今年もたくさんの桜を見た。
そして、たくさんの散る桜を見た。
無心に咲いて無心に散る花を見つめる時、それぞれがそれぞれの過去をそこに投影していることだろう。

わたしの中に、散らない満開の桜があった。
それは中学卒業後、15歳で単身奈良県に出て来て、寄宿舎生活をしながら通った高校の、校舎付近の桜並木。
私が住んでいた付近の北海道の桜は、ゴールデンウイークが終わってから咲き始めていた。
なので4月の入学式のあとに桜が咲くなんて、それまでのわたしの人生にはあり得なかった。
その桜並木の満開の様子は、今までに見たこともないない美しさだった。
そして、15歳の春に見た満開の校舎付近の桜は、私の中では、散らない桜になってしまった。

四年間の高校生活の中で、4回の春が巡って来た。
だから私の外側では、確かに4回の咲く桜と散る桜を見ていた。
でも私の中では、15歳の箸が転がっても可笑しい年頃に、まるで能面のような表情で眺めていた満開の桜が、そのまま心のフイルムに傷と一緒に焼き付いてしまっていた。
奈良を出て、大阪で住むようになり、韓国に来てからも、何度か高校生活をした町に行って見たりもした。
でも、もう5分も歩けば行ける高校の校舎に、私の足は向かなかった。
奈良、時の雫の動画の中にも、この町の桜の花の情景を撮影したものが、もちろんあった。
でも、再生しなかった。
いや、できなかったのだろう。
高校を卒業して、3年経っても10年経っても、20年経っても、能面のような表情で見つめた、あの満開の桜は散らなかった。
それほどに、触れたくない過去になってしまっていた。

終わりにしたくてもそうすることの出来ない過去を、持っていないなんてそちらの方が嘘だろう。
何度季節が巡っても、どれほど産んだ子どもが成長しても、自分の中には時が止まったままの自分が何人もいる。
そして、現在の自分と噛み合わずに、苦しい思いを日常的にしているものなのだ。
まっさん(さだまさし)のコンサートを初めて見たのは奈良だった。
その時、確かこの歌も歌っていた。
そんなに有名ではないけど、好きな歌の一つだ。
歌詞の中に、雪の面影をなぞるように散る桜のことが書かれている。
そう、
まるで残雪の北海道から出て来て見た桜はそんな感じだった。
今年は、動画で何本も何本も、散る桜の情景を見た。
そして、あの町の桜の情景の動画もついに再生して見た。(相当勇気がいったけど)
心が乱れて、また、生活に支障が出るかも知れない、
そんなことを考えながら…。

ところが、以外に冷静だった。
そして、今までに感じたことのない安堵感が広がっていった。
15歳の少女が、能面のような表情で見つめた満開の桜が、散り始めた瞬間だった。
散りゆく桜吹雪で見えなくなる、もう一人の15歳の私の背中を、いつまでも見ている今の私。
やっと、傷だらけの彼女を私自身から送り出した瞬間だった。
無心に咲いて無心に散る桜のあるがままが、これからは見えて来ることだろう。
苦しみに胸を掻きむしりながら毎日を送った高校時代。
その全てを見ていたあの校舎の満開の桜を、
無心に眺めることが出来る日も、そう遠くはないのかも知れない。