1959年スチュワーデス殺人事件(続)

 

 

事件の概要は前回のブログに書いていますニコニコ

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被害者の武川知子さん

 

朝日新聞(昭和34年3月12日)

 

この事件には多くの謎があり、最重要容疑者の出国=国外逃亡によって真相が解明されないまま闇に葬られてしまいました。

ベルメルシュ神父が武川さんの殺害犯であることはほぼ間違いないと思われますが、その背後にはベルメルシュが所属していたサレジオ会/ドン・ボスコ社や武川さんが入社したBOAC(英国海外航空・現ブリティッシュ・エアウェイズ)が関係する大掛かりな国際的犯罪が存在しているという見方もあります。

 

事実サレジオ会には、戦後の混乱に乗じまた日本の警察が手を出しにくい外国の組織であることを利用して、援助物資の横流しや密輸した闇ドルの両替で活動資金を不正に作り出していたという疑惑があり、またBOACも極東航路の乗務員が麻薬などの密輸を行っていたとして127人が事件の翌年(1960)に解雇されています。

 

前者にはドン・ボスコ社の会計責任者であったベルメルシュが関係していたでしょうし、後者には新人スチュワーデスの武川さんが巻き込まれようとしていた可能性があることから、ベルメルシュが武川さんをいわゆる「運び屋」にしようとしたものの拒まれたので、彼女の口を封じるため殺したといった推測がなされたのです。

それについて何が真実か判断できるだけの材料はありませんので、可能性として排除はできないながらも結論は保留せざるをえません。

 

 

朝日新聞(同年3月13日)

 

ですので私としては、事件の真相追求ではなく、武川知子さんという女性の生と死と彼女の無念の思いに焦点を当て、分かる範囲で想像を交えながら考えてみようと思います。

 

【武川知子さんの生と死と無念の思い】

前回のブログでも書いたように、武川(たけかわ)知子さんは1932(昭和7)年に兵庫県芦屋市に会社経営者の娘として生まれ、何不自由ない生活を送っていた。両親がカトリック信者であったことから彼女も幼児洗礼を受け、兵庫県宝塚市にあるカトリック聖心会のミッションスクールである小林(おばやし)清心女子学院に通っていた。ところが高校生活の半ばに父親が病で倒れ会社も人手に渡ったことから、彼女の人生は暗転する。

 

「もはや戦後ではない」とは、1956(昭和31)年度の「経済白書」の言葉であるが、武川さんが高校を卒業した1950(昭和25)年はまだ戦後の混乱が収まらぬ時代である。そうした中で彼女は、親にはもはや経済的に頼れない自分の将来をどうするかと考えたのだろう。当時の女性の職場といえば繊維工場の女工さんなどが典型的で、何年か働いて結婚退職するというのが一つのパターンだった。しかし武川さんは、資格の必要な専門職である看護師になろうと、同年に開学したばかりの聖母女子短期大学(カトリック系、東京都新宿区)に入学した。

 

短大を卒業した武川さんは実家に戻り、看護師として神戸万国病院(カトリック系、現在の神戸海星病院)に就職する。しかし彼女はまもなく勤め先を変わり、さらに上京してベルメルシュ神父と出会うことになるサレジオ会系の「聖オディリアホーム」へと転職する。

度重なる転職の理由をノンフィクション作家の朝倉喬司氏は次のように書いている。

 

「このように職場を転々としたのには、はっきりした理由があった。知子は行く先々の病院で医者や患者と深い仲になり、噂を立てられて居づらくなるということをくり返していたのである。」

 

武川さんがどれだけ熱心なカトリック信者だったのかは分からないが、彼女が関係した学校や勤務先がすべてカトリック系であることからすると、ただ形だけの信者ではなかったのだろう。

その一方で朝倉氏の言うのが事実だとすれば、武川さんは男女の交際に対して厳格なカトリックの教えには縛られず、自分の欲求や感情に正直に行動するタイプだったようである。あるいは短大卒業までずっと女子校で過ごした彼女の恋愛への憧れが、社会に出て一気に花開いたという面もあったのかもしれない。

 

朝倉氏が言うように、武川さんに複数の男性との交際があったことは事実だとしよう。しかし、死後の解剖に立ち会った捜査幹部が雑誌のインタビューで、被害者は性的経験が豊富で「相当遊んでいた様子でした」と語った(朝倉本)というが、武川さんが「遊んでいた」と決めつけるのは、「性的経験がある=遊んでいる」という女性の性に対する男性の偏った見方である。そのようなことを捜査関係者が雑誌で無神経に公言するのは、被害女性を冒涜するものではないか。

 

それはともかく、東京の乳児院への武川さんの転職は、当時付き合っていた矢崎猛さんという歯科医との結婚を両親から猛反対された(彼がプロテスタントの信者だったことが理由か?)からだと言う。矢崎さんに対する武川さんの思慕は「結婚できんのやったら死ぬ!」と口走るほど熱いものだったようで、しばらく「ほとぼりを冷ます」ために距離を置いたものの、実際には彼女の上京後も二人の関係は続いていた。

 

ところがその後、彼女の方からスチュワーデスになって再出発したいと矢崎さんに切り出して別れたという。とすれば、上京後にベルメルシュ神父と出会い、最初は尊敬できる相談相手であったのが、やがて彼女の気持ちは恋愛感情に変わり、BOACの受験話が出るあたりから急速に関係が深まったのではないかと推測される。

 

矢崎さんとの関係を清算してベルメルシュへと恋心をつのらせながらも、彼がカトリックの司祭である限り結婚できないことは明白である。そこで彼女にとっては不本意であっただろうがそうした関係を受け入れつつ、当時の女性にとって憧れ以上の「高嶺の花」であったスチュワーデスとしての仕事に生きるという覚悟を武川さんはしたのではないか

 

念願の初フライトを目前にして、武川さんとベルメルシュとの間に何があったのか。遺体の膣内に残った精液がベルメルシュのものだとすれば(血液型が一致)2人は性行為をし、彼が買ってきた高級食材の松茸を使った中華料理を自炊して一緒に食べていることや、ずさんな死体遺棄の仕方などから見ると、殺害は計画的というより偶発的なものだった可能性が高いように思われる。

 

ここからは私のまったくの推測だが、武川さんがいわゆる「恋多き女性」だったとしても、相手かまわぬルーズな女性だったとは思えない。それに対してベルメルシュは、聖オディリアホームの女性たちが証言するように、体調を悪くして寝ている女性の布団の中に手を入れ下半身を触ろうとまでするような、性欲のコントロールが効かない人間である。さらに「外人さんのお妾さん」と近所の人が噂する女性もいたという。

 

   

ベルメルシュと武川知子さん

 

武川さんもベルメルシュについての悪い噂はホームの同僚から聞いていたようだが、「恋は盲目」と言われるように、自分だけは特別だと思い込もうとしていたのではないか。

しかし、スチュワーデスとして人生を再出発させようと決意した武川さんは、これを機にベルメルシュに対し自分への誠実さを強く求め、もしかしたら不実の疑惑を勇気を奮って問いただしたのかもしれないその結果……

 

それでも、武川さんの下着に別の男性の精液が付着していたことから、その場に共犯者がいたのではといった謎など、不明な点も多く残る

 

出国後、毎日新聞に「感想文」を寄せたベルメルシュ(同年6月)

 

サムネイル

小川里菜の目

 

女性の社会進出という言葉すら無かった時代に、与えられた運命を受け入れながらもそれにただ身を委ねるのではなく自分の気持ちに正直に自らの人生を懸命に切り拓こうとした武川知子さんという女性の生と死を、また期待と不安を胸に大きく一歩を踏み出そうとした矢先に命を奪われてしまった彼女の無念の思いを、小川は想わずにおれません🥺

 

一方ベルメルシュは96歳まで生き、

2017年3月17日に死去した

 

(終)

 



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