南無阿弥陀仏と唱えることは、生きることへの感謝の表現である。

南無阿弥陀仏には、弾けるようなパンチはない。

西国浄土と言われるように、日没であり、心の鎮静化である。

能動的ではなく受動的である。

受動的であるところに、人間の生きる厭らしさから解放された、仏の落ち着きがある。

唱える言葉はどんな言葉でもよいのかもしれない。

心を落ち着かせる言葉であれば。

やらなきゃやられる。

主張しなければ主張される。

能動的であることが常に要求されるような世の中ではあるが、一番大事な心を忘れなければよい。

人は、主張し、獲得するために生きているのではない。

人は、人であることに感謝し、人でしかできないことをするために生きている。

心がこもったというのは、人にしかできない想いを持つことを言う。

人であるためには、想いを持ちたい。

動物と人を隔てるもの、それは想いを持つことにあるが、人は想いをなくして動物のように純粋には生きられない。

人は、想いによって、純粋さを作らなければ人として機能しない。

気がつけばすぐに忘れてしまう想いを、留めておけるのが生きるということだろう。フグクマノミうお座フグクマノミうお座船ダウン