昭和に起きた教師・指導者による暴力事件⑬
 
【風の子学園事件④―学校や自治体は何をしたのか②】
 
しかし入所した当日(1991年5月2日)、入所後1ヶ月は家族と接触しないという禁を破ってA君はひそかに自宅に電話をし、「ここから逃げる!」と母親に話したそうである。
 
学園が聞かされていたようなのどかな場所とはまったく異なることを、A君は早くも感じ取ったのだろうか。
 
ところが、電話をしたことが園長に見つかったA君は、いきなり「断食」と称して10日間もコンテナに監禁される。
 
 

 
 
 
その間に3回、お粥と酢の物を与えられた以外は水も食事もなしにである。3ヶ月足らず後に自分がここで命を落とすことになるなど、この時のA君は想像もしなかっただろう。
 
コンテナから出されたA君は、ブログ⑪で述べたような粗末な食事で朝から晩まで肉体労働に従事させられたが、その収入はすべて坂井園長の懐に入った。
 
園の案内パンフレットにうたわれていた「ヨット、手旗信号の訓練、魚釣り、海洋気象の学習」などは最初からいっさい行われなかった。
 
 

 
 
だまされたと思ったA君は、B子さんC子さんと一緒に脱走をくわだてる。
 
しかし、島を出るために必要な船を頼むお金も持たない子どもたちは、定期便のフェリーを待つ間に園長に見つかり、脱走した罰として別々に監禁された。
 
それにしても、このように強制労働と内省と称する体罰(監禁)以外に何もしない「風の子学園」に、なぜ教諭や指導主事はわずかでも不審の念を抱かなかったのか、不思議でならない。
 

 

 
「腐ったみかんの方程式」
 
 
1980(昭和55)年に放送されたテレビドラマ『3年B組金八先生』で有名になった「腐ったみかんの方程式」がある。
 
箱にある一つの腐ったみかんを放置しておくと、他のみかんまで腐ってしまうので、できるだけ早く取り除かないといけないという話である。
 
ドラマで金八先生は、学校の「不良少年」をこうした考え方で追い出そうとする教師や大人たちを批判して、「われわれはみかんではなく、人間を作っている」と言うのだが、2020年になっても「西日本新聞」のコラム「春秋」(https://www.nishinippon.co.jp/item/n/639521/)が指摘するように、集団の秩序を乱す「異物」は有無を言わさず排除すべきだという考えは、決して過ぎ去った「昭和の遺物」ではなく、現在もなお存在している。
 

 

人間には、自分の関心や好みに合うものは焦点を当ててよく見るが、そうでないものは「目には入っていても見えない」傾向がある。
 
とすれば、「風の子学園」の実態がまったく見えなかった、あるいは見ようとする気さえなかった教諭や指導主事には、「腐ったみかんの方程式」のようにA君を学校からできるだけ早くやっかい払いことしか頭になかったのではないだろうか。

 

 

 

 

しかし、それだけではない。
 
息子から監禁など園のひどい状態を聞いて驚いたA君の父親は、坂井園長にA君の退園を申し出る。
了承したと見せかけながら坂井は、収入が減ることを恐れてすぐに退園を妨害しようとたくらむ。
 
姫路に出向いた坂井は、中学校長と少年愛護センターの指導主事に会いA君の退園には不安があると伝え、さらに指導主事を食事とカラオケスナックで接待した。
指導主事はそれを受けて、父親に退園を思いとどまるよう説得する。
また、坂井から同様の働きかけがあったのだろう、中学校の生活指導教諭も「校長と一緒に会いたい」と父親に連絡をし、退園を延期するよう説得している。
すでにその前に父親は、息子から聞いた監禁の話を生活指導教諭に伝えていたにもかかわらずである。
 
このように、学校や市教委の関係者が子どもや親に寄り添うどころか坂井の意向に沿って動いていたことから考えると、それまでにも坂井に接待されるなどしながら、両者は持ちつ持たれつの関係を築いていたのではないかと疑いたくなる。そうだとすれば、これは教育関係者としての明らかなモラル崩壊ではないか。
もちろん、坂井幸夫自身のモラル崩壊はその度を越している。
 
 

 
 
A君とB子さんが死のコンテナに閉じ込められたのは喫煙をとがめられてのことだったが、父親がA君を迎えに来る前日に、退園させないための罠として、坂井がわざとA君の目のつくところにタバコを置いたのである。
 
明日で園を出られるというA君の気の緩みもあったのだろうが、罠にかかったA君とB子さんを坂井は呼び出して喫煙をとがめ、コンテナに手錠でつないで閉じ込めた。
 
 
翌日、迎えに来た父親は息子がコンテナに監禁されていることを知って坂井に詰め寄ったが、喫煙した罰であり、今日の夕方にはコンテナから必ず出すと坂井が約束したために、その日はA君を連れ帰ることを断念して島を引きあげた。
 
父親が帰った直後に坂井は二人にコップ一杯の水を与え二人も泣いて謝ったというが、坂井は彼らを許さずに再び真っ暗なコンテナに閉じ込め、約32時間後にコンテナの扉を開けた時に二人は、口から泡や血をふいた凄惨な姿ですでに亡くなっていた。