私が住む田舎では、子供が結婚したような高齢者の方は口を揃えて言う。

今家に住むのは年寄りばかりであり、この先、この家は無縁さんになるかもしれないと。

親が亡くなった後に子供が戻ってくるというケースもあるだろうが、それほど多いケースでもないだろう。


また、夫婦での普段の会話はほとんどないとも言う。

会話とは、湧き出る水のごとく、行動、感情の裏に自然に生じるものだ。

安定して心静かなときには会話がないこともあるが、心が迷い、諦めたときにも会話がなくなる。

いずれも悟っているように見えるが、後者の場合には、執着の心が残っているはずだ。

人の感情、口は、自然体において自然に働くようになっている。

だから、一人でいるときに自然に言葉が発せられることがあれば、人と会えば自然に言葉を発したくなるものだ。

会話がなくなる根元は、世の中、相手を二元的に(良い悪いの分別の心で)捉えた証拠であり、これらを一元的?又は三元的?に(良い悪いを超越した心で)捉えるようにすれば自然と湧き水がごとく会話は生じてくる。

時に流されず、時と共に流れるという心は、至ってシンプルなものだ。

会話の輪に入れないというのは、話題に着いていけないということである。

興味がないか、知らないかである。

そのような会話の輪に入れないことを嘆く必要はない。

そのような会話も興味から自然に涌き出たものであり、湧き出ては流れて消えていくものだ。

親と子の間、世代の異なる間では、当然に興味や思考も異なる。

湧き出る水のように日常会話をすることは難しくなろう。

そんなときでも、二元的な考え方を一旦は止め、一元的又は三元的な考え方に切り替えれば、会話をすることは容易になる。

これが、言い換えれば相手の立場になってみるということであろうが、そんなことはたいした問題でもない。

自然に背かず、自然に従う人というのは、人間らしく行動する人のようで、全然人間らしく行動しない人のようでもある。

わんわんぐぅぐぅぐぅぐぅぐぅぐぅ UFO宇宙人ドンッ 霧 王冠2 霧