一年365日ある中で、8月15日ほど生命の営みと、それを紡いできた歴史について、再考を迫られる一日は他にないように思う。

 そして今を生きている人間がその再考から逃げた時、おそらく平和は幻想になってしまうのだろう。


 お盆の最終日、日本は終戦記念日で、韓国は光復節。

 日韓関係が良好だと感じたことなど韓国で生活していて感じたことは一度もないけど、令和元年の日韓関係は過去のどの年よりも群を抜いて最悪ではないかと感じている毎日。

 私の立場で感じることはいろいろあるが、それを言って何かが解決するわけでもない。

 わかっているのは、おそらく大多数の人々は、8月15日をこういう形で記念することを本来は望んでいなかったのだろう、と言うことだけ。

 今でも歴史の真実はベールに包まれていて、一般人がそこに立ち入ることを良しとしない権力と言うエゴ。

 そのエゴの犠牲者は、いつの時代も真実に触れることを許されなかった一般人であったにも関わらずである。

 自分が自分自身を冷静に見つめ、受け入れ、本来のあるべき姿を導き出すことがあまりにも難しくて、架空、幻想の自分の姿をあたかも自身であるかのように錯覚して、それに執着して生きているように、

 国家があるがままの過去の歴史を、冷静に分析し受け入れ、今後のあるべき姿を導き出すことはおそらく至難の技なのだろう。

 結局、国家を構成しているのも架空、幻想の姿をあたかも自身であるかのように錯覚している人間なのだから。

 正解なんてあり得ない、ただひたすらに何が最善の選択なのかを追求する以外に人間ができることなどは無いというのに、

 自己の正当化のためには、ありとあらゆるものを動員してくるこの人間模様。

 それを天から眺めている数え切れない御霊の目。

 それはかつて、望まない死を受け入れることで、愛する者たちをもしかしたら護れるかも知れないと言う、一縷の光を信じ、身を投じた人々だ。


 (奈良、時の雫 保山耕一さんの動画をお借りしました。)

 8月15日、この一日の中の僅かな時間でもいい。

 選択の余地のない、過酷な犠牲を強いられた数多くの御霊に、ただただ静かに手を合わせたい。

 生かされている自分、今も歴史の一部を紡いでいる一人の人間として、何が最善であるかを常に考え、それを選択し続ける勇気を忘れないために。