昭和に起きた教師・指導者による暴力事件⑱
 
1985年 岐阜県立中津商業高校体罰自殺事件①
 
【事件の概要】(その1)
高橋利尚君のドライヤー体罰死事件が起きる2ヶ月足らず前のこと、1985(昭和60)年3月23日に、同じ岐阜県の県立中津商業高校で、陸上部の顧問であった山内浩教諭(体育科、当時46歳)から日常的に体罰や叱責、暴言を受けていた同部2年生の女子生徒・竹内恵美さん(同17歳)が自殺するという事件があった。
 

体罰を苦に自殺した竹内恵美さん
 
遺書
死後に通学用カバンから、8分の1に切ったわら半紙に鉛筆で書かれた遺書が発見されたが、そこには次のように書かれていた。
 

竹内恵美さんの遺書

 
お父さん……お母さん……私はつかれました
もうこれ以上に逃げ道はありません
 
なんで他の子は楽しいクラブなのに私はこんなに苦しまなくちゃいけないの たたかれるのも もうイヤ 泣くのも もうイヤ…… 私どうしたらいいのかナ
 
だから もうこの世にいたくないの
ゴメンネ お父さん お母さん……
私……本トにつかれたの……
 
もう……ダメなの
もう イヤ なの
 
私…そんなに強くないの
ゴメンネ
 

 

やり投げに打ち込んだ恵美さん

子どものころから人一倍走るのが速く、中学校ではソフトボール部のキャプテンも務めたスポーツ大好きの竹内恵美さんは、中津商業高校の入試の翌日には先輩に誘われて陸上部の練習に参加している。そして5月にやり投げを専門種目にすると決まってから、陸上部顧問である山内教諭の厳しい指導のもとで練習に励むことになる。
 
スポーツ選手としては小柄ながらバランスの取れた体格と筋力、運動能力に恵まれた彼女は、みるみるうちにやり投げ選手としての頭角をあらわし、入部わずか半年後の秋の県新人戦で優勝するまでになった。学校のみならず県陸上界の期待の星となった恵美さんは、有望選手に課せられる特別厳しい練習によく耐え、2年生になってからも県高校選手権大会で優勝し、全国の高校生やり投げランキングで16位になった。
 
 
しかし、夏のインターハイ東海地区大会、秋の国体とジュニアオリンピックに出場を果たしたものの、いずれも期待された結果が出せずに終わった。それは、恵美さん自身の未熟さややり投げという競技自体の難しさだけでなく、山内による異常なほど「厳しい指導」がもたらした結果でもあったのではないだろうか。
 
恵美さんを自殺に追い込んだ山内浩とは
1939(昭和14)年生まれの山内浩は、高校在学中からやり投げで全国大会優勝、その後もインターカレッジで優勝しオリンピック選手候補にもなったやり投げでは有名なアスリートであった。中津商業高校に着任後は陸上部顧問として部のレベルを飛躍的に引き上げ、多くの県・全国大会での優勝・入賞選手を育てた。同時に彼は、中津商業の「第2生活指導部」とも言われた体育科教師グループのボスとして、同校の管理・体罰体制を担う中心人物でもあった。
 
山内の専制的・暴力的な「指導」
体育の授業でも山内は、うまくできない生徒を竹刀で叩いたり「この豚野郎」など暴言を浴びせるのは日常的で、膝を痛めて診断書を出しているにもかかわらずそれを信用せず、無理に400メートルトラックをウサギ飛びさせ、手術をしなければならないまでケガを悪化させるなど、根性論むき出しの暴力的な「指導」ぶりだったようだ。
 
校則違反者への容赦ない体罰
校則違反への体罰は特に厳しく、髪をカールしていたことを注意された女性生徒が翌日に直した髪を見せに行ったが、「直っていない」「直しました」と押し問答になったため、その態度が気にくわないと山内は彼女の髪の毛をつかんだまま体育教官室から体育館を引きずり回し、あげくの果てに「頸部捻挫、腰臀部打撲、左膝部打撲により約20日間の安静加療を要す」という診断書が出るほどのケガを負わせたこともある。
 
同僚の教職員にも向けられた暴力
山内の暴力は生徒だけにとどまらず、同僚の教職員に対しても向けられ、恵美さんの裁判での証人尋問で本人が認めただけでも、女性教諭を蹴飛ばし、男性教諭をこぶしで殴り、事務局長を殴って転倒させるなど、3件の暴力事件を学内で起こしている
 
山内をかばい増長させた学校
ところが、生徒を管理し学内秩序を維持する要であり、また商業高校の生き残りをかけたウリとなる部活動の実績に貢献している山内をかばうため、歴代の管理職がそのつど被害者に謝り裁判沙汰にしないよう説得して事をおさめてきたという。もともと自分の気に入らないことがあると相手構わず激昂して暴力を振るう性格の山内を、そうした学校の姿勢がますます増長させたことは容易に想像できる。
 
死へと追いつめられた恵美さん
山内のやり投げ選手としての実績に憧れと尊敬の気持ちを抱き、何があっても彼についていこうと決意し必死に努力し続けた恵美さんが、ついに死を選ぶところまで追いつめられていくまでには、どれほどの暴力と人格否定の暴言が山内から彼女に加えられたのか
 
遺書とは別に彼女が書いていた日記帳が見つかっているが、死の前日(3月22日)に書かれた日記には友人たちへの別れの言葉とともに、山内について次のように記されている。
 
私は、先生が好きだったけれど、何も恩がえしが出来んかった。おればおるほど迷惑かけてサ…人より多く感謝していたけれど、私はすかれなかった。
この道は逃げるような形ですが、これ以上どうしたらいいかわからない。

 

死ぬしかないと思うまでに心身ともに追い詰められながら、なお自分だけを責めて「指導」者への謝罪と感謝を述べる……恵美さんがもう少し自分の置かれた状況を客観視できたなら、死ぬ以外の「道」を考えることができたかもしれないのに、そうはさせない絶対的な主従関係が、山内の専制的な暴力をベースにして、洗脳したかのように恵美さんを縛っていたのではないだろうか。
 
(続く)
〈参照資料〉
・NHK取材班+今橋盛勝『体罰』日本放送出版協会、1986
・塚本有美『あがないの時間割 ふたつの体罰死亡事件』勁草書房、1993
・武田さち子「子どもたちは二度殺される【事例】」
 http://www.jca.apc.org/praca/takeda/number/850323.html