以前の私は、現状を変えようともがいていたわけである。

このままではいけない、もっと理想を追求しなければいけないなどと・・・・・・、思っていたわけだ。

誰にも理想はあるし、向上心もある。

その理想や向上心は、人生で最も長い時間を占める仕事の場で実現したいと思うであろう。

至極当然のことである。

このように思うことは健全なことだ。

ところが、私が目標としている仕事は、人として充実して働けることである。

人を中心に捉える仕事のあり方である。

生活をしていく上で稼げることが前提になることは言うまでもないことではあるが。

仕事の時間を、生きる実感が持てる時間にできるかは、自分の意識、心掛けによってかなり変わってくるものだ。

個人的に仕事ができる環境にあるために、切羽詰まらずに、意識をリラックスさせる若干のゆとりを作ることは難しいことではない。

働く人としての身体は、役割に徹したとしても、心は役割から解放して自由にしておくことができる。

人間関係が上手く行かなくなるのは、役割に集中して、心まで狭めてしまうことにあると私は思う。

働く人と、その人とを結びつけてしまう必要はないのだ。

働く人が役割であり、その人は役割を突き抜けた一つの魂である。

役割は、やる気を作り出すものだが、どこまでも排他的で可能性を求めるものだと言える。

可能性があっての人生であるが、いつでも可能性を追い求めるのでは、生きる実感は得られにくい。

必死でやることを探すのも、見方を変えれば小ざかしいことである。

今を改善するとか、新しいことを始めるとか、もっと人の役に立ちたいとか、欲求はいくらでも起こってくるものだ。

時には欲求の声に従い、時には欲求の声を忘れて生きたいものだ。

大きな満足を求めることも必要だが、小さな満足がなければ大きな満足には繋がらないだろう。

現状を変えようと必死にならなくても、現状に浸っていけば自然と変わってくることもある。

自由成果主義の嬉しさを活かせるよう競争原理に邁進しつつも、農耕民族たる私の遺伝子は競争原理に馴染まない。

適度に自由があって、適度に拘束されて、適度に嫉妬して、適度に拝む。

農耕民族である私が社会に適応するためには、必ずしも独立などの挑戦を必要とはしていないだろう。

競争原理のなかに魂のほとんどを費やしてしまうほど惨めなことはないと思っているのが、農耕民族である証なのかもしれない。

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