午前11時12分


 40分くらいバスに揺られると、隣町の七峰町に到着した。

 七峰町は、御鷹村とは山を挟んでいるだけなのに、とてもにぎやかだった。

 七峰も田舎といえば田舎なのだが、一通りの商店は揃っていると思う。

 御鷹にある“県立七峰高校御鷹分校”というのも、ここにある高校の分校なのだろう。

 隣町で、バスも出ているなら通えそうだが、冬場はよく山道が通行止めになるらしく、通うのは難しいらしい。

 バス停から、少し歩くと千里の入院しているという“馬森市立病院”に到着した。

 千里の病室は308号室。

 私はそこに向かった。

 エレベータで3階まで行くと、そのすぐ近くが千里の病室だった。

 病室の前に行くと、話声が聞こえた。

「――で、森口くん。何かかわりはありますか?」

「いえ、特には」

 千里と医者が話をしているようだ。

「今すぐにでも、退院してもいいんですよ?」

「い、いえ。もっと後で……」

「何故? 特に日常生活に支障はないようですが」

「怖いんです」

 え?

 怖い……?

 何が?

 私は息を殺して2人の会話に耳を傾けた。

「新しい世界が、怖いんです」

「森口くん、しかし外に出ることに挑戦すれば、回復への一歩が踏み出せるのですよ?」

「でも、怖いものは怖いんですよ……。もう……、もう二度と戻れなくなる気がして……」

 千里の声が震えているのがわかる。

 千里がおびえているものが何なのか、私にはよくわからない。

 “新しい世界“

 千里はそう言った。

 どういうことなのだろう。

 引越し先が御鷹であることかな……?

 でも、そんなにもおびえることなのだろうか。

 そもそも、骨折なんだから入院してなきゃダメなんじゃない?

 それなのに、医者は退院を勧めている。

 どういうこと?

 もしかして、千里は嘘をついてるの……?

 

 まさか、そんなわけない。

 千里は病院に残りたいってこと?

 なんで? なんのために?

 わからない、さっぱりわからない。

 考えれば考えるほど、わからなくなっていく。

 

 ただわかるのは、嘘をついてまでして、隠さなければいけない何かがあるということ。

 でも、それは何?

 本当は何かもっと大きなモノを隠しているのは間違いない。

 でも、千里はその何かを私に隠そうとしている。

 つまり、信頼を得ていない。そういうことだろう。


 私の足は、少しずつ千里の病室から離れようとしている。

 まだ、来ちゃだめなのかな……。

 私の中にそんな感情が芽生える。

 何故だか病室の引き戸を開ける勇気が、その時の私には無かった。

「そうですか……、まあ容体が良くなったらいつでも退院できますから」

「はい、わかりました。すみません」

「いえいえ、そんなことないですよ。森口先生の息子さんですからね」

「あはは、そんなこと言わないでください」

 少しそんな調子で話が進んで、医者がドアに近づいてくるのがわかった。

 私は急いで身を隠そうとするけれど、隠れる場所が無い。

 私が病室の前をうろうろしていると、医者が出てきた。

「何かご用ですか?」

「え? あはは、いや、なんでもないですよ~」

 時すでに遅し、というやつだろうか。

「杏璃?」

 私の存在に千里が気付いたようだ。

 私は少しためらいながらも、病室に足を踏み入れた。

 病院独特の匂いが鼻をつく。

 開いている窓から心地よい風が吹き込んでいる。

 そして、医者が気を遣うように病室の戸を閉めた。

「えっと……昨日、引越しだったんだっけ?」

 千里が微笑む。

 私はその言葉にうなずく。

「あっ、あのねっ」

「うん?」

 千里はニコニコとこっちを向いている。

「さっき、巫礼ちゃんたちに会ったの」

「み……巫礼?」

 千里は首をかしげる。

「ほら、昔、御鷹のお祭りに来たじゃない? 父さんと母さんと千里と私で」

「え……? あ、あぁ。すっかり忘れてたよ」

 千里はふっと笑う。

 その笑顔が何かぎこちない気がした。

 やっぱり、まだ元気じゃないのかもしれない。

「もうっ、ちゃんと思い出しといてよ? 退院した後の学校で一緒になるんだから。向こうは覚えてるんだから、完璧に忘れてたら失礼だよ」

「あはは、そうだよな。もう思い出したから大丈夫」

「本当かなぁ?」

 私の言葉に千里はあははと笑う。

 その時、急に小夜ちゃんの言った言葉が脳裏をよぎった。


 “それで終わりじゃないでしょ……?“


 そうだ、あの話には続きがあるんだ。

 御鷹の魔女伝説。

 これは、千里に告げるべきなのかな?

 でも、退院した後に言った方がいいのかもしれない。

 病みあがりなわけだし、ショッキングなことは言わない方がいいのかな?

 それに、私だって本当の話はきけていない。

 適当な話をしない方がいいような気がする。

「杏璃、どうかした?」

「え? い、いや、なんでもないよ」

 私は千里に、御鷹の魔女伝説について話さないことにした。

 千里はふうっと息を吐くと、再び口を開いた。

「……これから、幸せになれよ」

「え……?」

 私は千里の口から出た、予想もしなかった言葉に驚く。

 話が180度は変わった気がする。

 いや、そんなことより、今なんて?

 

 “これから、幸せになれよ“

 

 どういうこと?

「千里、何言ってるの?」

「え? いや、何でもない。忘れて」

「う、うん……」

 千里は目を細めて、何もない病院の天井を仰いで言った。

 その顔は、どこか寂しそうだった。けれど、その千里の感情に私が干渉してはいけない気がして、私は千里に声をかけることができなかった。

 それからしばらく沈黙が流れた。

 ただ、秋風が窓から吹き込んでいるだけだった。

「あ、そろそろ私、帰るね」

 私は空気に耐えられなくなり、千里に帰ることを告げた。

 そして、私は千里に父さんから預かっていた紙袋を渡す。その紙袋に何が入っているのかは分らない。紙袋の上から触った感じでは、本のようだった。

「また、来てよ」

 千里は紙袋を受け取ると、そう言った。

 私はそれにうなずいた。

 私のその反応を見て、千里は優しい笑みを浮かべた。

 その千里に私は背を向け、病室を後にした。