昭和に起きた教師・指導者による暴力事件㉒

 

神戸高塚高校校門圧死事件①

 

 

厳密に言えば昭和の事件ではないが、昭和の管理教育の流れにおいて生じた重要な事件なのでここで取り上げようと思う。事件があまりにも衝撃的だったことから、当時マスコミも大きく報道して社会の注目を集めたし、30年余りが経った今日でも追悼の集いがもたれたり、あるいは新たにネットで取り上げられたりもしている。したがって、どういう事件かについては既によく知られているとは思うが、ブログを書くにあたって最初にその概要をまとめておきたい。

 

事件を伝える『朝日新聞』1990年7月6日付夕刊(大阪本社版)

 

【事件の概要】

期末試験の初日だった1990(平成2)年7月6日、神戸市西区にある兵庫県立高塚高校で、登校して来た1年生の石田僚子さん(当時15歳)が、遅刻指導にあたっていた細井敏彦教諭(同39歳、社会科)が安全確認もせず勢いをつけて閉めようと押した正門の鉄製の門扉とコンクリートの門柱(壁)の間に頭を挟まれ血を流して倒れた。「頭蓋底粉砕骨折による脳挫滅」でほとんど即死状態だった僚子さんは、病院に搬送されたが間もなく死亡が確認された。

 

現場検証をする捜査員(神戸新聞)

 

容赦ない「校門指導」

高塚高校では生徒指導部を中心に校則による生徒管理を厳しく行なっており、特に遅刻者を厳重に取り締まるため全教員が3人1組のローテーションで登校時の校門指導にあたっていた。校門指導では、その朝の担当教員がカウントダウンしながら朝8時30分ちょうどに引き戸式の門扉(重さ230キロ)を閉め始め、それにわずかでも遅れた生徒には「400メートルの校庭2周」の罰則が課せられた

 

駅からの通学路

 

最寄の神戸市営地下鉄「西神中央駅」から学校までは徒歩15分弱の見通しの良い一本道なので、教員の中には8時35分からの朝礼に間に合う電車を降りて駆け込んで来る生徒は、時間が過ぎても全員入れてから門扉を閉める人も少数ながらいたそうだ。しかし、1秒たりとも容赦しない教員が多数だったし、自ら望んで生徒指導係をしていた細井のように、8時30分の予鈴が鳴り始める時点で門を閉め切ろうとする教員も数名いたという。

 

重さ230キロもある鉄製の門扉

 

そうした容赦なさの背景には、当時の校長・野村穆夫[あつお](同59歳)の「欠席・遅刻は非行の芽」であり厳しく取り締まるという校則厳守の管理方針があり、さらにその背後には1976-77(昭和51−52)年に兵庫県教育委員会教育長であった小笠原曉[さとる]が「教育にきびしさを」をスローガンに推進した学校の秩序維持・管理強化を重視する路線があった。

 

学校・教委の責任回避と自己保身の卑劣

前回のブログで、暴言と体罰による「指導」を確信犯的におこなっていながら、生徒の自殺という問題が発生すると、一転して嘘と詭弁による自己弁護・自己保身に走った山内浩の卑劣さについて述べたが、この事件でも起きた直後から学校当局ならびに県教育委員会はひたすら事実の隠蔽と責任逃れ、そして細井敏彦個人の過失としてすべての責任を押しつけようとする卑劣な態度を取り続けた。

 

それらについてはあらためて見ることにするが、学校のやったことは、①その朝校門で何が起きたか僚子さんがどうなったかを生徒たちに隠し命に別状ないとごまかして期末試験をそのまま行う、②所轄の玉津署に事件を知らせず(僚子さんの死亡を確認した病院が警察に通報)、その一方で警察官が検証に来る前に現場の血を洗い流し証拠隠滅が疑われるような行動をとる、③事件について開いた全体保護者会では声が漏れてマスコミに聴かれないよう大音量の音楽を外に向けて流した上に、話の内容を外部に漏らさないよう保護者に圧力をかける、④警察の事情聴取を受けた生徒(目撃者)には何を話したか作文にして提出させるなど、自己保身のためではないかと思われる対策ばかりであった。

 

教育委員会はというと、警察による捜査結果もまだ出ていない事件からわずか20日後、7月26日の臨時委員会で急いで細井敏彦を懲戒免職処分にした。異例中の異例の措置である。細井一人の過失責任だという県教委のアピールであり、教委に責任追及の矛先が向けられることを避けるための「トカゲの尻尾切り」であることは明白である。そうしておいて清水良次教育長には「訓告」教育次長2人には「厳重注意」という法的な懲戒処分(最低でも「戒告」)にすら該当しない軽い措置でお茶を濁したのである。

ちなみに野村校長には懲戒処分で最も軽い「戒告」の上、出された辞表を受理して依願退職(退職金が支払われる)を認めた。富田忠行教頭は「訓告」とされたが、当日細井と一緒に校門指導にあたっていた2人の教師には何の処分も課されなかったし、このような厳しい校門指導要領を作成して教員に実施を促した生徒指導部長・鎌田国夫教諭(同46歳)の責任もまったく不問に付した。

 

細井への刑事罰と「職務に従っただけ」との自己弁護

懲戒免職の行政罰に加えて業務上過失致死の罪で刑事裁判にかけられた細井敏彦に対し、1993(平成5)年2月10日に神戸地裁は禁錮1年の有罪判決を下したが、執行猶予3年がついたために彼が刑務所に収監されることはなかった。裁判で無罪を主張していた細井は判決に不満であったが「自分と家族のこれ以上の心労を考慮」して控訴せず、判決が確定した。

なお、僚子さんの遺族に対しては兵庫県が6000万円の賠償金を支払った。

こうして事件は、細井敏彦一人が責(せめ)を負う形で幕引きがなされたが、それに不満な細井は、判決から2ヶ月後の4月20日に、自らの行為を自己弁護する著書を出版している。

 

(続く)

 

 

 

〈参照資料〉

・日垣隆『閉ざされた回路―神戸「校門圧死」事件の深層―』銀河系出版、2016

・保坂展人&トーキング・キッズ編『先生、その門を閉めないで 告発●兵庫県立神戸高塚高校圧死事件』労働教育センター、1990

・細井敏彦『校門の時計だけが知っている 私の[校門圧死事件]』草思社、1993

・週刊『アエラ』1990年8月14日号、「「体感指導」という生徒圧殺の機構 兵庫県立神戸高塚高校事件」

・武田さち子「子どもたちは二度殺される【事例】」

 http://www.jca.apc.org/praca/takeda/number/900706.html

・「神戸高塚高校校門圧死事件」(教育資料庫)

 http://kyouiku.starfree.jp/d/post-7169/

・「高塚門扉」WEBサイト

 https://takatukamonpi.org

・「神戸高塚高校事件を考える会」WEBサイト

 http://www10.plala.or.jp/takatuka/

・「神戸高塚高校校門圧死事件の犯人・細井敏彦(教師)の現在!裁判と判決・その後も総まとめ」(MATOMEDIA)

 https://newsmatomedia.com/death-pressure