他人が持っている性質は、よほどでない限り自分にもあるはずだ。
他人の性質だと思って見ているものは、実は自分の性質であったりする。
自分の中にある一部の性質を、他人が再現したものに他ならない。
他人を見る眼は、他人を見ているのではなく、実は他人に自分を重ねて見ていたりする。
他人の性質が嫌だと思うことは実は自分のその性質を嫌だと思っているのだ。
自分にはそのような性質はないと信じたいのが人なんだ。
そうでなければ、嫌だと感じることもない。
他人のものではなく自分のものだと思うと、恐れることは何もなくなる。
怒りに支配されないために、自らの怒りの逃げ道を作るとでも言おうか。
一時的には怒ってもいいだろうが、一時に留めておいたほうがいい。
怒るのはほんの一瞬で丁度いい。
問題なのは、一時の怒りから自分をもっと強い怒りのなかに持ち込んでしまうことだ。
人は勝手に想像して怒りを強めてしまう。
怒りほど強いパワーを持つものはない。
だから、そのパワーをうまく逃す方法を体得しておかないと、自らをも蝕むことになってしまう。
他人を恨んでしまっては自分を恨むことになってしまう。
ここで、あえて恨むことによって別のパワーを生み出すということもある。
ある程度限られた目標のためには恨むことがやる気を生むということもある。
だが、その方法はあくまでも一時のもので、永続するものではない。
怒りとは、自分自身の性質に対する怒りである。
それが、たまたま他人が自分が嫌う表現を自分に向けてきたばかりに、その他人を嫌ってしまう。
人間である辛さはそこにある。
怒りとは切っても切れない縁にある。
怒りは人間を人間らしくするものでもある。
この世を仮想世界だと思えば、怒ることなど何の価値もないことに気づくのだが・・・・・・。
人間であるがゆえの愚かさを心得ておくだけでも、生きることは少しは楽になるだろう。
南無阿弥陀佛

