まっさん(さだまさしファンはこう呼んでる)の歌を何歳頃からよく聞くようになっただろう。

 気がついたら高校生の時は、まっさんの歌を聴かないでいる日はなかった。

 一日のどこかでは聴いていたわけで、あぁ、暗い。

 やっぱ、どこか変な学生だったんだ、と思う。
 
 北海道の実家を離れ、寄宿舎生活をしていた当時のわたし。

 進学の際にもめたことで父との葛藤を解決できないままだったし、

 望郷の想いも重なり、相当、精神的に荒廃していた。

 そんなわたしの横には、いつもまっさんの歌があった。

 今はもう、レジェンドの域の歌手。

 でも当時のまっさんは、映画長江によってできてしまった28億円もの借金を返済するために、年間100回以上(3日に一度以上)のコンサートに明け暮れる日々。

 利子も含めて35億円というのを、コンサートで返済したのだから、😱
 ことばか無くなる。👀

 そのせいか、個人としてのコンサート開催回数はダントツの一位。

 もちろん、現在もコンサート活動を行っているが、チケットはだいたいいつも完売。

 今でも、学生時代に行ったまっさんのコンサートの感動はそのままで、

 あんなに笑って泣けるコンサートは、珍しいのかも知れない。

 歌の感動はもちろんなのだか、あのトーク。

 これから歌うという時にトイレに立つ人がいるらしく、理由をまっさんが尋ねると、

「歌はCDで聞きます。トークを聞き逃したくないんで。」

 ここまでになると、歌手なのか、噺家なのか疑問を持ってしまう。

 実際に落語家の中には弟子に、さだまさしのコンサートに行って勉強してこい❗

 という方もいるのだそう。

 とにかく、歌も多いし、どの曲もすごく味わい深い作品なので、どれがいいなんて、言えるはずもない。

 まほろば、つゆのあとさき、春告鳥、交響曲、檸檬、博物館、加速度、償い、検察側の証人、人買い、安曇野、雨やどり、親父の一番長い日、修二会、風に立つライオン、秋桜、不良少女白書、第三者、祈り、道、etc、etc。

  浮かんで来るのを羅列したので、もし題名が間違ってたらごめんなさい。

 修二会なんて、初めての聴いた時、これを歌にするか〜〜〜😳と思ったし。

 学生時代、テープが伸びるほど聴いたアルバム、うつろひの中の“第三者”。

 ♫死んだ珈琲はさんだままで♫

 この最初のワンフレーズでグロッキー。

 どんな場面設定かすぐにわかる。

 よく、
 よく、
 よく、

 こんな歌詞が書けるよなぁ。

 その頃のわたしは、書きたくても書けないというジレンマ、暗黒時代だったので、

 まっさんの歌詞で代理満足を味わっていたのかも知れない。


 そんな時代が過ぎ、

 気がつけば、

 韓国の田舎道をトボトボ歩いている私がそこにいて、

 そしていつもある歌を口ずさんでいた。

 それが“ひき潮”だった。

 ♫都会の暮らしは鮮やかな彩り

 はなやかな寂しさと夢によく似た嘘と

 そんなものでできている、おかしいほどに

 (中略)

 生きるのが下手な人と話がしたい

 ひき潮の悲しみの中から生まれる

 あぁあ〜夢もある

 わかってくれるならば

 だまって旅支度に手を貸しておくれ

 かえろう、かえろう、かえろう、かえろう

 かえろう、かえろう、かえろう、かえろう♫

 大阪に住んでいた私が韓国の田舎暮らしを始めた当初、

 ♫都会の暮らしは鮮やかな彩り♫

 だけど、田舎の人間関係はくすんでめんどくさっ!とか、

 ♫華やかなさびしさと夢によく似た嘘と♫

 嘘でもいいからさびしさが華やかなであってほしい、とか、

 夢にでも似ていれば、嘘は嘘でもそれでいいジャン、一時でも慰められるジャン、とか

 そんなことを考えながら口ずさんで、

 最後の♫かえろう♫を繰り返しながら、

 “かえる?どこに?私がかえれる場所?どこにあるの?どこにもないじゃん。”

 そして唯一田舎で色鮮やかな天然の茂みに隠れて、誰にも見られないように泣くのが日課だった。

 ♫生きるのが下手な人と話がしたい♫

 わたしの心を、こんなにも的確に表現してくれる歌詞を他に知らない。 

 あれから約20年。

 わたしは相変わらず生きるのが下手な人のままで、

 要領のいい人からはきっと笑い物にされているだろう。

 生きるのは下手だけど、どうして生きてるのかは明確になってきて、

 そうすると同じ歌詞でも感じ方に変化があるから、歌というのは本当に、不思議な生き物だ。

 ♫ひき潮の悲しみの中から生まれるあぁあ〜夢もある〜♫

 満ち潮の時は生命が誕生し、

 ひき潮の時は生命が旅立つ。

 それが自然界の理だと聞いたことがある。

 でも、

 潮が満ちてこれるのは、ひいてくれてるという前提があるからで、

 潮が満ちて満ちて満ちっぱなしになったら、地球はたちまち全部海水になってしまう。

 潮がひいた濡れた砂浜で、

 その砂の感覚や、そこを行き交う生物や、海水に埋もれて見えなかった貝殻や岩を見ていくうちに、

 たまに瓶の破片が転がっていたり、あってはならないし不法投棄されたゴミを発見することもある。

 ひき潮の時だから見えてくるものがある。

 海はなんとなく人の心と似てるように思う。

 瓶の破片は感情という波が動くたびに痛いだろうし、

 不法投棄されたゴミは汚染物質を出し続けるので取り除きたいものであるし、

 自分で自分の海(心)に不法投棄したものなら、なんとかしたいと思えば、自分で解決できるだろう。

 でも、ほかの誰かが投げ込んだものなら、投げ込まれないように、しないといけないし、

 それでも駄目なら、そういう人との距離感を考え直してでも、海(心)をきれいにしておきたい。

 ひき潮の悲しみの中から生まれる夢、

 それを見い出せるようになった時、

 人は、自分自身に還る旅をしていることに気付くのだろうか。

 様々な彩りの歳月を重ねてなお、

 わたしは今日も“ひき潮”を口ずさむ。