昭和に起きた教師・指導者による暴力事件⑲

 

岐阜県立中津商業高校体罰自殺事件②

 

17歳で命を絶たれた竹内恵美さん

 

【事件の概要】(その2)

岐阜県立中津商業高校2年生の竹内恵美さんは、山内浩教諭が顧問を務める同校陸上競技部で、その年の同学年で全国第3位の記録をもつやり投げ選手であった。

恵美さんの優れた素質を認めた山内は、入学以来とりわけ彼女を厳しく指導したが、その「特別指導」なるものは、あたかもムチを振るって動物を調教するような「しごき」であった。

 

①暴力と全否定の「指導」

まず山内は、思うように記録が出ないといっては恵美さんらに体罰をふるった。

親友で同じ陸上部の竹村ゆかりさんは、「いい記録が出ないと、竹やりや棒で叩かれたし、正座なんかどれぐらいさせられたか分からない。グラウンド、体育館、体育教官室……そこら中で、〝正座せい〟といわれました」と証言している。

 

練習用の竹やり

 

ゆかりさんによると叩かれる以上に辛かったのは、どんなに良い記録を出しても山内は選手をほめたり一緒に喜ぶようなことは一切なく、「どうしてそれだけしか投げられん!」と否定するばかりだったことだという。

 

暴力と暴言で精神的に追い詰められ沈み込む娘を見るに見かねた母親の美智子さんは、1年生の9月ごろ山内に、「できるだけ暴力はやめてほしい。口で注意したり、たまにはほめて下さると、喜んで今度こそがんばるぞと思うんじゃないでしょうか」と頼んだことがある。ところが山内の返事は、「すばらしい記録というものは、ほめたりおだてたりしても出ない。その一つの方法として、やはり殴らないと」と暴力は指導の方法として必要だというものだった。

 

②記録の代償

懸命な練習の甲斐あって恵美さんの記録は伸び、秋の県新人戦では同校陸上部として初めての優勝を果たした。

 

競技会で力投する恵美さん

 

しかしその「すばらしい記録」と引き換えに彼女の中で大切な何かが壊されようとしていたことを、その時には本人もまだ気づいていなかったに違いない。

 

投てき選手にとって体重をつけることは記録にも直結することから、山内は恵美さんらにとにかくたくさん食べるよう指示し、食べられないと体罰をふるった。2年生の夏の校内合宿での出来事をゆかりさんは次のように証言する。

「昼食が終わりかけた頃、〝何杯食った?〟と聞かれました。恵美も私も一杯しか食べていなかった。夏場は激しく汗をかくから胃腸が弱って、そんなに食べられないんです。すぐ〝正座せい〟といわれ、〝そんなことでは一年生にしめしがつかん〟と、竹やりを半分程の長さに切った棒で頭を叩かれました。数えられないぐらい。痛かったです。竹やりはだんだん割れて、最後には私の頭の上で飛び散った。

その後、マネージャーに〝残った分を全部握り飯にして持ってこい〟といい、ボールのようなおにぎりを食べさせられました。梅干しを食べながら水を飲んで流し込んだんです。私が6つ食べさせられ、恵美は5つでした。」

アスリートの体づくりに栄養素やカロリーを綿密に考慮した食事が重要なことは事実だろう。しかし、このように暴力で脅しながら米の飯(炭水化物)だけを大量に胃に流し込ませるような乱暴きわまることは「食事指導」などではなく虐待であり、他の部員への見せしめのためにする暴行とすら言えよう。

 

③「遊び」を認めない指導者

車をスムーズに運転するにはハンドルに「遊び」(ハンドルのわずかな動きではタイヤの動きに影響しない余裕)が必要なように、適度な余裕を設けることは勉強においても仕事においても能力の発揮と心身の健康に必要不可欠である。

たとえば、1964(昭和39)年の東京オリンピック女子バレーボールで金メダルを獲得し、「東洋の魔女」と呼ばれた選手たちを育てた大松博文監督は、「鬼の大松」と呼ばれた「特訓」(回転レシーブを習得するための特別訓練)で知られ、人権侵害との批判も浴びた。その大松でさえ厳しい練習の一方で、月に一度は選手全員を連れて大阪の繁華街に繰り出し、彼女たちのリクエストした映画を一緒に見てからレストランでフルーツポンチやチョコレートパフェをご馳走したという。

 

しかし山内は、部員の生活・行動をガチガチに縛り、それに外れることがあれば容赦なく制裁を加えた。とりわけ恵美さんら有力選手に対しては一切の「遊び」を認めず、すべてをやり投げの練習に捧げるように、つまりは山内に絶対服従するよう求めた。

 

先にあげた校内合宿が終わってから、部員には最寄りの中学校などで3日間の「自主」トレーニングが課された。しかし、恵美さんとゆかりさんは、せめて1日だけは「高校生らしい夏休み」を過ごしたいと、トレーニングをさぼって映画を見、バンドのライブを楽しんだ。

 

練習ばかりでまったく余裕のない日々に彼女たちが「自主」的に設けたささやかなリフレッシュのための「遊び」だった。ところがそれを山内に知られてしまったのである。

 

翌日、謝りに行った恵美さんに山内は、「俺への感謝の気持ちがこれっぽっちもない。家でも俺のことを悪く言ってるんじゃないか、お前の所はそんな家だ」と、関係ない家族のことまで持ち出して厳しく叱責した。

 

 

④悲壮な覚悟

翌日の早朝、恵美さんは家出をする。その時の気持ちを彼女は親友のゆかりさんに次のように語ったという。

「たしかに、練習をさぼった私がいけないと思う。だから、すぐに謝りに行ったんやけど。なぜ先生は、あそこまで言ったりしたりするんだろう。親とか家は、陸上とは関係ないでしょ。一年の時からずっと、私はぎりぎりの努力を続けてきたつもりやけど、先生はどうしてたった1日のことを許さんのかな。」

 

渥美湾の海を見ながら彼女は、「これ以上先生について行くのが無性にいやになってしまった」と思いつつ、国体出場が迫っている今、退部するわけにもいかず、いっそ高校を退学しようかとも考えるが、「お金持ちでもない親にそんな勝手なことはよういえん。身動きできないところまで来ちゃったな、とつくづく思った」という。追い詰められた恵美さんは、「これ以上悩まないですむ方法もあるな、もう楽になりたいな」と「気がついたら、陸橋の上に立って下を走る列車を見ていた。その時に、お母さんの声が聞こえたんだ。えっちゃん、そんなことをしたらいかんよ、早く帰っておいで、って。その途端、まだ死にたくない、と思った」のである。

 

一日限りの家出から戻った恵美さんは、翌日から練習を休み、退部の意思をゆかりさんに話しながらも、4日目には「一からやり直したい」と陸上部に復帰した。彼女の強い責任感や親への気遣い、山内や学校の期待に応えなければという思いから、もう抜けることも引き返すこともできないところまで自分は来てしまったと覚悟を決めたのだろう。その健気(けなげ)さが彼女自身を死へと追い込むことになる

 

⑤さらに追い詰める山内浩

必死の覚悟で練習に復帰した恵美さんに対し、山内はさらに容赦ない言動で追い詰める。

ちょうどその時、有望な一年生の女子やり投げ部員が「陸上部のスパルタ指導がつくづくいやになった」と退部する「事件」が起きた。山内はそれを、恵美さんが自主トレをさぼったことの悪影響だと決めつけ、2時間近く叱責した末に「責任を感じるなら、土下座して謝れ」と迫り、床に頭をこすりつけて謝らせている。

 

しかし山内の鬱憤晴らしのような体罰はそれだけでは終わらず、3日後の練習でも恵美さんがうまく投げられないことや、退部を止められなかったことなどを理由に、試合用のやりのジュラルミンの穂先で恵美さんの頭を「バシッ、バシッ」という音が30メートル離れたゆかりさんにも聞こえるほどの勢いで叩き、恵美さんの頭頂部はみみず腫れに内出血して洗髪もできないほどの傷を負わせた。そのほか、事あるごとに山内は、恵美さんに対して顔面が腫れ上がり目の周りが黒ずむまでに殴るなどの体罰を加え続けた。

試合用やりのジュラルミンの穂先

 

部に復帰してからの恵美さんから笑顔が消え、こわい顔で考え込んだり放心したようにぼんやりするなど、うつの症状ではないかと思われる異変を多くの部員が感じていたという。恵美さん自身、気持ちが集中せず緊張して思うように投げられない自分にあせり、秋の国体やジュニア・オリンピックも、優勝候補にあげられながら満足のいく成績を残すことができないまま終わった。

 

その後も修学旅行先で朝練に遅れたといってはコンクリートの床に正座させ、太ももが黒く内出血するほど蹴りつけるなど、山内の体罰は続いた。

 

さらに、学力的には余裕のあった恵美さんだったが、心身ともに疲れ果てる毎日に部活と勉強を両立させることが次第に困難になっていく。そして3年生への進級を前にして計算実務という科目に落第点をとった恵美さんは、山内から県陸上競技協会主催の強化合宿に参加させずやり投げの練習もさせないと言い渡され大きなショックを受ける。

 

⑥恵美さんの自殺ー「もうダメなの、もうイヤなの」

そうして迎えた死の前日の3月22日、恵美さんは同科目の追試験に合格したものの、山内と担任教師から合わせて5時間近くも直立不動のまま昼食も抜きに罵声を浴びせられて叱責された

 

家に帰った恵美さんは、母親に歯型がついて紫色に変色した舌を見せ、「山内先生に叱られて、すごく悔しかった。だから、こうして舌を噛みながらこらえとったんや」と言った。

恵美さんはすっかりふさぎ込んだ様子で、大好物のから揚げの夕食も食べずに自室にこもったままだった。心配した父親が声をかけに行くと、「もう少ししたら行く」と言ったものの、恵美さんが部屋から出てくることはなかった。

 

そして3月23日の午前5時ごろ、もしかすると朝練に行くかもしれないと思った母親が部屋に起こしに行くと、恵美さんはタンスの取っ手にかけた紐で首を吊り、既に亡くなっていた

 

恵美さんの葬儀で遺族から「恵美に何か言うことはないか」と問われた山内は、「今はバカとしか言えん」「死人にクチなしや」「人の噂も75日」と言い放ったという。

 

(続く)

 

 

竹内恵美さんの遺書

 
お父さん……お母さん……私はつかれました
もうこれ以上に逃げ道はありません
 
なんで他の子は楽しいクラブなのに私はこんなに苦しまなくちゃいけないの たたかれるのも もうイヤ 泣くのも もうイヤ…… 私どうしたらいいのかナ
 
だから もうこの世にいたくないの
ゴメンネ お父さん お母さん……
私……本トにつかれたの……
 
もう……ダメなの
もう イヤ なの
 
私…そんなに強くないの
ゴメンネ
 

 

〈参照資料〉

・塚本有美『あがないの時間割 ふたつの体罰死亡事件』勁草書房、1993

 

 

 

 

・武田さち子「子どもたちは二度殺される【事例】」

 http://www.jca.apc.org/praca/takeda/number/850323.html

・教育資料庫「岐阜県立中津商業高校「体罰」自殺事件」

 http://kyouiku.starfree.jp/d/post-7370

・吉井妙子「「大松監督は女性の敵」根性バレー大批判の中で生まれた東洋の魔女の代名詞“回転レシーブ”」 https://bunshun.jp/articles/-/51209?page=3