栃木 実父殺し事件

1968(昭和43)年

朝日新聞(1968年10月7日、栃木版)

この殺人事件は、殺された父親が被害者であり殺した実の娘が加害者ではありますが、後で見るように彼女が実父から十数年にわたり性的虐待・暴行を受け続けてきた結果であり、事の全体から見れば娘が被害者、父親が加害者であると言うべき状況で起きた事件です。

従ってこのブログでは、女性については名前の「チヨ(千代)さん」、父親については「父親」あるいは「武雄」と表記することにします。いずれもフルネームで実名が分かっていますが、事実上刑の免除に近い最高裁の判決が出た後にチヨさんは結婚し、ずっと願っていたごく普通の生活を手に入れることができた可能性がありますので、まだ存命かどうかは分かりませんが、身元が明らかにならないよう配慮すべきだと考えました。

 

【事件の発端】

1968(昭和43)年10月5日の夜遅く、一人の女性が、親しくしていた近所の雑貨商の家に駆け込んできました。そして「おばさん、父ちゃんを殺しちゃった。」と言うなり泣き出したそうです。彼女は、通報で駆けつけた警察官に尊属殺人容疑で逮捕されました。

栃木県矢板市の市営住宅にある自宅で絞殺された父親は当時52歳の植木職人で、女性は一緒に暮らしていた娘のチヨさん(同、29歳)です。

 

事の発端は、事件から15年もさかのぼる1953(昭和28)年に、14歳の中学2年生だったチヨさんが、夜中に布団に入り込んできた父親によってレイプされたことです。

驚いて声を上げそうになったチヨさんですが、狭い一間で一緒に寝ている妹4人に弟2人を起こすことを恐れ、黙ってされるがままになるしかなかったようです。

 

それに味をしめたのか、父親はその後もひんぱんにチヨさんに性行為を強要し続けます。

たまりかねたチヨさんは、1年後の1954年になってようやく母親にこの事実を打ち明け、母親は驚いて夫(武雄)を問い詰めたのですが、逆ギレした武雄は包丁を持ち出して暴れ、母親も身の危険を感じます。

 

娘との性的関係を続けながら暴力を振るう夫との同居に堪えられなくなった母親が、チヨさんと妹たちを残し2人の男の子を連れて北海道の兄のところに助けを求めに行ったり(1955)、その翌年に自分の実家に戻ってきてそこに武雄がチヨさんを連れて転がり込んだりと、家族は慌ただしく動きます。その間にまだ17歳だったチヨさんは、父親との最初の子どもを妊娠してしまうのです。

 

妻の父親からチヨさんとの不道徳な関係を断つよう強く言われた武雄は、妻の実家を出てチヨさんを連れ矢板市内の植木職人宅の離れに移ります。チヨさんが、1956年11月に父親との最初の子どもを出産したのはここでです。そして出産後、父親とチヨさんは市営住宅へと転居します。それから、12年にも及ぶまるで夫婦のような2人の生活が始まるのです。


当時の市営住宅(矢板市中)

 

建て替えられた現在の市営住宅(矢板市中)

 

チヨさん自身が7人きょうだいだったように、武雄は避妊などまったく考えない男で、チヨさんともそうして関係を続けたため、彼女は1956年、1959年、1960年、1962年、1964年と女児ばかり5人の子どもを出産(最後の2人は生後間もなく死去)し、加えて回もの妊娠中絶をしています。これ以上の中絶は危険だと医師から言われたチヨさんは、医師の勧めで1967(昭和42)年に不妊手術を受けています。

 

それまでにも何度も逃げ出そうとしながら、そのつど父親に見つかって連れ戻されたチヨさんでしたが、3人の「我が子」を育てなければならなくなったことから、逃げることを諦めたかのように父親と「夫婦同然」の生活を送ります。

 

チヨさんの気持ちに大きな転機が訪れたのは、無事に育った3人の子どもたちの育児が一段落した1964(昭和39)年のことです。それは、戦災からの復興を象徴する東京オリンピックに日本中が沸いた年でした。

 

父親は植木職人としての腕は悪くなかったようですが、月に10日働いてあとの20日は家で飲んだくれるような生活で家計は苦しく、29歳になったチヨさんはそれを補うため市内の福田印刷所に働きに出ます。しかし、チヨさんにとって仕事に出たことは、お金以上に大きな意味を持ったのです。

 

福田印刷所の跡地(矢板市本町)

 

まじめで明るく人柄の良いチヨさんは、職場の人たちから好感を持たれますが、そこで彼女は同じ年ごろの人たちから聞く「普通の暮らし」を自分も送りたいと強く願うようになります。

宇都宮地裁の判決書は、その時のチヨさんの気持ちを次のように書いています。

 

「年若い同僚達が休憩時間などに何気なく取り交わす恋愛や結婚を話題とするありふれた雑談にも、今更のように武雄のために忌わしい父子相姦の生活を余儀なくされている暗澹(あんたん)たる自己の境遇に気付くとともに、同人のため自己の青春を奪われた苦痛を強く自覚し、その悲運を悲しむ一方、久しく諦めていた正常な結婚相手を得て世間並みの家庭を持ちたいとの願望を抑えることができなかった。」

 

【初恋】

チヨさんが印刷所で働き始めて3年目の1967(昭和42)年、一人の青年が入所してきます。7歳年下だった青年とチヨさんはやがてお互いに惹かれあい、父親には残業だったと嘘をついて仕事帰りに喫茶店でデートする仲になります。

ようやく訪れたチヨさんの初恋です。

チヨさんの境遇について青年は、子どもがいること以外は知りませんでしたが、結婚したいと真剣に考えてチヨさんに親に話して結婚話を進めてくれるよう言います。

 

そこでチヨさんは円満に事が進むことを願って1968(昭和43)年9月25日の夜、意を決して父親に事情を打ち明け、青年との結婚を認めてくれるよう頼みます。

ところが、激怒した父親は「出ていくのなら出ていけ、一生苦しめてやる」「相手をぶっ殺してやる」などと怒鳴り、その場はチヨさんがなだめて寝かせたのですが、翌朝になってまた父親は怒り出します。

怖くなったチヨさんは家から逃げて青年や親戚に連絡を取ろうとしますが、父親に見つけられ服を破られ半裸の状態で家に連れ戻されます。

それから10日間というもの、チヨさんは職場にも行けず家に軟禁されながら、夜にはまた父親から性行為を繰り返し強要されてろくに眠ることもできない状態に置かれます。

 

【父親の殺害】

そうして迎えた10月5日、この日も父親は「どこまで逃げてもつかまえてやる、一生不幸にしてやる」などとチヨさんを脅迫しながら、買ってこさせた焼酎を飲んでようやく寝ます。

チヨさんは、子どもたちを寝かせてから自分も父親の隣に敷いた布団で寝ようとしますが、しばらくして目を覚ました父親が、また焼酎を飲んで「苦労をして育てたのに、お前は十何年間も、俺をもてあそんできて、この売女(ばいた=売春婦)」とチヨさんを罵り、さらに「男と出て行くなら、3人の子どもぐらい始末してやる」と子どもたちの殺害まで口にしながら、チヨさんの両肩を両手でつかむような体勢で覆いかかってきました。

 

9月25日からの10日間で心身ともに疲労の極にあったチヨさんは、自分の幸せを踏みにじり性欲の犠牲にしてきたこれまでの父親の仕打ちを思い起こし、この父親がいる限りは関係を断つことも世間並みの結婚をすることもできないので、もはや殺すしかないと考えます。

そうしてとっさにチヨさんは、泥酔状態の父親の手をふりほどいて仰向けに押さえ、枕元にあった股引きの紐で首を絞め殺害してしまったのです。

 

【裁判の焦点と三審の判決】

この事件の裁判の焦点は、1つは明らかに父親の性暴力の被害者でもあるチヨさんを実父殺しの加害者としてどう裁くか、もう1つはチヨさんに適用された「尊属殺人罪」(刑法第200条)が憲法第14条の法の下の平等原則に反しないのかという問題の2つでした。

 

裁判は、宇都宮地方裁判所の第一審(1969・昭和44年5月29日判決)が尊属殺人罪を憲法違反とし、一般の殺人罪(刑法第199条)を適応した上で、チヨさんの行為は過剰であったとはいえ防衛行為だと認定し、またその時のチヨさんは心神耗弱(しんしんこうじゃく=正常な判断が著しく困難になった状態)だったとして、過剰防衛で有罪ではあるが情状を酌量して刑を免除するとしました。

 

検察はただちに控訴します。東京高等裁判所の第二審(1970・昭和45年5月12日判決)は、尊属殺人罪を合憲とし、チヨさんの行為を防衛行為とも認めませんでしたが、事件に至る事情や心神耗弱の状態にあったことは認めて減刑し、チヨさんに懲役3年6ヶ月を言い渡しました。

 

被告・弁護側は上告し、最高裁判所大法廷の終審(1973・昭和48年4月4日判決)は、尊属殺人罪を違憲とする画期的な判例変更を行い、この件では殺人罪を適応するとした上で、犯行に至った事情やチヨさんが自首し前科もなく再犯の恐れもないこと、心神耗弱状態にあったことを考慮して、懲役2年6ヶ月(執行猶予3年)としました。執行猶予がついたためチヨさんが刑務所に服役させられることはなく、刑の免除に近いものでした。

 

最高裁判所大法廷

朝日新聞(昭和48年4月4日夕刊)

 

詳しい消息は不明ですが、チヨさんがこの後に印刷所の青年とは別の男性と結婚したことは先に述べた通りです。ちなみに、印刷所の青年は、事件後にチヨさんと父親との関係を知って去っていったようです。

 

【チヨさんの行為を裁判所はどう裁いたのか】

宇都宮地方裁判所(裁判長・須藤貢)は、判決書の「被告人の生い立ちおよび本件犯行に及ぶまでの経緯」において、チヨさんが父親によって強いられた耐え難い生活について詳しく述べ、「右行為は被告人の自由に対する武雄の急迫不正の侵害に対しなされた防衛行為であるが、防衛の程度を超えたものである」としました。

「防衛の程度を超えた」とは、泥酔状態にあった父親が、チヨさんに対してただちに殺傷するなどの危害を加える状況にはなかったということでしょう。しかし「急迫不正の侵害」の「急迫(=さしせまった)」を犯行時だけに限定せず、15年に及ぶ虐待を全体として「急迫不正の侵害」とし、それに対する防衛行為だったと認めたのは、(法解釈的には無理があるのではという見方もあるようですが)最大限チヨさんの被害に寄り添った判決だったと思います。

その判断には、チヨさんの弁護人を務めた大貫大八・大貫正一両弁護士が公判で展開した主張が影響を与えています。

後に出された大貫大八弁護士の最高裁への上告趣意書には次のように書かれています(一部漢字をひらがなにしています)。

 

「本件はようやく人間的価値に目覚めた被告人が従来の奴隷的拘束よりの解放を意識したのに対し狂気の如くこれを阻止せんとした父武雄に実力をもって抵抗したものであって、当然正当防衛ないし過剰防衛に該当するものである。

しかも被告人の本件行為は前記正当防衛ないし過剰防衛に該当するばかりでなく、反射的には一部の学者の唱えるいわゆる抵抗権の行使に該当し、この意味においては正当防衛として違法性を阻却される(=罪に問われないとされる)のである。さらにまた本件の場合のように差し迫った環境の中においては被告人程度の一般女性には到底正当行為を期待することは不可能であり、このような見地からしても本件は違法性を阻却するものと言うことができるのである。」

 

大貫大八(遺影)と大貫正一両弁護士

(「東京新聞」2017年11月3日)

 

それに対して、東京高等裁判所の判断(裁判長・井波七郎)はひどいものです。

判決書は、「被告人は少女時代父武雄に汚辱を受け、爾来(じらい=それ以来)年をへて父娘でありながら夫婦同様の生活を継続して来たもので、その間に数人の子までなした間柄であり(略)世間態からは普通の夫婦のようにしか見えなかったというのであり、被告人は、忍従の生活とはいいながら、常時父との間に喧嘩闘争をしていたものでない」、だから「被告人と被害者との間が不断の緊張、うっせきの関係にあったとし、それを武雄が被告人に対し継続的強姦行為を成していたというの例えるが如き弁護人の答弁書の議論は取るに足りない」と言うのです。

「数人の子までなした間柄」とは、双方が合意の上で子をなした場合にこそ言えることで、レイプで妊娠した女性が子どもを出産した場合までもレイプ犯と被害者女性とを「子までなした間柄」と言っているかのような判決文の無神経さには、唖然とするしかありません。

また、「夫婦のようにしか見えなかった」というのも、父親の支配下で立て続けに子どもを産まざるを得なかったチヨさんが、事情はともあれ自分が産んだ子どもたちを何とか育てようと、逃げることをいったん諦めて「夫婦のように」暮らすしかなかった(その間も父親には性行為を強いられ続けた)苦しい気持ちは小川にも容易に想像がつきます。それを、まるで円満な夫婦生活を送っていたかのような判決文を書く裁判官は、人間として持つべき最低限の想像力や共感力すら欠いているのではないかと思わざるをえません。

さらに「常時父との間に喧嘩闘争」がなければ「継続的強姦行為」はなかったと言うに及んでは、たとえ命の危険があっても必死の抵抗をしなければ、あるいは恐怖のあまりすくんでしまって抵抗できなければ、強制性交を女性が受け入れていたかのような捉え方と同じではないでしょうか。

 

こうして判決書は、「抵抗不能に近い武雄を絞殺」した状況には、「いわゆる急迫せる侵害なるものはなく、また、被告人に防衛の意思がないばかりでなく、却って攻撃の意思があったものと認める以外はない」と断じているのです。

いくら「被告人は本件犯行当時旬日(じゅんじつ=10日間)に及ぶ心労と睡眠不足のため心身ともに疲労し心神耗弱の状態にあった」と認めてはいるとしても、高裁判決はチヨさんに対してあまりにも冷酷非情だと言わざるをえません。

 

最高裁は、チヨさんの行為が防衛行為かどうかの判断はせず、また尊属殺人罪は違憲であるから一般の殺人罪を適用するとして懲役2年6ヶ月を言い渡しましたけれど、チヨさんが長年にわたって強いられた過酷な状況と心神耗弱を考慮して3年の執行猶予をつけました。最高裁では主に尊属殺人罪についての憲法判断が中心になりましたが、チヨさんの行為についてはほぼ地裁の判断を採用しています。

 

【尊属殺人罪についての憲法判断】

この問題は法的には非常に重要であり、最高裁の判断は画期的なものでしたが、すでに多くのことがこれについては書かれていますし、このブログは被害者に焦点を当てるのが趣旨ですので、簡単にまとめるにとどめます。

 

日本の刑法は1907(明治40)年に施行されてから、抜本的な改正なく戦後も引き継がれました。刑法第200条の尊属殺人罪も、子から見た親(や祖父母)は「尊属」で、親から見た子は「卑属」だという、上下(尊卑)の差別をつけた家族道徳を前提にしています。ですから、親が子を殺しても普通の殺人ですが、子が親を殺せば特別な殺人として一般の殺人罪よりはるかの重い刑罰(死刑か無期懲役)が尊属殺人罪として課せられたのです。なお、一般の殺人罪の罰則は、死刑または無期懲役もしくは5年以上の懲役(この事件当時は3年以上の懲役)です。

 

尊属殺人罪については、第1に、同じ殺人であっても対象によって区別して扱うことが憲法の平等原則に照らして認められるかどうか、つまり、尊属殺人罪のあること自体が憲法に違反しているのではないか、第2に、尊属殺人罪を設けること自体は合憲であるとしても、刑罰の差があまりにも不平等で合理性を欠き違憲なのではないのか、が論点になっていたようです。

 

尊属殺人罪については、1950(昭和25)年に最高裁が合憲という判断を下していたために、その後はそれを前提にした判例が積み上げられてきました。

 

しかし、チヨさんのこの事件をきっかけに23年ぶりに最高裁の判断が根本的に変更され、尊属殺人罪自体が憲法違反とされたのです。

 


 

 

朝日新聞(昭和48年4月4日夕刊)

 

最高裁の違憲判断が出て、尊属殺人罪は適用停止されましたが、与党自民党内で反対論が強く、刑法から削除されたのはさらに22年後の1995(平成7)年、刑法全体の改定まで待たなければなりませんでした。

 

朝日新聞(昭和48年6月3日)

 

なお、この画期的な判例変更を引き出した大貫正八弁護士は、1971(昭和46)年に病気で亡くなったために最高裁の判決を聴くことはできず、息子の大貫正一弁護士が父の遺影を胸に忍ばせて判決の場に臨んだと言います。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

「鬼畜の所業」と言いますが、その言葉はこの父親のためにあるのではないかと思うような事件です🥺

 

父娘の結婚はできないとしても近親相姦自体を犯罪とする法律はありませんし、2017(平成29)年7月13日の改正刑法施行まで強姦罪は親告罪(被害者からの訴えなしに強姦の事実だけでは加害者を起訴できない)でしたから、警察にチヨさんが被害を訴え出なければ父親からの強姦は罪にはなりませんでした。またもし訴え出たとしても、民事不介入を原則にしていた警察がチヨさんを守るために積極的に動いたか、保証はどこにもありません。

 

こうして家庭という密室の中で、15年にもわたりチヨさんは実の父から性暴力を受け続けたばかりか、少なくとも11回もの妊娠(出産5回、中絶6回)を繰り返させられたのです。

その壮絶さは想像を超えるもので、チヨさんこそが父親の被害者であると言わざるをえません。

 

同じような問題は家庭内暴力(DV=ドメスティック・バイオレンス)についても言えます。2001(平成13)年のいわゆる「DV防止法」施行以前は、配偶者からの暴力(そのほとんどが夫から妻への暴力)は名前すら与えられず、「よくあること」だと世間では軽く考えられていました。また、親から子への虐待も、2000(平成12)年のいわゆる「児童虐待防止法」施行までは、「しつけ」などと見なされ半ば放置されてきたのです。

もちろん、今でもそれらが無くなったわけではありません。下のDV被害件数は警察が把握したものなので、実数がこれだけ増えているわけではないとしても、根絶からは程遠いことが分かります。

 

 

西日本新聞(2020年3月6日)より

 

ですから、チヨさんが父親から受けていた性暴力も、親戚や近所の人たちのほとんどみんなが知っており、普通ではないと認識していたにもかかわらず、本気でチヨさんを救おうとして行動を起こした人はただの一人もありませんでした。また、福祉事務所はあったでしょうが、チヨさんのように世間を知らないまま家に縛られた女性が一人で相談に行けるところではなかったでしょう。

それはまた、これ以上は危険だという6回もの妊娠中絶をした医師や、5人もの「私生児」の出生届を受理した役所についても同様で、周囲がことごとく無関心を決め込む中で、チヨさんは過酷な生活を誰の助けも得られないまま続けなければならなかったのです。

 

普通に考えると、精神に異常をきたすか自殺を図るか、自暴自棄になって身を持ち崩すかしても不思議ではない状況に置かれながら、チヨさんはまじめで誰からも好感をもたれる人柄、恋する心や夢見る力を失いませんでした。小川はまずサバイバー(逆境を生き延びた人)であるチヨさんの人としての強さに驚嘆します。

 

彼女が父親を殺すしかないと決めたのも、「子どもたちを殺す」という父親の言葉が引き金になったのではないかと小川は推測します。たとえ忌まわしい事情によって産んだ子であったとしても、生まれた以上はその命を守り育てる責任を彼女は強く受け止めていたに違いないからです。

 

チヨさんの母親のリカさんについて少し触れておきます。

先に述べたようにリカさんは、チヨさんから父親からの性暴力を告白され、夫にそのことを問い詰めたものの逆ギレされた翌年(1955)、チヨさんと妹たちを残して北海道の兄のところに相談に行きます。そのことから、母親は娘を置き去りにして逃げたと批判する人がいますが、そうは思えません

 

周りに誰も助けてくれる人がいない中で、包丁まで振り回す夫の暴力に母親だけで立ち向かうことができないのは仕方のないことです。ですから兄を頼って北海道まで行ったので、そのままそこに居続けるつもりではありませんでした。また、もしチヨさんまで連れて行けば、武雄がすぐに北海道に連れ戻しにくるに違いありません。だからせめてもの助けにと妹たちも残していったのでしょう。母としては身を切られる思いだったと思います。

 

それから、チヨさんが逮捕された後、知人の知人を介して大貫大八弁護士の事務所を訪ね娘の弁護を頼んだのも母親のリカさんです。貧しくて弁護料が払えないため彼女はカバン一杯にじゃがいもを詰めて行ったのですが、大貫弁護士はそれを受け取って無償でチヨさんの弁護を引き受けたそうです。

 

ちなみに、大貫正一弁護士も自分で働きながら定時制高校を卒業し、中央大学法学部に進学した苦労人で、大貫大八弁護士の事務所に入って彼にその人柄と能力を認められ養子に迎えられます。大貫父子の熱意と優れた弁護力がなければ、チヨさんは最後まで誰にも力になってもらえないまま服役し、尊属殺人罪の違憲判断もさらに後へと先延ばしされたことでしょう。

 

大貫正一弁護士

 

チヨさんがもし生きておられたらもう83歳、3人の娘さんたちも60代になります。

チヨさんが結婚したこと以外、彼女たちがあれからどのような人生を送ったのは分かりません。

裁判が終わった後も毎年、大貫正一弁護士にチヨさんから年賀状が送られてきていたそうです。しかし大貫さんが、「年賀状を書くたびに過去の嫌な思い出が蘇ってくるだろうから、もう年賀状を出すのは終わりにしてください」と返信したところ、年賀状が来なくなったそうです。

もう十分過ぎるだけ苦しんだチヨさんが、悪夢のような日々から解放されて、かつて夢見た平凡でも幸せな後半生を送ることができたのであってほしいと、心から願わずにおれない小川です🥺

 

参照資料

・尊属殺重罰規定違憲判決(第一審から終審までの判決書を掲載)

・「15年にわたる実父の強姦が黙殺された「栃木実父殺し」から現在——社会に排除される女性と子ども(「サイゾーウーマン」2019年4月9日)

・「「父殺しの女性」を救った日本初の法令違憲判決 憲法第14条と「尊属殺人」」(「日経ビジネス」2016年3月16日)

・「尊属殺人罪は違憲か合憲か? 親子二代にわたる執念の戦いが日本の裁判史を塗り替えた 大貫正一弁護士ロングインタビュー」(「弁護士ドットコムタイムズ」2017年6月発行より)

・「親の性的虐待、家庭の崩壊恐れ…相談にためらいも 周りの大人にできることは」(「西日本新聞」2020年3月6日)

・谷口優子『尊属殺人罪が消えた日』筑摩書房、1987

 

最後に、

今月(11月)は児童虐待防止推進月間です🌟

子どもたちの命と笑顔を守るために、一人ひとりが

周りの子どもたちに目を向けることが大切なのではないかと思います🥺

 

 

児童虐待「ゼロ」を目指して!

🌟すべての子どもたちが笑顔で暮らせる社会に🌟

 

 

 

 

 

 



朝日新聞 1973年4月4日


読んでくださった方、ありがとうございます🥹💓