勝田清孝 連続殺人事件

1972(昭和47)年

〜1983(昭和58)年

 

22人を殺したと自供した勝田清孝

 

勝田清孝という男がいます。

1972(昭和47)年から1983(昭和58)年の11年間に、裏づけが取れて立件に至ったのは8人にとどまりましたが、自供によると少なくとも22人を殺害し、そのほかに合わせて300件以上もの空き巣や強盗、車上狙いなどを繰り返した、史上まれに見る犯罪者です。

 

朝日新聞(1983年10月27日)

 

朝日新聞(1983年4月1日)

 

勝田は裁判で死刑判決が確定し、2000(平成12)年11月30日、収監されていた名古屋拘置所で執行されました。それは同日、わが国で20世紀最後に執行された3件の死刑の一つでした。

 

朝日新聞(1988年2月19日夕刊)

 

【勝田清孝という人物】

勝田清孝は、1948(昭和23)年8月29日に、京都府相楽郡木津町鹿背山(現在の木津川市鹿背山)に、農家の長男として生まれました。1歳上に姉がいます。

 

鹿背山地区は、中世城郭である鹿背山城の麓に広がる伝統集落で、勝田の生家も家格を誇る比較的裕福な農家だったようです。

 

現在の木津川市鹿背山地区(部分)

 

鹿背山南谷石仏 地蔵堂付近

(上の写真の「鹿背山」の下の四辻)

から見た地区の風景(現在)

 

家庭環境に虐待など特に問題があった様子はなく、父親は厳しかったとは言われますが、勝田は跡取り息子としてむしろ甘やかされて育った可能性もあります。

また1960年代半ばの彼の青春は、まさに戦後日本の高度経済成長期のまっただ中で、大衆消費社会が日本にも本格的に到来しようとしていた時期にあたります。

 

そうした社会状況を背景に勝田は、家業の農家を継いでコツコツ働くことなど眼中になく、欲望を全開にした派手な消費生活に憧れて、そのためには手段を選ばず楽してカネを手に入れる生き方を若くして身につけてしまったように思われます。

 

すでに高校時代から盗みなどの非行を繰り返していた勝田は、高校2年生の時(1965)にひったくりで逮捕されて大阪府和泉少年院(現在の和泉学園)に送致されます(高校は退学)。

 

 

1966年に退院後、住まいと職を転々とする勝田は、やがて一つ年下の女性と付き合い結婚を考えますが、双方の親から猛反対された二人は駆け落ちします。勝田の親の反対理由は「家の格が違う」ということ、女性側の親のそれは「少年院帰り」だったそうです。

やがて勝田が運送会社でまじめに働き始めたこともあって両家から結婚を認められ、その後に男の子を2人授かっています。

 

そして1971(昭和46)年、23歳になった勝田は、京都府相楽中部消防組合に少年院の前歴を隠して消防士として採用されます。

 

採用後に前歴が消防組合に知られますが、まじめな勤務態度を評価されて不問に付され、免職にされることはありませんでした。

 

相楽中部消防組合消防本部(現在)

 

その後も消防士としての勝田は、優良な勤務態度と消防士としての高い技能が評価され、20回もの表彰、全国技能大会での2年連続入賞という実績を上げ、消防副士長から消防士長へと順調に昇進も遂げたのです。

 

もし彼がそのままの人生を続けておれば、稀代の凶悪犯罪者として死刑に処せられるようなことはなく、職場でも相応に出世し、駆け落ちまでした愛妻や子どもたちとともに幸せな家庭生活を送ることができたはずです。

 

しかし勝田は、消防士としての給与でまかなえる程度の慎ましい生活では、到底満足できる人間ではなかったのです。

 

大の車好きで高級車に執着し、またクラブなどでの女性との遊興に分不相応なカネを使う勝田は、常にカネに困り借金を重ねるようになります。

勝田の借金の一部(200万円)は親に泣きついて肩代わりしてもらったようですが、そこからも親の息子への甘さがうかがえます。

 

一方、勝田自身も消防士の仕事の合間に長距離運送ドライバーの副業を始めます。しかし、とてもそれだけでは足らず、仕事の行く先々で空き巣などの窃盗を重ね、ついには強盗殺人を犯すまでになるのです。

消防士として鍛えた体や磨いた技能が犯罪に「活かされた」のは、何とも皮肉なことです。

 

 

【勝田清孝の犯罪】

11年におよぶ勝田の犯罪の全貌は十分には明らかにされないまま、8人の殺害など証拠に裏づけられたものだけで罪に問われたことは最初に述べたとおりです。

しかしその8件だけでも一つひとつを見ていくと膨大になりますので、もし個別に詳しく知りたい方はWikipediaの記事「勝田清孝事件」をお読みになってください。

 

ここでは勝田の犯罪を、小川の視点から2つの時期に分けて整理しておきます。

 

まず最初は、1972(昭和47)年9月から1977(昭和52)年8月までの時期で、この間に勝田はクラブホステスなどの女性や女性宅を狙って襲い、現金を奪って殺害することを繰り返し、立件されただけで5人の女性が犠牲になっています。

いわゆる水商売の女性が主に狙われたのは、現金を持ち歩いていることが多いという勝田の経験知によるものでした。

 

『FOCUS』1983年4月8日号

 

上は、雑誌『FOCUS』が掲載した被害女性たちの写真です。

ここには、勝田の自供から彼に殺されたと思われる7人の女性が載っていますが、このうち右上と左下の2人の女性については立件に至りませんでした。

 

立件されたのは、右下から真ん中、左上の5人の女性で、勝田による加害状況(強姦もありましたがここではあえて触れません)は次のとおりです。

 

①中村博子さん(当時24歳)、1972.9.13、アパートに侵入し絞殺、千円を奪う

 

 

②藤代鈴子さん(同35歳)、1975.7.6、マンション通路でひったくりに抵抗され絞殺、10万円を奪う

 

③伊藤照子さん(同32歳)、1976.3.5、高級車を降りたところを襲い絞殺、12万円を奪う

 

 

④増田安紀子さん(同28歳)、1977.6.30、空き巣に入ったところ、帰宅した被害者と鉢合わせになり絞殺、4万円を奪う

 

 

⑤識名ヨシ子さん(同33歳)、1977.8.12、マンションに侵入し絞殺、50万円相当のダイヤの指輪を奪う(この指輪を勝田は愛人女性への贈り物にした)

 

 

このように彼女らから勝田が奪った金品は、いずれも殺人を犯してまで奪うほどの額ではありませんでした。

 

それもあってか勝田は、1977(昭和52)年12月から1983(昭和58)年1月にかけて、主に金融機関の集金やスーパーの売上金をターゲットに銃による強盗へと犯行を切り替えエスカレートさせます。

この過程では、3人の男性が射殺されています。

 

朝日新聞(1983年2月10日夕刊)

 

立件された犯行は次のとおりです。

①1977.12.13、現金輸送中の兵庫労働金庫職員井上裕正さん(当時25歳)を襲い猟銃で射殺、現金520万円を奪う

②1980.7.30、中部松坂屋ストア一社(いっしゃ)店で現金580万円を奪い、夜間店長の本間一郎さん(同35歳)を脅し車を運転させて逃走、途中で本間さんを猟銃で射殺

 

朝日新聞(1983年2月10日夕刊)

 

この後、1980年11月8日、勝田は大阪市北区曽根崎新地で車上狙いをしていたところを警察官に見つかり現行犯逮捕されます。

そのために11月11日付で勤務先の消防組合を懲戒免職された勝田は、大阪簡易裁判所で懲役10月執行猶予3年(求刑は懲役1年)の有罪判決を受けています。

なお、これ以降の勝田の犯行は、「警察庁広域重要指定113号事件」と呼ばれます。

 

こうして泥沼にはまり込んだ勝田は、より大胆な犯行に出ようと思ったのか、まず拳銃を手に入れようとします。

 

③1982.10.27、愛知県警田代北派出所の警察官(同38歳)を偽情報で誘い出し、車で跳ねた上に鉄棒で頭を殴り重傷を負わせ、拳銃を奪う

 

同型の拳銃「ニューナンブM60」

 

④1982.10.31、静岡県浜松市内のスーパーに拳銃を持って押し入るが、失敗し逃走

⑤1982.10.31(上の記事にはない)、名神高速大津サービスエリアでヒッチハイクを装って塗装工の神山光春さん(同27歳)の車に乗り込み、脅して草津市内まで走らせたところで拳銃で射殺し現金4万円を奪う

⑥1982.11.1(上の記事の⑤)、名神高速養老サービスエリアで、ガソリンスタンド従業員(同46歳)に拳銃を発砲し重傷を負わせる

⑦1982.11.28(同⑥)、京都市山科区のスーパーに強盗に押し入り、拳銃で脅して売上金を奪う

⑧1983.1.31(同⑦)、名古屋市昭和区の第一勧業銀行(現みづほ銀行)御器所(ごきそ)支店の駐車場で、百万円余りを引き出して帰ろうとした会社社長の男性(同31歳)に拳銃を突きつけて金を奪おうとするが抵抗され、駆けつけた銀行員らに取り押さえられた上、通報で出動した警察官に強盗傷害の現行犯で逮捕される

 

 

こうして11年にもおよぶ勝田の犯罪にもようやく終止符が打たれましたが、これだけ多くの凶悪な犯罪が重ねられながらも警察は容疑者を割り出せず、たまたま民間人が勇敢にも取り押さえなければ逃げた勝田は犯行を続け、さらに犠牲者が出た可能性もあります。

 

名古屋を中心に西は神戸から東は浜松まで、都道府県境を越えて高速道路を車で移動しながらの勝田の犯行に、連携を欠いた警察が対応できなかった点は大きく問題にされました。

 

朝日新聞社説(1983年3月30日)

 

  また、複雑な事情や人間関係を抱えながら都会で暮らす人が多くなったことも捜査を難しくし、この事件でも警察の誤った別件逮捕で被害者の関係者が二次被害にあう事態も起きています。

 

朝日新聞(1983年11月12日)

 

【裁判と判決】

これについても詳しく触れると膨大になりますので、概略と結論を記すにとどめます。

 

勝田清孝は、刑事裁判の手続き上、1980年に大阪での車上狙いで執行猶予付きの有罪判決を受ける以前の犯行(殺害は7人)以後の犯行(113号事件、殺害は1人)に分けて名古屋地裁に起訴されます。

 

検察は1985年11月26日の公判で、両件のいずれにおいても勝田に死刑を求刑しました。

 

朝日新聞(1985年11月27日)

 

それに対して被告・弁護人側は、事実関係については概ね認めながらも、逮捕後に勝田は犯行を強く悔いて被害者・遺族に謝罪の気持ちを表しながら点字ボランティアなどに励んでいる、犯行時は愛人問題や借金などでノイローゼ(心神耗弱)の状態にあり完全な責任能力を欠いていた、多くの犯行を進んで自供しており自首にあたる、一部については殺意を否認している、死刑制度自体が違憲である、といった論点で死刑の回避を訴えました。

 

なお勝田は、拘置所内で綴った手記「贖罪の日々」を被告人の最終意見陳述で提出し、被害者・遺族への謝罪の念を述べたようですが、手記はその後『冥晦に潜みし日々』(1987、創出版)と題して出版されています。

 

 

1986(昭和61)年3月24日、名古屋地裁は判決公判で、勝田に求刑通り死刑の判決を下します。

それに対して被告・弁護人は名古屋高裁に控訴し、ほぼ同様の論点で争いますが、1988年2月19日、名古屋高裁は一審の死刑判決を全面的に支持して控訴を棄却します。

 

朝日新聞(1988年2月19日夕刊)

 

勝田はさらに最高裁に上告しますが、最高裁第一小法廷は1994(平成6)年1月17日に上告を棄却、2月5日に棄却決定が勝田の元に通知されて死刑判決が確定しました。

 

なお、最高裁が上告を棄却した日に勝田は、支援者である来栖宥子氏の実母(藤原姓)と養子縁組し、戸籍上では「藤原清孝」となります(このブログでは最後まで勝田清孝で通します)。

義姉となった来栖宥子氏は、勝田が書いた手紙を『113号事件 勝田清孝の真実』(1996、恒友出版)として出版しています。

 

 

 

 

勝田清孝の死刑執行(2000年11月30日)については最初に述べた通りですが、勝田の遺体は来栖氏が引き取り、葬儀の後に岡山県にある藤原家の墓に納骨されたとのことです。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

クルマとオンナへの欲望にかられ、カネのためなら人の命を繰り返し平気で奪った勝田清孝の犯罪は、ある意味とても単純でわかりやすいものです。

もしも勝田が、「いかにも」と思わせる容姿・態度であり、世間的に見て「普通」とは思えない生活を送っていたのであれば、事件はともかく彼自身に対してこれほど社会の大きな関心が集まることはなかったでしょう。

 

この連続殺人事件の犯人が明らかになった時、多くの人が驚いたのは、犯行が続いた11年のうち8年もの間、勝田はまじめで優秀で将来を期待された消防士として人命を助ける仕事に従事していたことです。

ところがその裏では、盗みを繰り返したばかりか、少なくとも5人(自供では7人)もの女性を強盗目的で襲い、抵抗されたからと情け容赦もなく殺害していたのです。

殺害状況の詳細は明らかではありませんが、中には非常に凌辱的な仕方でレイプし遺体を遺棄したケースもあったと伝えられます。

 

勝田の極端とも言える表裏二つの顔を最もよく示すものとしてあげられるのが、あるテレビ番組への出演です。

 

朝日新聞(1983年4月1日)

 

1977(昭和52)年7月6日、大阪の朝日放送(ABCテレビ)の視聴者参加型番組「夫婦でドンピシャ」(1976-82)の収録に夫婦で参加した勝田(当時28歳)は、優勝賞金8万円とデパートの商品券10万円を獲得しました。

 

 

番組の一部は、次のYouTube動画で見ることができますが、司会の月亭可朝と話す勝田からは、連続殺人犯の凶悪な面影はまったく感じられず、むしろ非常に爽やかな印象すら与えます。

 

 

しかし、予選出場(6.15)の5日後の6月30日(本番収録のわずか1週間前)に、勝田は名古屋で女性を絞殺しており、8月12日にも同じく名古屋で女性を絞殺しています。

つまり、連続殺人の合間にテレビ番組に出演し、にこやかに話をしていたのです。

番組がテレビで放映されたのは8月20日のことでした。

 

ちなみに、この番組への応募は同年2月に妻がしたもので、夫婦の仲の良さを私生活を題材にしたクイズで競うという番組の趣旨からしても、この時点での夫婦仲はまだ良かったのではないかと思われます。

けれどもその後、勝田の女性関係が遊びを超えて愛人になるに及んで、それを知った妻が自殺未遂を起こすなど夫婦関係は破綻し(その状況を弁護人は裁判で、勝田の心神耗弱の理由の一つにあげました)、逮捕時の勝田は家族を捨てて33歳の愛人宅で同棲生活を送っていました(逮捕直後の1983年2月に離婚)。

 

また、勝田の表裏二つの顔として、逮捕後に彼が一転して自分の罪を悔いる姿勢を示し、被害者・遺族への謝罪の念を繰り返し表明し、贖罪の意味も込めて自ら望んで点字翻訳のボランティアに打ち込んだことがあげられます。

先にあげた獄中手記「贖罪の日々」を『冥晦に潜みし日々』として出版したときも、その印税を被害者遺族に慰謝料の一部として受け取ってもらうつもりだと言っていたようです。ただ、実際には本はほとんど売れずに思惑は外れたようですが……。

こうして「罪を悔い改め」た勝田には、クリスチャンである来栖宥子氏のような支援者もつきます。

 

勝田のこれら二つの顔を、どう理解したらいいのでしょうか。

 

彼の場合、いわゆる「多重人格」のような精神病質は考えにくいですので、もっとも単純で分かりやすいのは「巧みに善人を演じる悪人」という解釈でしょう。

 

職場でのまじめな勤務態度やテレビ番組での爽やかな受け答えもそうですが、逮捕後も死刑を免れたい一心で「悔い改め」た風を演じ、これみよがしにボランティアなどして善人ぶりをアピールしたというのです。

それは、隠れて舌を出しながら表面的には罪を心から悔いているかのように見せかけるといった、多くの人が抱いている悪賢く卑劣な悪人イメージにも合致するものです。

 

本当にそうなのであれば話は簡単なのですが、小川はどうもそれでは腑に落ちないのです。

根拠のない直感だと言われれば返す言葉はないのですけれど、勝田の表裏の顔は「演技」と言えないほど「自然」にシームレス(継ぎ目なし)に連続しているように思えてならないのです。

 

 

つまり、人目を欺くためにかぶった偽りの善人の仮面をかなぐり捨て、凶悪な素顔をむき出しにして犯行に及ぶというより、「善人の顔」そのままに平然と人を犯し殺してしまう、そういう底知れぬ恐ろしさを小川は勝田という人間から感じてしまうのです。

ですから、人を殺(あや)める勝田と点字翻訳のボランティアに励む勝田と、どちらが「本当の勝田」かと問われれば、どちらも「本当の勝田」だということになります。

 

それはとても怖いことなのですが、その怖さは、勝田がとても人間とは思えない鬼畜の存在だというところにあるよりも(もちろん、常人の域をはるかに逸脱している点で勝田の異常さは明らかですが)、人間誰もが持っている善悪の二面性と彼の表裏の顔が根っこを共にしているところに怖さがあるのではないかと小川には思えて、恐ろしいのですガーン

 

 
長いブログを
読んでくださり、ありがとうございました🥹
 
【参照資料】
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