克美茂(しげる)「愛人」殺害事件
1976(昭和51)年
漫画映画「エイトマン」の主題歌を歌った克美しげる
1976(昭和51)年5月8日の朝、羽田空港の駐車場に6日から停めてあった車のトランクから、女性の遺体が発見されました。被害者は岡田裕子(ひろこ)さん(35歳)と判明し、警察はその車を知人から借りていた克美茂(本名・津村誠也、旧芸名・しげる、38歳)を容疑者と見て移動先の北海道旭川駅で身柄を拘束しました。その後の取り調べで克美が、「別れ話のもつれから岡田さんの首を絞めて殺した」と自供したため、彼を殺人・死体遺棄容疑で逮捕し、事件はスピード解決したのです。
朝日新聞(1976年5月8日夕刊)
朝日新聞(1976年5月9日朝刊)
朝日新聞(1964年12月11日)
しかしそれをピークにその後はヒット曲も出ないまま、克美は次第に忘れられた存在になっていきますが、さらに悪いことに1971年に自分が運転する車で事故を起こし、保険に入っていなかったため多額の借金を抱えてしまいます。
同棲していた女性との間に長女が生まれたばかりの克美は、事故の年に女性と結婚し、銀座のキャバレーで働く彼女(妻)に生活を支えてもらうことになります。
克美の自宅マンション(五反田)
4歳年下の妻は、古くからの克美のファンだったこともあり、「芸能人」である夫の行動については、女性関係も含めて非常に寛容だったらしく、克美にとっておとなしく「都合の良い女」でした。また克美はとても子煩悩だったことから、自宅は彼にとっては安らぎの空間だったのでしょう。
ところが克美にはもう一人付き合っている女性がいました。それが被害者となる岡田裕子さんです。
克美は裕子さんと、1969年ごろに働いていたクラブでオーナーから同棲中の女性として紹介され知り合ったのですが、裕子さんの方は大阪にいたころにジャズ喫茶で歌っている克美を見て魅かれていたことから、思いがけず再会した克美と妻子がいることを承知で付き合い始めます。
夫を控え目に健気に支えるタイプの妻とは対照的に、裕子さんは「気性の激しい女」と言われるように、自分の意思をはっきりと示し行動する女性だったようです。
1973年ごろ彼女は、働いていた銀座のクラブを辞め、ソープランド(当時は「トルコ風呂」と呼ばれた)で働くようになります。そしてそのころから克美は、裕子さんのマンションで平日同棲し、土日に自宅に帰るという二重生活を送るようになりました。
克美が半同棲した裕子さんのマンション(六本木)
裕子さんが風俗で働くようになったのは、彼女自身の借金(客の未払いのツケ)返済もありましたが、それ以上に克美の借金返済や遊興費などをまかなおうとしたのです。
事件後に、裕子さんが克美に風俗で「働かされた」という見方もありましたが、先に述べたように彼女は、男に指図されて泣く泣く行動するタイプではなく、「トルコ嬢」にも自分の意志でなったようです。
当時の「トルコ風呂」街
裕子さんが働いていた店の入ったビル(新宿)
客あしらいの上手な彼女は月に百万円も稼ぐのですが、借金返済に加えて再起のためという接待やギャンブルなど、克美の金遣いは半端な額ではなく、さすがの裕子さんも疲れ果て絶望的な気持ちになることがあったようです。
彼女は1973(昭和48)年12月19日の日記に次のように書いています。
↓↓↓
「毎月百万は必ず稼いでいるのに、どうしていつもこんなに苦しいんだろう。今月は特に大変だ。(略)自分で物でも買って支払いに追われるのだったら別だけど、あの人の借金ばかりではないか。どうしてこんなことになったのかしら。」
愛する克美に自分から進んで貢いでいるのだとしても、妻との関係を続けたまま自分にだけ犠牲を強いるのは、自分をただ金づるとして利用しているだけではないのかという疑念も浮かんだのでしょう。その気持ちは、克美に妻と離婚し自分と結婚して欲しいという強い思いに向かっていきます。そしてそれがかなわない時には……。
日記の続きには次のように書かれています。
↓↓↓
「奥さんからは一銭も取らないで、私をこんなに苦しめてどういう気でいるのだろう。もし本当に感謝しているのなら、奥さんのことを、なぜはっきりさせないのだろう。蔭では、奥さんに言いわけをしてうまくやっているにちがいない。/そうだとしたら、けっしてだまってすませない。/もし、私を裏切るようなことがあれば、絶対、殺してやる。殺して、私も、死ぬ。」
自分が必要な金を何をしてでも工面して貢いでくれる裕子さんは、克美にとっては別れることのできない実に「都合の良い女」でした。しかし裕子さんは、ただ男に都合よく使われることに甘んじる女性ではなく、自分が注いだ愛情に結婚という形で応えることを強く克美に求めたのです。
しかし克美にとって、自分を自由にさせながら子を産み育て、安らぎの場(マイホーム)を与えてくれる、裕子さんとはまた別の意味で「都合の良い女」である妻と別れるつもりなどまったくありませんでした。
このような関係がそのまま続くとはとても思われないのですが、優柔不断な克美は、甘い言葉を裕子さんにかけて彼女の気持ちを懸命になだめ、問題の解決を先送りし続けます。
しかし口先だけではごまかすことができなくなってきた克美は、裕子さんに請われるまま一緒に岡山の彼女の実家を訪ねて両親に結婚の意思を伝え、さらに妻との離婚に手間取っているから披露宴は正式な結婚後に盛大にということにして、1975(昭和50)年に「結婚式」まで偽装します。それが裏目に出て、克美自身をさらに窮地に追い込むことになるとは思いもせずに……。
「偽装結婚式」での写真
克美が「結婚式」を挙げてくれたことに喜んだ裕子さんは、写真を近所の親しい人にまで配り回ったそうです。念願だった克美の妻の座を事実上射とめたと思った裕子さんは、レコード会社が克美を再び売り出すために企画したキャンペーンで北海道に行く話が出た時、自分も一緒に行きたいとせがみます。けれども、所属事務所にとっても起死回生を賭けた大事な営業活動に、「妻」ならともかく「愛人」連れで行くことなど許されるはずもありません。
同伴をしぶる克美に裕子さんは「またごまかすつもりか」と激怒し、「五反田(妻のところ)に行ってカタをつけてくる」と克美に迫ったようです。
かつてあれほど献身的に支えてもらいながら、「カムバックの邪魔になる」裕子さんを殺害するしかないと身勝手にも思った克美は、北海道に行く5月6日の早朝、ついに彼女を絞殺してしまうのです。
この時、裕子さんは
束の間の幸せを噛み締めていたのだろうか……
しかし、克美の行き当たりばったりな殺人が発覚しないはずもなく、事件がスピード解決したのは最初に見た通りです。
羽田空港から連行される克美茂
殺人と死体遺棄容疑で起訴された克美に、東京地裁は1976年8月23日、懲役15年の求刑に対して懲役10年という意外なほどの温情判決を下します。思いのほか軽い判決だったことから克美は控訴せず、判決は確定しました。
朝日新聞(1976年8月23日夕刊)
しかし、刑のあまりの軽さに裕子さんの両親は納得できず、克美に1千万円の慰謝料を請求する民事訴訟を起こしています。
朝日新聞(1976年11月25日)
服役した克美は、模範囚ということで刑期を3年も残し7年2ヶ月服役しただけで、1983(昭和58)年に早くも仮出所します。
『FOCUS』(1983年11月11日号)
上の写真は、仮出所から3日後の10月30日、東名高速のサービスエリアの食堂で、「シャバの味」を噛みしめるかのようにコーヒーを飲む克美茂です。
この日克美は、身元引受人の大谷羊太郎氏(作家)らと彼が殺害した岡田裕子さんの岡山の実家を訪れ、両親に詫びて墓参りをする予定でした。
しかし、岡田さん側にそれを拒否されたため、この2日後、空しく東京に引き返しました。
その後克美は、ほとぼりを冷まして芸能界への復帰を狙います。
その準備のためだったのかはわかりませんが、1983年11月5日、岡山国際ホテルの宴会場で、殺された岡田裕子さんの遺族である父・数雄さん(当時69歳)と妹の喜代子さん(同39歳)が克美茂と公開対面し、それを日本テレビが放送するという出来事がありました。
公開対面を希望したのは、「事件の真相を公開するのは裕子の名誉回復のため」と考えた遺族の側だったそうです。
公開対面での克美(右)
裕子さんの父(中)と妹(左)
(『FOCUS』1983年11月11日号)
対面を伝えた雑誌によると、「克美はただひたすら謝り、ひたすらに絶句し」、遺族としても最後には「本当の更生の道を歩んでください」と声をかける以外にはなかったそうです。
しかし、裕子さんの遺族から「更生の道を」と諭(さと)された克美ですが、1989年に覚醒剤取締法違反で逮捕されるなど不祥事もあって、復活を果たすことができないまま、2013(平成25)年2月に75歳で死去していたことが10月になって報じられました。
最後の最後まで、どうしようもないクズ男ぶりから抜け出すことのできなかった克美茂でした。
朝日新聞(1989年5月12日)
朝日新聞(2013年10月2日)
妻子からは安らぎを「愛人」からはカネをと、異なるタイプの女性を自分に都合よく利用した克美茂というクズな男が、「カムバック」の夢を断たれ殺人の罪を背負って残りの人生を送らねばならなくなったのは、あまりにも当然の報いです。
けれどもどうにも納得できないのは、東京地裁が克美に対して大幅な情状酌量を認め、前倒しの仮出所分も入れるとわずか7年の服役で自由の身になったことです。
また、芸能人仲間から嘆願書が出されるなど克美に同情的な見方が強く、逆に被害者の裕子さんの方に自業自得という批判的な声が寄せられました。
マスコミ報道でも裕子さんを、ことさらに「トルコ嬢」と呼んだり、「ストーカー」だと決めつけるものまでありました
東京地裁が被告の情状を認めたのは、被害者である裕子さんにも落ち度があったと認めたことを意味しています。
裁判の判決書が入手できなかったので、本で紹介されている限りですが、裕子さんにも落ち度があるとされたのは、一つは克美に妻子があることを知りながら近づいて「妻の座」を狙ったことであり、もう一つは克美に執拗に結婚を迫って、週刊誌に通報するとか妻と決着をつけるなどと脅し、また気の進まない克美に「結婚式」まで挙げさせたことだそうです
そうしたことから「本事件を独り克美の責めに帰すのはむごいともいえる」と裁判所は判断したのです
今の時代であれば、裁判官と克美に同情的な人たちは、克美と同じ男の身勝手な目線で事件を見ていると感じるのは小川だけではないでしょう
妻子ある男性に近づいたことが女の罪であるなら、妻子がありながら女に近づいたのは少なくとも同等に男の罪でしょう。そして、裕子さんはその結果自らの命を落としているのです。にもかかわらずなぜ被害女性の罪だけをことさらに取り上げ、裕子さんの命を奪った克美には情状を汲んで減刑しなければならないのか、まったく理解できません。
今でも芸能人などの不倫が発覚すると、女性が強くバッシングされるのに男性の方はなんとなくスルーされてしまうという女性差別のダブルスタンダードが根強くありますが、この事件の判決からは裁判所までがその視点に立っていたと思われます。
また、女が男に結婚を迫るという場面で、迫られた男が被害者で強引に迫った女の方が加害者であるかのような男に同情的な見方も、まったくの女性差別です。
前回の大場事件のブログで書きましたように、1970年代は女性の人生がまだ結婚という枠に縛られていたことから、裕子さんも結婚や「妻の座」に過度に執着した面はあったでしょう。けれども、男の方もそうした女性の気持ちを知っているからこそ、結婚をほのめかしてカネを貢がせるようなことをしたのです。結婚を期待して男に献身した女性が、約束の履行を強く求めるのは当然ではないでしょうか
裁判所の判決は、「たとえ冷たくされても捨てられても、ひたすら耐えて愛する男を陰で支える健気な女」という、昔の演歌にあるような男に都合の良い妄想的女性像を基準にして、泣き寝入りしない「気性の激しい女」をむしろ男性への加害者のように捉えていると言わざるを得ません。
裕子さんの生き方については賛否両論があるとは思いますが、殺害の責任に関する限り「独り克美の責めに帰しても決してむごいとは言えない」でしょう。
裕子さんが克美に同情的な裁判の判決やマスコミ報道によって2度殺されたことに、小川は強い憤りを覚えるのです🥺
・深井一誠「歌手・克美茂が語る「私が愛し、殺したトルコ嬢」」『新潮45』2005年6月号
・斎藤充功・土井洸介『情痴殺人事件』同朋舎出版、1996
・『週刊 平凡パンチ』1976年5月31日号