結婚を望んだのには、「女の幸せは結婚」という時代の意識を前提にして、「夫の成功を支える妻」という男性主体の「内助の功」の考え方を京子さんが自分の強い意志として持っていたからだと思われるからですうーん

 

しかし大場の方はというと、「おれに惚れてしまった女はおれがどう始末してもいいんだ。それに、彼女も本望のはずだ。殺せる。死体をどう隠すかだけが問題じゃないか。」と考えていたと記事は描いています。

 

 

さすがにここまで露骨には……と思わないでもありませんが、大場の京子さん殺害の非情さと遺体隠しの執念を考えると、恐ろしさと怒りに心が震える小川ですアセアセ

 

妻の大場順子さんを一家心中へと追い詰めたもの

一家心中については、夫から京子さん殺害を打ち明けられた妻の順子さんの強い覚悟が主導したことは先のブログに書いたとおりです。

大場の友人たちからは、離婚することで順子さんと子どもたちだけは事件の騒動から身を隠せるようにと勧められましたが、彼女はそれに耳傾けることなく一家心中の途を選んだのです。

 

 

ブログで小川は、結婚や家族の理想像に固執してそれが崩れることを許容できない順子さんの優等生気質がそこに影響したのでは、との感想を述べました。

今回、雑誌の記事を読むと、彼女を一家心中へと追い詰めたもう一つの要因があることに気づきました。

 

順子さんの父の郡司七男さんは、事件のあと半年も経たない1973年12月27日に心労も影響して急逝したのですが、母・郡司澄江さんは取材に、七男さんがかねてから順子さんに次のように言いきかせていたと話しています。

 

 

「嫁に出した以上、順子はもう郡司の娘じゃない。夫の女性問題も、大場の妻として自分で解決しなければ……」

 

娘の順子さんが大場と大恋愛の末に結婚することに対して、父親が強く反対したことは先のブログに書いたとおりです。

その反対の理由として、実業の世界で生きてきた郡司七男さんにとって、相手が文学者という点に不満があったのではないかと思いますが、そもそも恋愛結婚という彼にとっては「浮(うわ)ついた」ものに対しても、すんなりとは受け入れられない思いがあったのではないでしょうか。

 

娘のことを気遣いながらも父親が、「嫁」としての「不退転の覚悟(困難にあっても決してくじけず退かない決意)」を繰り返し言い聞かせた心の底には、そうした複雑な気持ちがあったように思うのです。

 

他家に嫁いだ女性(娘)は、もう実家の両親をあてにすることなく、夫にどんな問題が起こっても妻として自分で解決しなければならないというプレッシャー。

 

優等生気質の順子さんは、父の期待どおりの結婚ではないという申し訳なさもあって、父親の言いつけを文字どおりそのまま受けとめたに違いありません。

 

その結果が一家心中だったというのは単純すぎるかもしれませんが、しかしこうした考え方が順子さんの死への意志に与えた影響は決して小さくなかったと小川は思います。

 

つまり、女性にとって結婚とは、生家を離れて夫の家に入り、嫁として妻としての役割を果たすことであり、夫の不祥事は支えるべき妻にも責任がある——そのような結婚観・夫婦観が、夫の犯罪を一家心中で清算するという形で妻としての生き方を貫こうとした順子さんにあったのではないかと思うのですしょんぼり

 

しかしそのころ、時代も人びとの意識も大きく変わりつつありました

1972年から73年にかけて漫画雑誌に連載された上村(かみむら)一夫『同棲時代』が人気となって映画化もされ、それまでなら世間的には許されなかっただろう未婚の男女が一緒に暮らす「同棲」が流行語・社会現象にもなりました。

 

 

三畳一間のアパートで同棲する学生カップルの、甘くほろ苦くまたちょっと危うい日常を歌った南こうせつとかぐや姫の「神田川」が、若者の共感を呼んでヒットしたのも1973年のことです。

 

 

また1973年には結婚のきっかけについても、すでに恋愛結婚が63%と見合い結婚の37%を大きく上回っています(厚生省「新婚夫婦意識調査」)。

家と家という枠組みから個人と個人の関係へと結婚観も変わり、女が「他家(男の家)に嫁ぐ」「嫁にやる/もらう」のではなく、「二人で新しい家庭を築く」という意識が都市部や若い世代においては主流になろうとしていたのです。

 

そうした時代の流れの中で見ると順子さんの死への決意は、旧来の「他家に嫁いだ妻」の規範に殉じたものと言えるのではないでしょうか。

 

考えてみると、大場に殺害された関京子さんはもちろん第一の被害者ですが、大場と関係を持ったことは彼女自身も望んだものでした。

 

しかし、夫の行動に対して何ら責任がないにもかかわらず、「嫁」にも連帯責任があるかのように夫が犯した罪の結果を引き受けざるを得なかった順子さんは、この事件のもう一人の被害者だったのではないでしょうか。

 

もちろん最大の被害者は、何も知らぬまま南伊豆の断崖から海へと落とされて亡くなった充さんと晶さんという幼い二人の子どもたちだったことは言うまでもありません。

 

 

充さん/晶さん