新宿歌舞伎町 

 ラブホテル連続殺人 

 

1981(昭和56)年3月〜6月


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1981(昭和56)年の3月から6月にかけて、わずか3ヶ月の間に、東京新宿の歌舞伎町にあるラブホテルで殺人・同未遂事件が連続4件発生しました。

 

警察の捜査は難航し、結局、15年後の1996(平成8)年に相次いで公訴時効を迎えて、すべてが未解決事件、いわゆる「迷宮入り」となりました。

なお、これらの事件は連続して起きましたが、同一犯によるものかどうかも不明なままです。

 

【事件の概要】

まず、当時の新聞記事と共に4つの事件の概要を順に見ていきます。

 

第一の事件
 

朝日新聞(1981年3月20日夕刊)

 
1981年3月20日の午前1時20分ごろ、ホテル「ニューL(エル)スカイ」に料金を前払いしてチェックインした男女のうち、男だけが午前7時ごろに一人でホテルを出ました。
午前10時ごろになっても連れの女性の反応がないため、従業員が部屋に入ったところ、女性の絞殺遺体を発見しました。
 
朝日新聞(1981年3月21日)
 
残された名刺から、被害者の女性はキャバレー「日の丸」の従業員「吉田慶子(33歳)」とのことでしたが、その後の調べで彼女の本名は和田露子さんで、年齢も45歳であると判明しました。
 
和田露子さん
 
和田さんが勤めていた「日の丸」
(現在)
 
第二の事件
第一の事件から約ひと月後の4月25日、午後9時ごろにホテル「コカパレス」にチェックインした男女のうち、男だけが午後10時ごろに「女は後から来る」と言って出ようとしたため、不審に思った従業員が部屋に電話をしましたが応答がなく、「しばらく待ってください」と男に言って部屋を確認したところ、全裸で死んでいる女性を発見しました。
従業員は急いでフロントに戻りましたが、男はすでに逃げていました。
死因は、パンティーストッキングで首を絞められた絞殺でした。
 

朝日新聞(1981年4月26日)
 
この事件では、イヤリングとサンダル、タバコとライター以外、女性の持ち物は下着を含めた衣類もすべて犯人によって持ち去られていたため、身元判明の手がかりがほとんどなく、警察は似顔絵(絞殺遺体は大きく顔が腫れているため)を作成して情報提供を呼びかけましたが、推定20歳前後の被害女性がいったい誰なのか分からないままです。
 
被害女性の似顔絵
 

朝日新聞(1981年4月27日)
 
 
第三の事件
 

朝日新聞(1981年6月15日夕刊)
 
第二の事件からふた月も経たない6月14日、午後6時半ごろにホテル「東丘」にチェックインした男女のうち、男の方から午後7時40分ごろフロントに「これから帰る」と電話がありました。従業員二人が部屋に確認に向かったところ、廊下で男とすれ違い、不審に思って一人が急いで部屋を見ると、ベッドの女性の様子がおかしいため、「その男を帰さないで!」ともう一人に叫びました。しかし男は料金を払わずにホテルを出、従業員が後を追ったものの逃げられてしまいました。
 
毎日新聞(1981年6月15日夕刊)
 
女性はパンストが首に巻かれ仮死状態だったので、すぐに救急車で東京医科大学病院に運ばれましたが、亡くなりました。
 
被害女性の身元は、持ち物にあった市立図書館で借りた本が手がかりとなり、長田貴子さん(当時17歳)と判明しました。
 
長田さんの死因も絞殺で、遺体の手足にも紐状のもので縛られた皮下出血痕がありました。
 
第四の事件
 

朝日新聞(1981年6月27日)
 
さらに6月25日、第四の事件(殺人については未遂)が起こります。
歌舞伎町のゲームセンターで男に声をかけられたキャバレーホステスの女性(当時30歳)が、一緒にラブホテル(第三の事件が起きた「東丘」の1軒おいた隣)にチェックインしました。
午後11時ごろ、ベッドで女性がうとうとしていると、男がいきなりネクタイで首を絞めてきたため、目覚めた彼女が激しく抵抗したところ、男は女性の財布から5万円を奪って逃走しました。
彼女は男の後を追いましたが見失ったため、26日午前1時過ぎに歌舞伎町派出所に被害を届け出ました。
 
【成果なく終わった捜査】
これらの事件が同一犯によるものかどうかの確証はありませんが、絞殺の手口の類似性などからその可能性を視野に警察は捜査を進めました。
しかし、ラブホテルという密室での犯罪で、しかも当時は防犯カメラの設置もされていなかったため、犯人を特定する手がかりがほとんどなく、第二の事件では被害者の身元すら分からないままでした。
 
数少ない手がかりとしては、第一から第三の被害者が使っていた浴衣やシーツに付着した尿から、微量の覚醒剤成分(経口摂取したものと推定)が検出されたこと、また第三の事件では犯人のものと思われる血液型(A型)とコップの指紋が検出されましたが、精度の高いDNA型鑑定法が警察の捜査に導入されたのは2003(平成15)年8月からで、この事件でそうした手法が活用されることはありませんでした。
 

朝日新聞(1981年7月16日)
 
また、一年後の1982(昭和57)年4月には、女性に性的暴行を図ったとして逮捕された男性とこれらの事件との関連が疑われましたが(血液型も一致)、犯人とするには至りませんでした。
 

朝日新聞(1982年4月21日)
 
【女性被害者たち】

未解決に終わったこともあって、ネット上では、一連の事件が同一人物による犯行なのかを含め、多くの方が犯人像を推理しています。

しかしこのブログでは、犯人については他にお任せをし、被害にあった女性たちに焦点をあてたいと思います。

ただ、これについても得られる情報はごくわずかですし、未遂に終わった第四の事件は氏名をはじめとする被害者の個人情報が公開されていないため、第一から第三の事件の被害女性に話を限定いたします。

 

和田露子さん(第一の事件)

 

 

第一の事件の被害者である和田露子さん(当時45歳)は、1935(昭和10)年12月に神戸市長田区に生まれました。

中学卒業後に地元の会社に勤めましたが、22歳で家出同然に上京してクラブホステスになります。

 

1964(昭和39)年、彼女が29歳の時に、店の客で自動車販売会社のセールスマンの男性と知り合って同棲し、1967年には男の子が生まれます。

男性は既婚者でしたが協議離婚して二人は1968年に法的にも夫婦になり、露子さんは専業主婦になります。彼女にとっては人生で一番幸せな時期だったのではないでしょうか。

 

ところが、有能で高収入のセールスマンだった夫が、事情があって1973年に不動産会社に転職したころから、彼女の人生は暗転します。

転職で収入が減ったのに加えて、1975年ごろから夫が持病の喘息を悪化させたために、生活が苦しくなった露子さんは、ピンクサロンに働きに出るようになります。

 

さらに不幸なことに息子には先天性の心臓疾患がありました。

病気の夫と子どもを抱えた露子さんは、生活保護を受けながら風俗でのアルバイトで一家の生活を支えたのです。

しかし、そうした生活に疲れ果てたのでしょうか、一年後に露子さんは、夫と7歳の息子を残し家を出てしまいます。

 

その後、彼女は都内のキャバレーやピンクサロンを転々としますが、その間に夫は、失踪者の情報提供を呼びかけるテレビ番組に出演するなどして懸命に妻を探したようです。

 

しかし、行方不明の妻の手がかりが得られないまま喘息を悪化させた夫は、1978年に50歳で病死してしまいます。

息子さんの方は露子さんの神戸の実家に引き取られます。そのわずか一年後の1979年に、彼も心臓疾患のため12歳で亡くなりました。

 

1980(昭和55)年6月、ふらっと実家に帰省した露子さんは、その時初めて夫と息子の死を知ります。

二人を捨てて家を出た身として彼女が何を思ったのかわかりませんが、佐木隆三氏の描写によると、「夫と子どもの死を知った彼女は、身もだえして慟哭(どうこく)し、涙が枯れると姿を消した」そうです。

死後に自宅天井裏で発見された彼女のメモには、「弘53・9・8 衛54・5・2」と、夫と息子の名前と命日が書かれていました。

また露子さんが借りていた銀行の貸金庫には、一番幸せだったころの思い出として取っておいたのか、3歳の時の息子のカラー写真と、夫のネクタイピンが入っており、一千万円の定期預金証書もあったそうです。

 

露子さんは、キャバレー(実態はピンクサロン)での仕事の延長に外で売春もしていたようですが、夫と子どもの死を知ってから9ヶ月後、彼女は売春の現場だったであろうラブホテルで、無惨にも「客」に命を奪われることになったのです。

 

身元不明の女性(第二の事件)

 

朝日新聞(1981年5月18日)

 

年齢は20歳くらいで身長157cm、濃い化粧から水商売関係ではないかと推測される第二の事件の被害女性については、ついに身元が分からないまま迷宮入りしています。

 

遺体を司法解剖した結果分かったのは、①タバコを吸っているにもかかわらず肺がきれいで、空気のきれいな所から最近になって東京に出てきたと思われる、②虫歯が多い、③腋臭(ワキガ)の手術痕がある、ということでした。

警察としても、虫歯の治療や腋臭の手術痕を手がかりに病院関係をくまなく当たったようですが、該当する女性は見つかりませんでした。

 

これだけ情報が出ないことや、最近まで空気のきれいなところに住んでいたという解剖所見から、外国籍の女性ではないかとも思われ、捜査関係者の間でも日本人に似た人の多い台湾人女性の可能性が話題に上ったようですけれど、具体的な成果にまでたどり着くことはできませんでした。

 

彼女についても売春に従事していた可能性が考えられます。

 

長田貴子さん(第三の事件

 

 

第三の事件の被害者である長田貴子さん(当時17歳)は、1963(昭和38)年12月に埼玉県川口市に生まれました。両親と8歳下の弟の4人家族です。

 

貴子さんは、中学時代までは成績も良く学級委員も務め、演劇部に所属する読書好きの文学少女だったそうです。

しかし、3年生になり少女マンガに熱中するようになってから勉強に身が入らなくなり、高校も進学校ではない私立の女子高に入学します。

 

アルバイトで得たお金でスナックやディスコに出入りするようになってから、一歳上で高校を中退してガソリンスタンドで働いている男性と知り合い、一緒に遊び歩いて家にもあまり帰らなくなります。

結局彼女も、女子高を一年の3学期で中退してしまいます。

 

1980年ごろから彼女は、アルバイトをしながら、日曜に代々木公園に集まる「竹の子族」の仲間に入り、トルエンを吸って警察に2度補導されてもいます。

 
 

独特の衣装で踊る「竹の子族」

 

佐木隆三氏は、このころ貴子さんが「週末までにカネを使いはたし、月曜になるとふしぎにまとまった額を所持していた」と、休日に売春でお金を稼いでいたことを示唆しています。

 

ガソリンスタンド店員の男性とはその後、双方の親も認めて結婚を約束しており、彼女は事件のあった前日も男性の家に泊まっています。

芸能界で働きたかった彼女はその時、演劇関係に詳しい人と知り合ったのでタレントになれるかもしれないと話していたそうです。

 

事件の当日、二人は一緒に遊んでいましたが、夕方になって貴子さんは実家に帰ると言って埼玉県の蕨(わらび)駅で男性と別れます。

しかし彼女は実際には家に向かわず、そのまま新宿に行ったようです。

 

司法解剖で、胃のなかにコーヒーが残っていたことから、貴子さんは喫茶店にまず寄って誰かと会い、約1時間後にラブホテルに入ったと推測されます。

それが、「演劇関係に詳しい」と称して彼女に近づいた男なのか、それともアルバイトの「客」だったのかは分かりません。

 

いずれにしても、長田貴子さんの17年というあまりにも短い人生は、そこで幕を閉じられてしまったのです。

 

サムネイル

小川里菜の目

 

新宿歌舞伎町のホテル街の光景

(事件の現場ではありません)

 

今回は、東京新宿歌舞伎町のラブホテルを舞台に起きた連続殺人事件(未遂を含む)を取り上げましたキョロキョロ

 

いわゆるラブホテルは、恋人や夫婦などのカップルが性的関係を持つために利用する密会の場であると同時に、売買春が行われる場所ともなっているため、いかがわしいものとして見られることが多いと思います。

今回も、少なくとも最初の3つの事件は売春がからんでいると思われることから、人びとの記憶からも「よくあること」とか「歌舞伎町は怖い」という程度の話として流されてしまったようです。

 

捜査した警察もそうだったとは言いませんが、3つの殺人事件の捜査本部は発生から1年も経たない1982年3月に早々と縮小されてしまい、結果的に事件が迷宮入りしたのはすでに述べた通りです。

 

けれども今回、殺された女性たちの人生を少しばかりですが知ると、彼女たちは決して模範的な生き方をしてきたとは言えないにしても、それぞれが後悔や哀しみ、思い出や夢を心に秘めながら懸命に生きていた、その命の重みに変わりはないと思うのです。

 

最後まで身元不明の第二の事件の被害者を、もし外国籍の女性だったと仮定すると、それに類似した次のような事件が1989(平成元)年10月22日に起こっています。

 

朝日新聞(1989年10月26日夕刊)

 

この事件では、歌舞伎町に隣接する新宿区大久保一丁目のラブホテルで、マレーシア人の女子就学生パー・アイ・リンさん(当時25歳)が、同宿した男性に絞殺されています。

 

彼女は、昼間は日本語学校に通いながら、夜は歌舞伎町のデートクラブで働いていました。しかし、7月ごろにはそこをやめ、「夜、一人で客を探している」と友人に話していたそうです。

 

歌舞伎町で性を売る女性たち

毎日新聞(2023年2月19日)

 

故郷には両親と4人の子どもを抱えた姉がいて、彼女からの仕送りを頼みにしていたのです。

 

たまには友人とディスコに行ったり、恋人と一緒に過ごしたりもしていたようですが、彼女自身は派手な生活を慎み、質素に暮らしていたといいます。

 

記事によるとアイ・リンさんは、「日本でお金を稼ぎ、国に帰ったら結婚して家を建て、幸せに暮らしたい」と夢見ていたそうです。そんな夢を抱いた家族思いの彼女がなぜ異国の地で殺されなければならなかったのでしょうか。

 

「売春」(性器挿入をしない「性風俗」での仕事もここでは含めて考えています)という行為に対する考え方や評価は、肯定論から否定論までいろいろあると思います。ここでその議論をするつもりはありませんが、何らかの事情を抱えて好むと好まざるとにかかわらず「売春」せざるをえない人たち(そのほとんどは女性たち)がいるのが現実です。

 

「売春」をしているということを理由にして、それぞれに見えない重荷を背負っているであろう彼女たちの人格が不当に貶(おとし)められたり、ましてや命が軽んじられるようなことがあっては絶対にいけないと、小川はこれらの事件を通して強く思うのですショボーン

 

1970年代後半の歌舞伎町

 

参照資料

『朝日新聞』関連紙面(朝日新聞クロスサーチを利用)

佐木隆三「新宿ラブホテル連続殺人事件」(『殺人百科』第4巻、徳間文庫、所収)

「新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件 1〜4」(裁判判例と未解決事件データベース)

「歌舞伎町ラブホテル女性殺人事件(1981年)」(事件インデックス)

 

 

この事件から約1年後に、また歌舞伎町で残酷な事件が起こりました🥺

 

 

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