親鸞・唯円の「歎異抄」にもある。
「善人ですら往生するのであるから、悪人が往生できないはずがない。」
ここでいう善人とは、自らを善人と思う自己正当化する者のことをいうのだろう。
自らを善人と思うほど質の悪いものはない。
自らを善人と名乗る者は自分を信じる力は強いが、他人を信じる力は弱いことを意味する。
浄土真宗とは他力本願を誓願とするため、自力の強いものほど往生しにくい(悟りにくい)ということになる。
本当の聖人には善悪の違いはなく、強いて言えば自らを悪人と称するであろう。
親鸞聖人がそうであったように。
人の行いはどこまでも醜いものである。
人として醜い身でありながら、善き行いをしようというのが、仏法、浄土真宗の教えであるかもしれない。
善人を名乗る者は、表面的な善人を名乗っているに違いない。
それはそれで正しいことだ。
確かに善き行いをするものは善人である。
しかし、表面から掘り下げてみると、誰しも悪人の感情を持つものだ。
そうでなければ人として生きられない。
人として真っ当に生きるために、見たくない自分を見ることも時には必要であろう。
目指すは善き行いをする悪人というところであろうか。
誰にでも、悪人として救われる道が残されているのであろう。
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なんで
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